2012年06月
2012年06月26日
ドビュッシー「呼吸する地球の光と惑星」
HF27E-0S惑星
最も美しい地球
わたしは嘗て地球に棲んでいた。しかし氷河期を向え、
あれほど栄えていた地球もいまでは氷に蔽われ、
その下には1千メールをも超える鉄骨群が眠っている。
わたしは別の惑星から地球を見ていた。太古の地層を
見せる地球が美しく光っていた。人類の誕生は700万年
あるいは20万年前、46億年の地球の歴史から見ると
あまりに短い。
人生はそれから比べるとなきに等しい。
わたしは誕生していたのか、それとも眠りのなかで
夢をみていた、束の間の出来事なのか。ドビュッシーの
「月の光」とは、いまでは地球の光。
氷の反射がこの惑星からキラキラ光っているのが見える。
地球の小さな生き物たちの声が微かにきこえる。
2012年06月25日
現代アートの非-人称的メッセージ
AK0107_4/多くの同じ人々
「ビジネスといわれる物」をガジェットのなかにコンテンツとしてもぐりこませ、無数にコピーされ分散されて自動的にアグリゲーションされたものを見る。その収益をどのよなシステムにすればよいか思考しつづける。すべてが広告、私自身も広告の一部で、アートも広告。非-人称的なメッセージで人々が最も反応するものをつくること。それに反応し、五感を通して感覚器官に作用させたので、それはアートだ。もともと無いものだから、無いものに反応するから、そこにあるものとしてイメージが脳内でかたちつくられる。あるものに変換させてくれる。しかしもともと無いものだから物語をつくる。ひとは物語を必要としている。
芸能スキャンダルは物語だ。ひとは高尚な神話より身近な物語を感じて生活している。私はコンピューターのなかで生きている。コンピューターは私を分離する。私を分離したがってる。他者の声を多くの人が聞いている。他者の声と自分の声が分からない。領主が誰だか分からない。本当に偉い人を決められない。「お金が無ければ、誰が偉いのか分からない」このウォーホル的な言葉、ひとを判断するのはお金と権威。
ひとの心は分からない。それを分からそうとするのは、もっと大変だ。いちばん分からないのは悟っているのか、そうでないのか判断すること。だから判断できるよう沢山のコンテンツを頭の中に詰め込む。そうすると分かった気がする。哲学が終わらないのは分からないからだ。多読しているひとはそのコンテンツのなかのものを取り出して語る。それに対してなるほど、とおもう。そこに自己がすんでいないので分かりやすい。自己がすんでいない社会を取り出すアート。その動いている社会をコピーしてビジネスアートに仕立て上げたウォーホルがいる。
エルビスやモンローは社会に写る表象の表面のパッケージ、その裏には不可視のコピーがある。映し出された社会の出来事や事故死したものの背後が見えない装置、乱反射の出来事の機械をつくる形而上的な死がある。死ぬことができない2重の反転がある。ついには類似物の不可視のブラックホールがウォーホルの影となって現れる。そのときウォーホルの身体の仮死性の姿を見ることになる。肖像画を写し取る行為の神格化を消滅させ、社会に浮遊する言語のコピーと化する。裏の無い死
その出来事は無-対象の対象化であり、内部意識というべきものは、自動的にアグリゲーションされた散乱物を見るたんなる鏡の言語である。ウォーホル的にいうと「表面だけであり、裏はない」この意味こそフーコーの「表象は純粋な表象関係として示されることができるわけである」しかしである、ウォーホルはそれを更に反転させる。社会を投影したものの鏡は、社会を投影したものの反射でしかない。純粋な表象が空虚なものへ絶えず投げ返される。恐ろしくブラックホールである。ウォーホルのアートは天体の星座へと近づく虚無の星座をもっている。死を貯金する生の消費の世界である。エントロピー増大の宇宙へと参加する。
2012年06月18日
カオスの窓「アンリ・マティスのリトルネロ」
FH19-01
