2012年01月

2012年01月29日

出来事「すべてのからくりが転回する」−4

HA26_02A1

窓の顔F

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すべてのからくりが転回する

出来事1~3までの連載は、最後に「現代アートの方向性」を
述べるために図像を載せ書いた。それはオクタビオ・パスの言葉で:

『*1.絵画の言語はその意味を他のシステムの中に見出す記号システムである』、また『*2.絵画が表象の専制から解放されると、エクリチュールの隷属のなかに陥るほかはない

ということです。つまり、外の世界が内部の世界へと接続されず、五感の機械的な作用だけが動く、どこにも行き着かない。ただ強度のトーンだけがのこる。世界をもたず、対象のない強度、シミュラークルですらなく、イコン的な理念さえもない。背景に人の顔らしきものを抽象的に描がいてはいるが、これは絵画ではなく、たんなる色彩の強度と形体のイメージ、しかしこれが何であるのか探しまわる感覚的な機械作用がある。言語へのエクリチュール的な隷属になる図像さえも、通り越し、この機械は瞬時に対象がないことを観る。これは無というわけでもない。ただ現前に見える光景を展開しているだけ、という出来事がある。わたしはその無対象の発生がある意味へと導き出す作用を図像と言葉で記述した。絵画論的になることをさけ、できるだけ詩的な感じになるよう短文にした。わたしはオクタビオ・パスのいう*1、*2をさらに進めたのが、荒川修作氏であり「意味のメカニズム」であると感じている。まちがいなくデュシャンの意志を受けついている。芸術だけはやるなという意志だ。

 

上記*1、*2
「マルセル・デュシャン論」
著者:オクタビオ・パス
(訳:宮川淳 柳瀬尚紀)参照



2012年01月26日

出来事「イコンとシミュラークルの間で」−3

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窓の顔C

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イコンとシミュラークルの間で

さて、わたしは語ることができないので、この
出来事を中止しょう。自然を観るということが、
じつは無数の内部の自然的人工の劇場がすでに
ある。「反転する鏡」は己を見せないことによって
己を見せる劇場の自然化である。光の部分は数の
隙間から見せるカオスの関数として知覚される
ひとつのマトリックスである。

わたしは出来事の瞬時の時空を、かたちのない
姿を、数に0987325670・・1483975813
48657など、暗黒の画像に数値を入力する。
その記号に非-実体をもたせる。無-意味・・
そのことによってある感覚が形成されてくる。内部では
何が起きているのか知らない。

しかし形成が形成を作用させる。ひとつが動き、全てが
動く、更にその全てがあるかたちをつくる。ひとつの動き
へと・・シミュラークルの円環運動、この非対象の対象、
つくられたものは振動し続けている。それは擬似的運動
ですらなく、イコンでもない。大きなものの力、ついには
質量エネルギーをもつに至る。



2012年01月23日

出来事「眼で思考する原理と詩」−2

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窓の顔A

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

眼で思考する原理と詩

視覚が思考へと接続できない
思考しようとすると反転が起きる。
表面のまたその表面を見る。
強度の非-強度、それ自体の反転
を見る非-出来事の出来事、
アリスのトランプの裏側へ印された
後に・・わたしを見る反転



2012年01月22日

出来事「自然は言語化によって反転する鏡である」−1

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窓の顔D

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゼロを食べたがっている身体

わたしは見る、何を・・そんなことは分からない。
自然を模倣する非-自然を見る。言語の芽生え、
強度の代理物を、諸衝動の身体化を
内部では何事かと、言葉が騒ぐシミュラークル。

おそらく反転は起きている。(出来事)とは、
無数の言語による合成された身体化の形象
それは帰還すべき叫びを、ゼロへと向かう
呼吸する身体化をすでに用意している。



2012年01月17日

変壊「消えることと現れること」−2

HA15_02A

変壊

 

 

 

HA15_02A
劫の点
外の線と内の線、
その区切りが
わたしをつくる。
わたしはつくられる
ものとつくるもの
とが瞬時に
あらわれる。
消えることと
あらわれることの
無限大円環性の
時空の点に
わたしはいる。

 

 

 

 

 

 

 

変壊

美しいことが、たんに美しいという受身の感覚だけではない。美しさに参加すること。それは能動的な変化を感じ取ること。やがて消えて往くものの刹那的な瞬間を捉える。何ひとつそこに留まってはいない。美の感覚さえとおり過ぎてゆく。空-無、・・それを概念化かしようとすると、たちどころに哲学となってしまう。そこでわたしは、樹そのものを被写体とせず、間接的に水面に映る姿を、そこに紅葉した色の美しい7枚の葉を選び池に落とし撮った。その葉が池に少し沈みかけていてる。わたしは美しさとしてよりも、カオスの接線を、その背後に見えない”時空”を感じるように撮った。一見すると刹那的な美しさを、日本画花鳥風月的掛け軸になるよう仕立て上げた。この画像では見えていないスケールを見る事。消えて往くものの刹那的な瞬間の背後に、それとは反対の(こう)を見る。仏教インド哲学でのとは、きわめて長い宇宙的な時間を意味するらしい。しかしどんなものでもそこにはとどまってはいない。ものを固定化してひとは安心する。しかしそれこそ無常の真っ只中で生活しているのではないか。



2012年01月07日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネと聖ヒエロニムス」−5

GL29_03/HA4-01

洗礼者ヨハネ聖ヒエロニムス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

GL29_03                                                  HA4-01
洗礼者ヨハネ」                                       「聖ヒエロニムス
1513-16年                           1480年頃
板に油絵                             板に油絵
69 x 57cm                                            103 x 75cm
パリ ルーヴル美術館                   ヴァティカン絵画館

