2012年07月

2012年07月22日

人体の夜「消費のなかに物語をつくりたがっている」−5

CB07-10A

天空と炎A

 

 

 

CB07-10A
炎と男

 

 

 

 

 


 

感覚を”かたち”に変換する形式をつくること

どんなひとでも動かす方向性をもっている。それは意志したこととは無関係に作動している。機械を動かしている本源は分からない。どこから私なのか、そうでないのかその区分ができない。見えない系のなかで私たちは暮らしている。分節化することによって世界が見えはじめる。しかしそれが、どんな世界であるのか全体をつかむはできない。たえず溢れている。この溢れでたものをまたすくい上げる。そして分節化する。こんな繰り返しのなかで生活している。自然科学の発展をみるとよく分かる。物理学ではそれを数式として表現してゆく。数学対象をもたず、それ自体を対象として思考する。物質としての対象を思考すると、物理学となる。

さてとは、論理とは何でしょうか。思考することの喜びがなければ、ひとを動かせないし、感動もしない。知ることの喜びとは、学ぶこと。いったい何を学ぶのか? そこから物語をつくる。潜在的に数式のなかに、物質のなかにあることに気づく。かならず表現されたものには、その方向性がある。学ぶとは、はじまりであり自己を通じてその物語をつくってゆく。ついには個性的でありながら、普遍的なものへ、C・Gユングのいう集合的無意識から元型へとつながる。しかしどんなものでも宗教的であり、芸術が宗教的でないらなら、それは相当深刻なものを含んでいる。意図的に排除し商業主義的に物語をつくろうとすると、無関心な機械へと変身してゆく。

ウォーホルアートが20世紀後半の最大の危機的なアートである訳はそこにある。つまりアートが現代社会の深刻な状況を告白的に表現しようとおもうと、たちどころにその病を背負ってしまう。ひとりでは無理でしょう。身体をそこに溶け込ます。機械のようになりたい。自己放棄、成りすましが精一杯のアートだ。その社会的な状況から成りすましフィギュアアートをつくる。これは日常的な消費と深く関係していることはいうまでもない。つまり消費生活のなかに物語をつくり、ひとはそれで意識(無意識を含め)を、イメージを形成させる。自己ベクトルが”かたち”つくられる。集合的無意機械を、シミュラークルをつくる。その元型は不在だ。つまり不在であるがゆえに、いっそう消費する意識のエネルギー消耗をそれで補う。擬似的(シミュラークル)円環運動快楽放射が行なわれ、欲望を生産する。

そこからでてくる文化が純化され、偉大なシミュラークルをつくれば、『千利休』の茶の湯のようにバーチャル空間をつくる見果てぬ夢を現代に復活させる。このようなアートアートではなくなる。自己ベクトルをもたせるよう、形式がついには宇宙の体験となる。元型に行き着く場を設定する。この設定こそがアートになる。『建築する身体』というとんでもないを思考していたのが荒川修作ではないのか。「切り閉じ」を形式化すること。形式形式を破り、出来事をつくりだすこと。つまりランディング・サイト配置を設計すること。この設計はもの身体に反応するのか、身体ものに反応するのか、その間を思考する瞬時の身体であり、気づきの全感覚の参加を意味するようなもの。これは芸術ではないでしょう。むしろ舞踏に近い。行為する身体は限りなく神話に近づく。わたしの思考物語をつくりたがっている。パンドラの奥底に潜んだもの、希望の原理

画像掲載(CB07-10A:炎と男)は炎のイメージが自然に出てきたので描き進めてゆくうちに出来上がった。人体は白紙の色のまま残した。あらゆるところでエネルギー変化による変換が起きている。エネルギー全体の総量は変わらないとは限らない。人間の細部をどんどん分割すれば、量子論にいきつく。DNAの構造が分かったからといっても、思考するという行為は依然謎のままだ。その源泉がどこからやって来るのかということ。そこから物語がはじまる。

神話の世界とは天と地、そのエレメントが関係しているが、太陽は地球にとっての生命のエネルギー源であり、たしかにプロメテウスはそれを盗み追放されたが、人間に恩恵を与えた。しかしをもらったことがよかたのかは、いまだ結論がでていない。銀河から太陽へそして地球に火をもたらし贈与されたそのが。