アンリ・マティスのリトルネロ
カオスをメロディーに。窓とは取り入れ口であると同時に出口でもある。呼吸するリズムをつくり、無化する時間を有機体化する生命の切と閉じである。膜をつくり内部のかたちを保つ。無を無化するためのアートではない。カオスを取り込みリトルネロが生まれ、暗黒から生きる喜びへ解放してくれるアートはマティスだ。マティスにはリトルネロがある。ピカソは意図的にそれを排除している。ところが落としどころがないサーカス的なアートだ。ひとはそのサーカスを観て圧倒される。自我あるいは自己というものの無明の表現の達人である。宗教的な要素がなくてもアートが可能である。いまでも美術を志すひとの教科書になっている。男女関係のノイズがストレートに表現されている。そうするとどうしても無というからだの表現になる。よりどころのないからだの表現から、それを見てカオスへと接続されるその凄さかなと。
それはリトルネロとしてのカオスが不在であるがゆえに、またしても無というカオスの淵に落ち込む。そのトートロジーをやり続けたひとがピカソではないか。そしてピカソはその淵を見せることがアートだと断言している。わたしはピカソの絵を見るにつけそんなふうに感じる。わたしはこのトートロジーから開放する方法をマティスから学んだ。あれほどカオスを見ていたひとが、なぜ装飾的な絵画へと移行したのか疑問に感じているひともいる。しかし最も装飾的といわれている切り絵のなかで、「イカロス、1947年 ジャズの挿絵」は、最も美しいカオスの淵だ。そこには宇宙と生命がある。
しかしマティスもピカソもカオスの淵を見ているというおもいは共通している。そこからお互いに認めあっていたのだろう。わたしは初心にかえってマティスの断片を収集しイメージ化してスケッチした。これを平面と立体のミックスしたボックスアートふうに仕立て上げようと構想している。そのスケッチ(HF19-01)をお見せする。プロセスを公開するのは、かたの決まっていないダンサーの振り付けをみせるようで気が引けるが、その思考状態もアートのうちというこでスケッチを掲載した。
2012年06月13日
2012年06月09日
印象派の絵画「近代科学の思考と社会」−2
どの国でもその時代によって社会をどのように見ているかは、絵画を見ると、目に見えるかたち(Forme)として表現されている。特に西洋では、視覚的に表現された絵画はキリスト教の見方の変遷でもあり、分かり易い。西洋を理解するとはユダヤ=キリスト教の父性原理を考えると非常に厳しいものがある。日本的な母性原理からみると、ゴッホはなぜあれほどまでに厳しい生き方をするのかと惑ってしまう。しかしこの思考の相違が日本人にかえて深い感動と共感を覚える。事実わたし自身、西洋的な思考で物事を見ている。概念あるいは体系というやつだ。西洋的な父性原理は息苦しくなってくる。どうでもいいではないか、というところがない。そこで自然科学は発展するが、無意識という領域では東洋の方が深く追究している。
HF1-1/Sisley
朝の日差しを浴びる
モレの教会
1893年
油彩 カンヴァス
80 x 65cm
ヴィンタートゥール美術館
HF1-2/Monet
ルーアン大聖堂
1893-94年
油彩 カンヴァス
100 x 65cm エッセン
フォルクヴァング美術館
HF1-3/Gogh
オーヴェールの教会
1890年
油彩 カンヴァス
92.5 x 75.0cm パリ
ルーヴル美術館
