2012年10月
2012年10月29日
2012年10月28日
孤独とは有限の境界線のこと
HJ14-01
孤独のかたち
孤独の”かたち”とは有限の境界線のこと。
それは無限のものへと向わせる接線の闇、
そこで留まり、分離されたものが無関係な
空虚なものとして見えてしまう。
一つのもの、分別された対象を言語で
埋め合わすこと。哲学の発生を促す合理性、
どこへ往こうとするのか、思考する。
二つで一つのもの、有限と無限のふらつく
「トートロジー」
無限の空間を掴むとは、意識内部の
出来事を外へと放り投げること。
すなわち孤独の深い感覚に耐え、
じっと観想すること。すると部分と全体が
等しいことに気づく。脱-合理性の変換が
起きる。
闇が光だし、円の中心は一点ではなく、
いたるところにある無限の円、その点である
有限の自己と同時に無限の非-自己が、
生成されてくる。
この運動をとおしてのみ無限の空間を、
直感することができる。しかしそれは
困難で漸近的に、その接線へと近づいて
往こうとする意志の運動にゆだねる。
この意志の運動こそ天体の法則に
従って生きていることに気づく。
地球の呼吸音をきくことができる。
銀河と身体の鼓動が一体となって
包まれる。孤独をいっきに取り去り
その喜びに満ち溢れる。
2012年10月25日
2012年10月24日
2012年10月23日
2012年10月20日
2012年10月19日
2012年10月18日
神話の世界「おおいぬ座」−1
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「冥府の番犬ケルベロス」
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「おおいぬ座」
冥府の番犬
『ケルベロスは甘いものが好きで
呼ぶとすぐ来ます。けれども冥府から
でようとする死者や生者には、
その牙でぼろぼろにしてしまう。
音楽には弱く、詩人オルフェウスは
竪琴の音でケルベロスを
眠らせてしまう』
わたしは、神話とは何であるのかよくわからない。けれどもわたしが描く絵が
神話的であればよいとおもったりする。無意識がなせる業というものがあります。
日常から遠く離れて星座へと到達する何かがあります。それはすでにできあがった
神話のことではありません。
いま生活している社会圏から脱出する身体と思考性の何ものかです。
そして再び日常に戻ったとき、生き々としたものへと変化してゆきます。
それは同じことの反復を遠ざける生成変化へと進みます。ときとして、生そのものを
否定される虚無の星座へと向かうデモニシュなものと戦う強い意志が要求されることが
あります。そんなとき信じることいがいありません。わたしが絵を描くこととは信じる
ことなのです。ただそれだけです。
2012年10月12日
KLAUS NOMI のために「わたしは、ひとつの星座をつくった」−5
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わたしは「KLAUS NOMI 」と三色の文字を書き印た
クラウス・ノミの背後に十字架を描き終わった後に、その遠く遥か
彼方に煌く星座をわたしは描いた。人々は彼の一瞬の閃きと永遠の
時間を共に過ごした、あの狂乱と熱の眩いばかりのライトの
点滅とノイズ、闇黒と一瞬の光をそのクエーサーの活発な遠い昔の
銀河を呼び寄せるノミの姿を
それは革新的なコスチュームで登場したSamson and Delilahだった。
古典的なオペラでアリアを「あなたの声に我が心は開く」を歌った
ノミ。低俗な姿なのか、高貴なお姿なのか、はたまた聖なる姿なのか、
あの官能と性の狂乱に死を携えて遣ってきた。同性愛者ノミ
美しく刹那い声、無限のなかの有限 愛と死を、消え往く身体の星を
歌い上げていた。右上にネオンの人工的な夜の光として、わたしは三色の
文字を重ねKLAUS NOMIと書き印た。上の文字は赤を、そして透明な
マントにも赤を入れ、命がけで立っていたノミの傷跡の印として入れた。
その下の黄色と緑色はそれを支えるものとして記入した。
私たちの銀河は眠りのなかで太陽系に属した地球という小さな