ヒトはその恩恵を受けた分だけ、再び火を天体に帰さねばならない。この消えることの恐怖がヒトの心のなかに潜在的にある。希望の意志と喪失の恐怖がある。しかしこれは避けてとおれない。共存する道をつくってゆくこと。生と死の出来事のなかに。それが神話の一歩であり、供犠のなかにつくられる。喪失することの、消滅する生産を贈与のなかで行為される。それを達成するには、非-欲望の生産アートに組み込まねばならない。消費社会欲望する機械を生産するばかりだ。そのシミュラークルを生産するアート欲望する機械の下請け工場の歯車の一部となっている。それが現代アートだとしたら、わたしはそから遠く離れたい。しかしピエール・クロソフスキーは、ずいぶんと近いところにいる。欲動の記号源泉を求めてダイアグラム化した彼の描く絵は興味深い。

 

補足:
わたしの「人体の夜」の連載はまだ継続してゆくつもりだ。
土方巽-はるかなる視線」と連関しているので、合わせて
読むことをお薦めする。わたしの頭のなかでボートとしていた
イメージ何とか言語化してみたい。そのおもいで書き出した。
すでにわたしのなかである元型みたいなものがあり、それを
たどりながら書き記した。「人体の夜」とは言語化できず、
隠された星座の煌きをもった、太陽の光であるより遠い天体
追憶のような身体をもったもの。白日に晒されるものではない
元素、その集合体をもった秘密の空間を現出させるとき、
人体の夜」となってその元型をみせる。それは神話でしか
あり得ない。現すことができないシミュラークルとして再出現
させる。しかし肉体は掠め取られている。そのとき大いなる
消費が、神に抱かれる夢想を、希望の原理が出来上がる。
パンドラの奥底に潜んだもの。

 



2012年07月14日

人体の夜「エロティックなもの」−5

AK1501C-6


Love



 

AK1501C-6
錬金術師の
秘めたる意志

pencil on paper
29.7 x 21.0cm

 

 

 


 

隠されたもの

意志はエネルギーの物質的変化であり、
エロティシズムはその喚起弁である。
位置エネルギーは、大地の眠れる
胎児であり、銀河は大気を通して火を、
その欲望を送り込むポンプである。

情欲するものは、カオスの波
共鳴させ、内部のモナドをシステム化し、
系として作動するものへ。

このときシステムはすでにカオス
取り込み、崩壊の途へと向うエネルギーを
放出することとなる。その熱量を交換する
錬金術師の行為は、無窮の永久運動を
夢見る思考のファンタスムとなる。

 

わたしは「人体の夜」を何回かに分けて少しずつ述べるようにしている。上記に掲載している画像(AK1501C-6)は、わたしの人体デッサンのひとつであるが、描くという行為は表現以前に内部意識の深さを、世界との関係性の深さを見せるもので、表現された表面ではない。しかしデッサンは特に線が勝負なのでかなりの訓練を必要とする。一本の線を引くにも、その線の個性を見極める力を養しなわなければならない。職人の手と思考の深さがかみ合って、はじめて見える”かたち”になる。イメージはその案内人である。これが乏しいと、たんに綺麗に描かれた対象の再現化でしかないものになってしまう。イメージはどこからやって来るのか、数学的な原理を求める厳密な抽象性に似ている。

 



2012年07月10日

人体の夜「ポーとマラルメ: Le Tombeau d'Edgar Poe」−4

GH109-01

星よ再びA

 

 

 

 

 

 






  

 

「*1地上に落ちた静寂の塊よ

すべての思考の終着駅は天体の原理に
行き着く。ポーの「ユリイカ」は、地上の
あらゆる苦悩を叡智に仕立て上げる。

この創造の原理は、あらゆる人々から
見捨てられ、その苦悩の宝石を暗黒の
底からでてきた永遠のイデーに変換し、
思考の星座へ導く。

わたしは落下した隕石に落ち葉を
添え鏡に映した。

「*2敵意に満ちた土と雲の、
おお、苦悩をもって!
」美の塊を
あの星座へと再び帰したい。

 

参照:
マラルメ詩集/訳:加藤美雄
発行/昭森社 1974 8.30
「注*1:page196の第4節、
 注*2:第3節」を引用

わたしは身体のデッサンをすると、深い闇の世界が見えはじめるのに、躊躇していた。しかしある法則が影のように付き纏っていることに気づきはじめた。物理的な現象を、物理に表現するとこはできない。ものそのものという表現は妄想でしかない。すでに汚染された思考の、あの社会機械のなかで身体は動いている。奇怪な鏡の宇宙を覗いているに過ぎない。この絶望の果てに、形而上的な宇宙の法則を思考せざるを得ないポーの詩に驚嘆する。

