2012年02月
2012年02月11日
2012年02月05日
夜のシミュラークル「理性の時計が瓦解してゆく」
DC20-04Ac
DC20-04Ac
「夜になるといっせいに
理性の時計が瓦解してゆく」
「理性は夜のなかへ」
夜になるといっせいに理性の時計が瓦解してゆく。
確かに下のほうでは滝の音がしているのだが、
見ることはできない。その近くの蛍光灯の薄暗い
ホテルにわたしはその夜泊まっていた。
書斎に残した未処理の書物は色彩となって
わたしの机の上につまれている。これもやがて
シュレッダーにかけられるのだろう。
死にゆく自我を観るとき、空白の言語が沈黙に
置き換わる。
押し出された言葉たちは黙ることによって
夜の身体をつくる。この恐怖にひとは
耐えられるのか。
「・・いまは無い」ということを、
この空白の一夜が理性の
狂気を呼覚ます。狂わないという決意は、
既知の認識を絶えず不在の言語に脅かされる。
「神の言葉」とは・・
などと囁かれる恐怖。「非ー知」の彼方に虚無が
黒い影で、あの暗黒の星雲に投げ出される身体の
無能力を、機械の力で「器官なき身体」をつくり
だそうとする。
ウォーホルの電気椅子、
夜のシミュラークル、
「暗黒の画面に真珠の光る靴」
上記の言葉はわたしのイメージを断片的に書きとめたもの。詩ではありません。絵を描くための言葉のデッサンです。誘発するものをいったん言葉にメモし、それを展開するために行為します。(掲載してある言葉は、絵と直接関係ありませんが、覚書のようなものです。)*「暗黒の画面に真珠の光る靴」とはウォーホルのシルクスクリーン(カンヴァスにアクリルとダイヤモンド粉末)の作品を指しています。
2012年02月04日
2012年02月03日
2012年02月01日
非-体系的に見る事への移行
GI02-01
”空”
強度の配分
何にものにも作用を与えない
流入するものと、流出するものでもない
それ自体というものでもない。
経験を揺さぶるもの、未体験のものの
領土、方向性をもたないことによる
限界-当のものが発生してくる。
感覚が強度の配分を決めるのか、
強度の配分が感覚を決めるのか、
比率の反射・・さらに共鳴
つまり現れてくるもの、延長量と
強度量(内包量)の不均衡、
例えば、GI02-01(図像)はどのように
知覚するのか?
空間(時空)物体/線分/意識など・・
物理的なものと、空間的な延長を
もたない量・・との関係、
ひとつの位置エネルギーを持つ、
電位の不均衡
経験的なのもがなくなり、感性、
美的な判断から離反し、与えられた
条件の地図作成法をつくること。
日本庭園の対象は、自然的人工の劇場の”場”自然化である。実在する自然の模倣を超えて、抽象化された自然。これは”もの”その”ものへ”ということではない。自然への類似を不在化するもの。そんな形体を追究すれば、白砂と石の組み合わせの表現へと行き着く。あるいは白砂を円錐のかたちに積み、サイズの違う円錐を配置する。同じ素材の白砂を敷地に詰め、その周りを波形のかたちや円形のかたちで表現する。それはミニマルアートとどこが違うのか。
”空”という思想を体験しなければ、概念だけでは難しいでしょう。芸術にしたてあげれば、禅の思考から遠のくし、非-芸術にすれば、ただの”もの”。それも”存在そのもの”ということではない。”もの”はすこしもそこに留まってはいない。さてどうする。禅を芸術的に表現すればジョン・ケージか。多くの人がそれを見て楽しむことができる。日常にしたてあげなければならない。そんなことが可能というのは、現代芸術では困難がともなうケミニュケーションである。