19世紀になってその問題がではじめる。いわゆる産業革命と意識の問題、そこからボードレール、ランボーからニーチェにいたるまで神という原理にどのように対応してきたのか、思想的なものが身体を支えていたのだろう。その思考が西洋文化を長い間だ保ってきた。思考が身体まで浸み込んでいる。そこから離反することは大変なエネルギーがいる。精神が分裂してしまう。そのはじまりがボードレールあたりからでしょう。神とこころの関係から、自然科学の発展とともに精神と物質の関係へと移行してゆく。自己の確立をどのようなかたちにすればよいのか。そのことを絵画で見ると、マネからはじまりゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、スーラなどモネも入りますけれどいわゆる印象派という画家たち。日本人が大好きな印象派です。西洋的な思考の葛藤を感じる最初の絵画でもある。そのような見方をすると教会を描いた3人の画家たちは、大変興味深いものがある。そこでどのような相違があるのか見てみる。
シスレー:
前回述べたようにシスレーの絵はこころの中に大気が溶け込んでいる。このモレの教会はモネの「ルーアン大聖堂」と比較され低く評価されている。古典的で革新的な要素がなく平凡な日常であるという評価か。それは美術史的な見方でしょう。しかしシスレーは光学的な光の反映であるより、見たとおりの感覚を描いている。筆触分割法(色彩分割法)により瞬時に捉える自然のフォルムは、大気の感触がそのままカンヴァスに塗りこめられている。自己と自然との関係を守るためにパリには留まらなかった。都市化された思考を嫌った。
ゴッホの不安定さ、モネの光の反射の印象からくる非-存在性と比べるとシスレーの教会の建物は安定している。そこにいる人々も教会の建物とマッチし、静かな空気が流れている。日常的なささやかな出来事を描いている。目に見えないないところでは壮大なカオスがそこにはある。東洋的な見方をすると無常感というものがあり、非-自己的なものがある。その生き方を貫くにはパリから離れ自然の風景を描くためにモレ・シュル・ロワンなどセーヌ湖畔の町に住み、生涯その風景といったいとなった精神を描き続ける。
モネ:
モネの絵は視覚的な作用を促す印象派という物理的な反射の網膜絵画、そんなふうに感じる。そのイメージの追究で脳がクラとする部分がある。それをどんどん抽象化すると現代アートのブリジット・ライリーかなと。ライリー自身はスーラの影響をうけているといっているが、むしろモネの方にそれを感じる。スーラはわたしにとってはコスモロジー的絵画だ。デュシャンによればスーラは網膜的絵画ではないと言っている。印象派のなかでは特別な画家であるとわたしはおもっている。風景を装置のように思考している。スーラのことに関してはダイアグラムを作成して詳細に論じて言います。「アニエールの水浴その構造図−3」をカテゴリから参照してください。
ヴァン・ゴッホ:
際立ってゴッホの表現方法が自我と自己の関係を追求している事がわかる。到達地点がいったいどこなのか、その意識の彷徨性が社会機械と深く関係していることに気づく。現代もその問題はすこしも変わっていない。社会問題とは、あのアルトーが書いた「社会が自殺させた者」というゴッホ論だ。ここからいっきに「器官なき身体」という奇妙な概念が見えてくる。キリスト教的な思考が近代科学の発展と産業構造の革新的な変化によって心を脅かされてゆく。すでにボードレールは「昔のパリはもう存在しない」と詠っている。西洋的な思考の根幹であるユダヤ-キリスト教の原理とどう調和してゆくのか、悪戦苦闘しているゴッホがいる。ゴーギャンはタヒチへ、ランボーは詩を放棄してアフリカへ。自我あるいは自己とは、この問題を個人として支えるのはあまりに荷が重過ぎる。
ゴッホは神から火を盗もうとしたプロメテウスか。アルトーはそれ自身で成り立つ自立というとてつもない思考を、思考していた。ゴッホの「オーヴェールの教会」をだれが支えているのか。ゴッホ自身の自我か、この不安定な教会。それでもいいというゴッホの自己か。画面中央から道は2つに別れている。孤独と不安な道を歩いて行く一人の婦人。左側の道を選んだこの婦人。純真なゴッホのこころとさえおもえてしまう。それにしても静かだ。それらを覆うように青い空とうねり。ゴッホは恐ろしく全体を冷静に凝視している。この空、教会、婦人そして道と町、すべてがゴッホのこころの投影か。到達地点は不在のまま神話を待ち受けているのか。