それ以来わたしは厳密に人工的な言語の鏡を、視覚化できる方法論を求めはじめた。それはマラルメであり、デュシャンということになる。それは思考の錬金術となり、物語をつくる神話への道に通じる。ポップアートから、現代のアニメ的なフィギュアをつくる行為に至るまで、すべて物語だ。ひとは物語を必要としている。日常的な出来事のなかにも物語はある。物語は高尚である必要はない。生きる力を与えるリトルネロとして見る。神話や物語を特別な出来事として見るのは、その研究を専門にしている学者たちだ。ウォーホルアートですら、神話であり、ひとつの物語だ。

 



2012年07月08日

人体の夜「ピカビアの多面性」−3

BH04-01yell2/メタモルフォーゼ

メタモルフォーゼ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピカビアの多面性

ピカビアとはいったい何者なのか、それはということを
自覚していた画家だ。トリスタン・ツァラのように、空-無
飛ぶというより、そこから飛び降りた生のエネルギー
”かたち”に変える、エロスメタモルフォーゼ、
機械
でさえも。

だから着地点はその結果に過ぎない。
どんなところでも降り立つ。それ自体がスタイルとなる。
つまり場を持たない表現だ。それは空-無から変身した
エネルギー。その着地点とは、現れた場でしかない。

つまり意志のエネルギー態だ。このエネルギー態
エントロピーの増大に加担する。現れるとき秩序という
姿を見せる。そこには絶えず無常がある。つまり常に
というやつだ。表現方法はどんなものでもよい。

同じことを繰り返さない。しかし宇宙の法則を決して
外さない。なぜならエネルギーの法則に従順だからだ。
無秩序から秩序の回転を見せるエロティシズムの
機械
をもっている。

それが人間という宇宙の機械をピカビアは見せる。
最初からカオスに回収された姿を見せている。
すこしも変わらないスタイルを意志のなかに持っている。

その意志は無関心の意志、その苦しみの計算機を
携えて思考するピカビアは、「心の内部の消耗
すなわちエロスに抱かれる、タダdadaではない。



2012年07月02日

人体の夜「フランシス・ピカビアのこと」−1

HF1-01

moving force

 

 

HF1-01
「人体の夜」
地球生成装置

 

 

 

 

 

ラビリンス

意志なるものはつねに待つ
見出すことなく 欲望を。
クラッチは情交の不在を
激化させる。
夜に向う傷口は
反省を冒涜している。
あるものはただ疑わしい
無関心のみ。
僕は苦しむ
無関心を知っているために
絶えず自分自身に乗り出してゆく
凡庸さ それは
水平線が僕の感情の
視線を引きつけるということ。

参照:
母なしで生まれた娘の詩とデッサン
フランシス・ピカビア
訳:鈴村和成
「ユリイカ 1989/発行 青土社」

わたしは必ずピカビアの詩を見て、また絵をみてスタイルを持たない、同じ絵を描き続けない、技巧に走らないという3つのことを念頭において日常を暮す。静かにカオスと測りえる程に持ち続け、生活をしてゆくこと。絵画生活の習慣病をしない。これは結構しんどいけれど、生き方としてはわたしにあっている。いつでも放棄と無関心でいられる。描くということは思考すること。詩を描く行為であって、生そのもののなかに現れているけれども見えないもの、その波動を感知し、見える記号に変換してゆく。この仕事が結果的にアートとなる。それは、すなわち「人体の夜」のなかに光を感じ取るとることです。ピカビアの光は神秘に満ちている。宇宙の暗黒からやってくる見えない光と、太陽の光が反射され、その合成された化学変化の暗号を見せる。それは遺伝子の元素の光である。地球生成装置の機械をつくる。



2012年07月01日

流動的な空間「急速に落下するカオス」

DJ30-03a

流動的な空間の声

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

流動的なもの

わたしは流れる かまうものか
そんなものは直ぐに崩れる。
ほら見ろ、緑色のことだよ。
しかめ面した、情けないやつ。

誰かが支えねばならない。
水平線のちょつかい、
言語の失速、描きえぬものの、
見えないものを見る直感。

描く行為より予感の終わりに
急速に落下するカオスの滝
その下に空洞ができる。
官能のトンネル、柔らかい肌。

見えないものの白いカーテン、
極薄の膜、触れた瞬間に遠のく。



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