生き物。さらに小さく小さく呼吸している人類、ノミは物質となり、
ひとつのクエーサーとなって輝かせた。官能と死を賭け、
一瞬のうちに駆け抜けて往ってしまったNOMI
決して忘れ去られることのないNOMI、わたしはこの星座を
永遠の印しとして描いた。
わたしはクラウス・ノミのことをいつか書こうとおもっていた。西洋キリスト教の思考と古典的なオペラが、ニューウェーヴ系の音楽とうまく融合していたそのセンスに驚愕していた。ノミの音楽はいつでも生の身体の官能性、愛と死を歌い上げていた。ウォーホル的な死の形而上学であるより、形而下的な身体として性(愛と死)を歌い上げていた。しかも限られた身体の有限のなかに無限の精神を密かにもっていた。キリスト教的な回帰を、原罪と救済というテーマが「Keys of life」のなかに見られる。
ここでいっきにフーコーにいこう。パレーシアのこと「死を賭して真実をいうこと」とは、どのような方法で・・、プラトン的な「魂の形而上学」から反プラトン的な身体と官能のデカダンス・・引き裂かれた身体を受け持つこと。しかし誰がこの身体を受け持つのか・・?主体か外へか、あれでもなく、これでもない、それか(自己と他者の統合)、そこから「「無分別の分別」という言葉がでてきたとたんに西洋的な思考からいっきに離反し、東洋へと向う。フーコーを語ることは仏教的な思考を擱いといて、つまり仏教以外のことを語るすべて。
そんな西洋的な思考を教育され身につけてしまうと、立ち上がれなくなった身体を、どうすれば歩けるようになるのか。落下するたびに跳びあがらねばならないバレーの幾何学的な方法を身につけ始める。しかしそこから近代芸術はその方向性と同時に、デカダンスを背負うこととなる。さてどうするというところで、いまも現代アートはうろうろしている。
第1回目が「西洋的思考のクラウス・ノミ」からはじまり第5回目の今回で終わりにする。わたしは西洋的思考と東洋的思考の相違をボート眺めてたいただけでアート行為をしていた。しかしどうも何か息苦しい、この窒息状態をパンクロックの人々は叫び、身体の開放をストレートに表現していた。しかし生成してくる身体の法則を再び無化してしまう。機械のような身体であった。
そのような行為は芸術的な表現に参加している人々からはあまりそれを感じることはなく、むしろニューウェーヴ系の音楽から多くを感じていた。そのなかの一人がクラウス・ノミであった。わたしは彼の音楽から受ける感覚を言葉にしてみようとおもった。
そこに大きな問いが、社会と身体(キリスト教的な歴史認識)愛と死、性と官能、あらゆる問いがフーコーと重なりあってくる。西洋による西洋の思考とは何か・・・という問いであった。それは東洋人にとっての西洋的思考とは、という問いでもあった。わたしは西洋的思考と激突することなしに、うまく融合する表現を探し続けている。その延長線上にどんなアーティストがいるのか。たぶんトリスタン・ツァラをわたしはおもいうかべるだろう。トリスタン・ツァラは何かを終焉させたかったのだろう。
ボードレール、ランボー、マラルメ、絵画ではマネがいる。彼は何も描いてはいない。何も・・・
2012年10月06日
クラウス・ノミ「KLAUS NOMIを偲んで」−4
HJ10-01A
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Drawing in
The cold song
わたしは遠い天体の方へ往ってしまったクラウス・ノミを偲んで「The cold song 」の詩をイラストのなかに書き記した。想えばクラスス・ノミの音楽を最初に聴いたのは「Keys of life 」だった。異様な美しさを感じた。何かが終わったような静寂があり、非常に神秘的な音楽だった。どこかもの悲しい響きがあり、中世ゴシック建築の教会のなかで聴いたら、もっと感動するだろう。この音楽に込めたメッセージはキリスト教的な原罪と救済というイメージが喚起されてくる。
