2012年02月

2012年02月11日

眼で思考する原理と詩「かたちとは別なものへの移行である」−3

GH16-01

山門

 

 

 

GH16-01
「言葉の放射」

 

 

 

 

 


 

言葉の放射

ホウキの下に、小さな窓が
あります。向こう側には山門が
見えてます。

ホウキの周りには、円を描いて
文字が書いてある。見えないものを
見える思考につくりだす”かたち

それは、眼で思考する原理と詩の
発生をうながす。厳密な抽象機械を
つくりだす。そんな機械をつくること。

 



2012年02月05日

夜のシミュラークル「理性の時計が瓦解してゆく」

DC20-04Ac

記憶と時計D

 

 

 

DC20-04Ac
「夜になるといっせいに
理性の時計が瓦解してゆく」

 

 

 

 

 

 


 

「理性は夜のなかへ」

夜になるといっせいに理性の時計が瓦解してゆく。
確かに下のほうでは滝の音がしているのだが、
見ることはできない。その近くの蛍光灯の薄暗い
ホテルにわたしはその夜泊まっていた。

書斎に残した未処理の書物は色彩となって
わたしの机の上につまれている。これもやがて
シュレッダーにかけられるのだろう。
死にゆく自我を観るとき、空白の言語が沈黙に
置き換わる。

押し出された言葉たちは黙ることによって
夜の身体をつくる。この恐怖にひとは
耐えられるのか。

「・・いまは無い」ということを、

この空白の一夜が理性の
狂気を呼覚ます。狂わないという決意は、
既知の認識を絶えず不在の言語に脅かされる。

 「神の言葉」とは・・

などと囁かれる恐怖。「非ー知」の彼方に虚無が
黒い影で、あの暗黒の星雲に投げ出される身体の
無能力を、機械の力で「器官なき身体」をつくり
だそうとする。

ウォーホルの電気椅子、
夜のシミュラークル、

「暗黒の画面に真珠の光る靴」

 

上記の言葉はわたしのイメージを断片的に書きとめたもの。詩ではありません。絵を描くための言葉のデッサンです。誘発するものをいったん言葉にメモし、それを展開するために行為します。(掲載してある言葉は、絵と直接関係ありませんが、覚書のようなものです。)*「暗黒の画面に真珠の光る靴」とはウォーホルのシルクスクリーン(カンヴァスにアクリルとダイヤモンド粉末)の作品を指しています。

 



2012年02月04日

シミュラークル「空の鏡と暗黒、主体の消滅のうちに<人体の夜>」−3

HB04-01/Untitled

dark matterA

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Untitled
or dark matter

・・主体の消滅のうちに、
黒いスクリーンが現出する。
人体の夜が映し出される
前に。

 



2012年02月03日

眼で思考する原理と詩「起き上がった意識」−3

BG26-Rd4/BG26-Gre5

物質と記憶B

物質と記憶A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起き上がった意識

細胞質の膜に映し出された民族学は、
リングの案内する2つの羽の防御を備え
ている。先端は槍、言葉をかわすために。

コンクリートの城塞で進むことはできなかった。武器はもっていのだ
が、(そこに書いてあったのは、なんであったのか、今ではおもいだ
せない)リングの言葉がわたしに投げかていた。そこには無いも
の、この刻印され胸に、鳥の羽がわたしを撫でる。飛ぶことではな
く、汚れた水を防ぐ浄化の羽根。リングの先端は鋭い槍・・



2012年02月01日

非-体系的に見る事への移行

GI02-01

遠隔j装置

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”空”
強度の配分

何にものにも作用を与えない
流入するものと、流出するものでもない
それ自体というものでもない。

経験を揺さぶるもの、未体験のものの
領土、方向性をもたないことによる
限界-当のものが発生してくる。

感覚が強度の配分を決めるのか、
強度の配分が感覚を決めるのか、
比率の反射・・さらに共鳴

つまり現れてくるもの、延長量と
強度量(内包量)の不均衡、
例えば、GI02-01(図像)はどのように
知覚するのか?
空間(時空)物体/線分/意識など・・

物理的なものと、空間的な延長を
もたない量・・との関係、
ひとつの位置エネルギーを持つ、
電位の不均衡

経験的なのもがなくなり、感性、
美的な判断から離反し、与えられた
条件の地図作成法をつくること。


日本庭園の対象は、自然的人工の劇場の””自然化である。実在する自然の模倣を超えて、抽象化された自然。これは”もの”その”ものへ”ということではない。自然への類似を不在化するもの。そんな形体を追究すれば、白砂と石の組み合わせの表現へと行き着く。あるいは白砂を円錐のかたちに積み、サイズの違う円錐を配置する。同じ素材の白砂を敷地に詰め、その周りを波形のかたちや円形のかたちで表現する。それはミニマルアートとどこが違うのか。

という思想を体験しなければ、概念だけでは難しいでしょう。芸術にしたてあげれば、禅の思考から遠のくし、非-芸術にすれば、ただの”もの”。それも”存在そのもの”ということではない。”もの”はすこしもそこに留まってはいない。さてどうする。禅を芸術的に表現すればジョン・ケージか。多くの人がそれを見て楽しむことができる。日常にしたてあげなければならない。そんなことが可能というのは、現代芸術では困難がともなうケミニュケーションである。



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