2012年09月

2012年09月27日

クラウス・ノミとフーコー「西洋的思考としての生と死」−2

束の間のお祭りであったヒッピーカルチャー終焉後の1980年初頭は、ニューヨークの街を見るとすでに金融に向って動いていた。拝金主義の市場原理主義たちが、かつてのヒッピーたちを馬鹿にしていた。ウォール街のビルから見下した人々がいる。いまでも地球規模でマネーゲームが行なわれてる。ヒッピーカルチャー2012年から見ると、目に見えない哲学を提示していたことがわかる。それはきわめて古典的な問いであることに気づく。制度とは、競争とは何か、利益とは何かという問いだ。嘗て人類史上ないほどの規模で数パーセントの人々が投機目的で全地球の資源を食い荒らしている。人それ自身もたんなる投機で人間の誇りを取り上げている。人間は人間自身を滅ぼす機械が作動している。この機械は止めることができない。機械自身の破損によってしか止まらない。つまり人間をやめること以外に道はない。もともと地球上に人類は存在しなかったのだし、また再び地球上から消滅していくだろう。「地球のすすり泣き」に耳をかたむける。そういう人々がどこかにいる。神話にすがりつく人類学者たちの「悲しき熱帯」をわたしは思いうかべる。

しかしこの機械に自らの命を賭けて破損しようとする人がいる。それを狂気というのなら、投機目的で人間の尊厳を破壊する人々は暴走機械と化した人類消滅の機械ではないのか。これは狂気を超えた恐ろしい機械だ。そんな機械をまえにしてアンダーグランドでは身体の自由を求めて官能エクスタシーの狂乱がはじまっていた。そのなかにひとりの哲学者がいる。それはフーコーではなかったのか。思考と身体のこと、その真理を、制度と歴史を追い求めえていた。通事的なものと共時的なものの言語と身体。しかしこの厳密な思考としの身体とは何か・・あくまでも西洋的思考であり、西洋的思考のなかで生の出来事を見ようとしていた。あのマネの絵画ね・・・という沈黙の声がフーコーから聞こえてくる。ギリシャへと飛んでいったフーコーパレーシアのことだ。マネの絵画本質とは何であるのか、どこに真理があるのか。分割不可能な沈黙、こう言ってよければ、ではないのか。これこそ真理の沈黙と言えるような何かがある。フーコーチュニジアで講義して以来マネについてはなにも語っていない。沈黙のままこの世から去ってしまった。

わたしは東洋人なので分割という概念はいっきに「無分別の分別」という日本的霊性に身体が動く。宗教ではない宗教、
Buddhismのことだ。トリスタン・ツァラdada宣言からわしはそれを読み取る。ボードレール死後51年後に書き記された1918年のダダ宣言だ。無宗教の空無の真の力、「ほとんど仏教的な無関心の宗教への回帰」というやつだ。キリスト教的時空から遠のいた東洋へ手を差し伸べている。そこまできていた。

それにしてもボードレールの晩年の眼は哀愁と憂鬱、無限の愛から遠のいてゆく深い悲しみがある。キリスト教的霊性の愛と憎しみの入り混じったボードレールの顔を見ると「そうとうしんどいなー」というところから近代の思考がはじまった。そんな顔貌性をしている。デカダンスの美学社会機械を止めること。身体を張って歯車の一部であることを止めること。「悪の華」や「パリの憂鬱」はいまも別の形で生きている。クラウス・ノミも死を抵当に身体を賭けていた。キリスト教的霊性を望んでいたのではないのか。

まさにノミ1980年初頭の性と時代の表現であった。翻って考えて見るとクラウス・ノミ20世紀後半の新たな病に、最初にAIDSで亡くなったアーティストであった。いまならフーコークイア理論で論じられることも可能であろう。キリスト教の歴史は性の真実に多くの禁止と、それを悪と考えていた。しかしバタイユを見ると、帰ってカトリックマリア像が浮かんでくる。「眼球譚」では非常に美しい描写がある。超越的な母性的な逃げ場を、内在的にもっているとさえおもえる。ジュール・ラフォルグは明に聖母マリアだ。やがて宇宙的な官能的世界へと昇華してゆく「地球のすすり泣き」とはクラウス・ノミの「Keys of life 」、「Cold song 」そしてに帰する「Wasting my time 」この3つを感じてしまう壮大な詩だ。

クラウス・ノミはこの「地球のすすり泣き」をたった独りで現代の楽劇を演じていたのだった。ニューヨークの人々は彼が21世紀への来るべき時代の予告を演じていたのに気づかなかった。1979年彼はマッドクラブに出入りする人々に、この狂乱の姿を見せていたのだ。一方フーコーは渡米するたびにサンフランシスコのゲイのパーティーに出入りしていた。アメリカに移住しよとさえ考えていた。芸術とはいつもこの性の問題に直面し、社会現象とこの性と身体の問題を関数の上で賭けしていた人種だ。19世紀中頃からはすでに宗教絵画はなくなり、近代資本主義の思考が台頭してくる。ボードレールはあらゆる意味で近代の思考を身体で受け止めていた最初の詩人であり、後にはランボーマラルメポール・ヴァレリーが、アメリカではすでにエドガー・アラン・ポーがいる。自然科学の発展と資本主義の関係は、そのまま上述のようにポーからボードレールマラルメ、ヴァレリーへと受け継いでいる。

当然社会、文化、あらゆるところでその矛盾と原理が身体を痛めつけている。ウォーホルアートを見れば、欲望する諸機械の身体を見ることができる。これはジョルジュ・スーラの「グランドジャット島の日曜日の午後」を見ても、すでに資本主義の足音が聞こえてくるのが読みとれる。クラウス・ノミキリスト教的な原罪を背負っている、アダムとイヴの追放以前の太古の世界からやって来た「Keys of life 」か、わたしはそんなふうに感じている。

 

補足:
クラウス・ノミ
について書き足りなかったので次回も続けようとおもう。
ボードレールの散文詩ワーグナーの無限旋律などその関連性を述べようとおもう。上記の記事は通時的にみると同時に共時的にみるためのサマリーとして書いた。すべてがマトリックスのように作動する原理としのアートを、そのダイアグラムディスクリプション的な意味で書いた。視覚的なものに変換するためのものです。

最後にノミカウンターテナーの声を「Wasting my time 」、「The cold song 」を聴いて見て下さい。youtubeで聴けます。ノミはあらゆる要素をとりいれて表現しています。オペラ、テクノ、ニューウェイヴ、デスコ、ダンスなど。ひとを感動させる官能と欲望する機械、それにをもって応えていました。いまでもその感動は少しも変わらない。またカウンターテナーに興味のあるかたは、ジャルースキーJaroussky )がヘンデルの名曲アリアLascia Ch'io Pianga 」をものすごく美しい声で歌っています。



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