Keys of lifeの詩のなかにある、--From ancient worlds I come. To see what man has done--、太古の世界からというフレーズは原初的な人類の、Keys of lifeはどこに、この深い疑問と歎きを感じる。都市化された思考の果てに---何処へ。ノミは救いをもとめている。人間は何処から来て、人間は何処へ往くのだろうか。最後の音は空間に反響して融けていくように静かに散って往く。終末をむかえた都市に何かがはじまる。そこにあるのはただ静寂と、地下に消えてしまった人類の痕跡。
--The future has begun--
「The cold song 」の歌は、ノミの意志のすべてがあり、暗黒の身体のなかに、幾何学的な骨組で支えられた透明なマントは、すでに光と化するノミの身体の化身のようにおもえ、消え往く恒星の最後の光をおもいだす。太陽の光より遠い暗黒の空間に光る恒星の光りだった。一瞬の光のなかに永遠がある。ノミはそのような光をもっていた。そのときノミの姿は、すでに向こう側に往ってしまた。私達の手の届かないところへ
---Let me freeze again to death--
官能と冷たい狂気の死を一生懸命歌っている。この歌を終わったあとに手を合わせて、お礼の仕草をしていた。感動せずにはいられない。
「Wasting my time 」では消費していく身体と意識がどんどん無化してしまう。その無常を切々と歌えあげている。そしてそれを支えるのは愛、きみなしでは生きて行けない。神という響きさえ聞こえてくる。
上記掲載画像は「The cold song 」を歌っている姿を急いでスケッチし、
その詩を添えたもの。そして性と死、無限の愛を希んでいたクラウス・ノミの
姿の後ろに十字架を描き、それが遥か彼方からやって来る恒星の光の
便りであるよう描いた。同性愛者クラウス・ノミ 1983年AIDSにて死去
享年39歳 合掌
2012年10月01日
クラウス・ノミ/KLAUS NOMI 「デカダンスその愛と死 」−3
クラウス・ノミの「The cold song 」を聴くとワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」をおもいだします。マリア・カラスより特にA・ヴァルナイの「イゾルデの愛の死」を聴くと感じます。
ノミを語るとはどのようなことか、古典と現代のあらゆる芸術の形式をそこから読みとれる。ではそれが芸術かというと、そんなものにも収まらない。また大衆音楽かというと、そうでもない。彼の伝記はまだ書かれていない。あるいはわたしが知らないだけかも知れない。ウォーホル、メイプルソープ、キース・ヘリングなどはすでに多くの伝記が出まわっている。ノミはごく一部の熱狂的なフアンの人たちに広まっていった。
1983年彼がAIDSで死去してからしばらく忘れ去られていた。しかし2005年に彼の伝記映画「The Nomi Song 」が制作されている。その感動は決して忘れ去られるようなものではない。わたしはノミが音楽ばかりでなく、ひとつの物語を視覚的に一瞬のうちに見せるパフォーマンスアートとして見ると、最高峰の表現を持っていると見ている。しかも芸術とはいえないあるもの。そんなふうに見ている。
つまり欲望する機械の視覚と音楽の言表行為、--社会の係数がそこにはある。たった独りの現代の楽劇、まさにこのことが主体内部のノミのものであると同時に、それらは無限に離反した情報の波、一つの記号体である。この記号体(身体)は欲望する機械を破損することのデカダンスである。歯車自身が回りながら、歯車を破壊する。集団的アレンジメントがノミを形成すると同時に、それらの外にでてゆくこと。離脱、恐らくこの行為は狂乱となった、ひとつの身体を提供する。それこそが芸術とはいえないあるもの、わたしはそこに注目する。
4年前の2008に現代美術の作品が集結した「横浜トリエンナーレ」は、集団的アレンジメントのパレードを見るおもいはするが、外にでてゆくことの感動と狂気を秘めた非人称行為の人体の傷をノミほど感じなかった。ノミの音楽は、良いものか、あるいはそうでないのか、区別さえつかない。これは芸術でさえない。まさにひとつの機械だ。しかもそれがわたしを深く感動させた。音楽だからという理由だけではない。芸術とは、という理由よりもっと別なところにある。