 

洗礼者ヨハネ
この絵はどう観てよいのか途惑う。宗教的に解釈しようにも理解を超えている。イエスの前駆者、洗礼を施す者として観るには、あまりに誘惑的でエロティックだ。むしろエロスとしの様相である。古代では若い男性が描かれていた。中性的な両性具有としての「洗礼者ヨハネ」は女性、男性の二元論を遠く離れて一体化したもの、エロスの神秘ともいえる。この絵はダ・ヴィンチ自身のために描かれ、その誘惑的な姿を描いたのではないか。

空無の中心点の方へ:
存在するものの中空、無の存在点への形而上的な誘惑・・その姿が「洗礼者ヨハネ」であると観ることもできる。この見方は聖ヨハネの人差し指が、十字の梁に磔となったイエスのシンボルとしての十字架を指しているよりも、更にその遠方の天体、宇宙の根源を指しているように感じる。それは宇宙の中心、即ち神の存在点である。しかしこの存在点は、空相の点であり、非-存在の存在=円弧d1-d2の中心点である。円周のどこにもない中心点、あるいはどこにでもある中心点であるようなもの、意識内部の根源から現れ創られるもの、無いものから現れる存在点、空無の中心点をこの人差し指は示している。この見方に到達するために「聖ヒエロニムス」の苦行へと結びつくイメージが喚起されてくる。

誘惑の果てに行き着く
  聖ヒエロニムスの苦行:
この「洗礼者聖ヨハネ」の誘惑とは、享楽の果てに待ち受けている「聖ヒエロニムス」のような苦行へと向かう覚悟があるのか、、その暗示として人差し指が暗闇の十字架を示している。「聖ヒエロニムス」の様相は、老年の苦行者として表現され、あらゆる苦悩を背負い、絶望の果てにいきつく内面の””を受け入れる東洋的な精神性さえ感じる。まるで東洋の修行僧のようである。「聖ヒエロニムス」は「洗礼者ヨハネ」とは対極の表現をしている。

この右手の人差し指は上記に述べた前者()のように”空無の中心点”を示しているのか、後者()の享楽の果てに”「聖ヒエロニムス」のように苦行へと向かうのか、そのイエスの受難の象徴としての十字架を視よ、というメッセージが込められていように感じる。「洗礼者聖ヨハネ」と「聖ヒエロニムス」は別の類の絵ではなく、深いところでは同じ方向性を向いており、官能的宇宙と受難、そんな見方もできる。イメージが連鎖的に作用し多様な見方ができる醍醐味です。それゆえ、ダ・ヴィンチの絵は思考絵画ともいえるほど、大脳前頭葉をもの凄く刺激してくる。それでいて穏やかな安らぎさえ感じる。まさに究極の宗教絵画です。

レオナルド・ダ・ヴィンチを観るということは
宇宙像を、その究極の宗教感を観ること:

ダ・ヴィンチのこの4点聖アンナと聖母子モナ・リザ洗礼者ヨハネ聖ヒエロニムス)は、わたしにとっては特別に思考させられる絵だ。「最後の晩餐」は人物像が多数なので、わたしの解釈を遥かに超えてしまう。技法と宗教的な解釈他、多様な要素が複雑に絡み、抽象化して総体的な概念をみいだすには困難である。また実際にミラノグラツィエ修道院に行ってその臨場感を感じたいおもいはする。特に室内と絵の関係などの要素を立体的に体感すれば、イメージが湧いてくるかも知れない。以上でわたしのダ・ヴィンチ体験を第1回から5回にわたって述べましたが、機会があれば「ダ・ヴィンチの手記」からその宇宙像を現代の視点から観てみたい。特に21世紀は自然科学、人文科学、芸術などの境界線を越えた、それらの総体として観る思考が要求されるダ・ヴィンチの絵画は宗教絵画でありながら、どこか無宗教的な要素があり、その宇宙像は母性的であり、特に「聖アンナと聖母子」は円環運動する力学的な関係性の構造としてみると”聖アンナと聖母子の構造”で述べましたように、量子論的な見方もできる、非常に驚くほど現代科学的です。その意味で、今でもダ・ヴィンチは現代的な概念をもっています。



2012年01月03日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザと背景」−4

GL29-02

モナ・リザ

 

 

 

GL29-02:
モナ・リザ
1503-05

油絵 板
 77 x 53cm
パリ、ルーヴル美術館

 

 

 

 

 

 

 

モナ・リザは宇宙の形象化の
化身であり、ダ・ヴィンチ像と
合わせ鏡のように現れる・・

モナ・リザは、「聖アンナと聖母子」とは別な意味で不思議な感じがする絵だ。モナ・リザダ・ヴィンチの自画像を並べて視るとモナ・リザの背後にダ・ヴィンチが隠されているように感じる。二重写に交互に出てくる。合せ鏡のようにエンドレスにダ・ヴィンチの思考が反射され、ついには宇宙の鏡が写し出される。その瞬間、永遠の微笑が天からの贈り物の姿をとして現れ、かくして神秘がそのDetailを見せる。それは背景が人物像をひきたてるように観えながら等価に感じることである背景宇宙のDetailがモナ・リザでありモナ・リザのDetailが背景であるという等価な感覚が形成される。この等価に作用させる力はモナ・リザの顔貌性にある。厳密に構成された様相、それが抽象機械を形成させ宇宙圏へと脱領土化していくプロセス・・を観る驚異的な神秘。デュシャンの熱力学と宇宙エネルギー・・



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