2011年12月

2011年12月26日

レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子の構造」−3

GL-17A/Diagram:GK-02A

聖アンナと聖母子_1聖アンナと聖母子_構成図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

GL-17A:「聖アンナと聖母子」              GK02A:「内的ドラマの形成
1502-1516年頃 板に油絵
   168 x 130
cm
パリ ルーヴル美術館
     

機帽渋は世鮟劼戮襪泙┐

聖アンナと聖母子」についてわたしが述べることは、ポール・ヴァレリーが「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法」を書きしるした序説のDiagramとして観るこもできる。ヴァレリーは厳密に作用させるダ・ヴィンチの思考方法に驚嘆し、そこから言語が一つの法則をもつこと。カオスの鏡を、等価な宇宙像を個己にもつこと。その内部運動の方法論の探求であった。それはマラルメからもうけついてもいる。さてわたしは、この厳密に構成された「聖アンナと聖母子」をわたし自身の内部ドラマとして記述していこうと考えた。目に見えないものを見える思考のドラマとして幾何学的な運動の痕跡として視る。

それは、わたしの視覚(視点運動)をとおしてわたしの内部で、脳内でいったい何が作用しているのか、視覚と脳作用のドキュメントを記述することであった。文学や絵画論から遠く離れて形而上的な運動、脳内の作用としての運動を記述していくこと。思考することなく思考する大脳前頭葉の指示するままにわたしは手を動かす。視ることと内部の連関、それが何であるのか理解している分けではない。しかしこの絵を視ているとイメージが湧き不思議に厳密で抽象的な言葉が出て来る。同語反復を繰り返しながら漸近的にダ・ヴィンチの思考へとわたしは導かれる。それは連鎖反応的に出てきた言葉をメモすること。わたしは以下のように書きはじめた。

機1:「聖アンナと聖母子」そして「モナ・リザ」の
    その神秘的な方程式の彼方に

彼岸の崖の上でいったい何が起きているのか。わたしは「聖アンナと聖母子」を凝視する。無限大の景色、アンナマリアの瞬間移動、幼児イエス子羊、大地、そして樹が夜明けまえの静かな空気をとり入れ呼吸し、遠い銀河の声を聴いている。わたしの脳波が反応し始める。眩暈、わたしはシンクロニシティを体験する。これ以上の宗教的体験があるだろうか。厳密に構成された幾何学運動、わたしは思考に促がされてダ・ヴィンチの映像を、そのトポロジーを思考する。そこには永遠と円環運動が瞬時に鼓動しはじめる。運動エネルギーの神秘的なこの上ない体験をする。ダ・ヴィンチのなかでもっともダ・ヴィンチらしさを感じる絵、それが「聖アンナと聖母子」だ。

では最高傑作と言われている「モナ・リザ」はどうか、その現われは一点に焦点を合せ集中(モナ・リザという神秘を顕現化)させ、その背景がモナ・リザと融合し、背景自体がモナ・リザの分身のように感じ、宇宙の構造をダイレクトに観る様相となっている。その作用は、空気遠近法の技法によって岩々の先端が天へ、銀河への彼方を直接的に暗示させる構造となっている。「モナ・リザ」では大地と空気の接点を意味するもの、樹を描いていない。運動エネルギーとして観ることより、その結果としての瞬間、永遠を顕現化させることをテーマとして描いている。「モナ・リザ」と「聖アンナと聖母子」は逆演算の関係ともいえる。どちらが最高傑作かというものではない。またダ・ヴィンチの絵のなかでは格別にエロティックで、誘惑的な雰囲気をもつ不思議な「洗礼者ヨハネ」、この3点は永遠の謎をわたし達に観せてくれる。ダ・ヴィンチが最後まで離さず手許にもっていた作品と言われている。

機2:構図論の概要

これから述べることは、物理的な外部観測の運動論ではなく、いわば形而上的な運動、脳内の作用としての運動である。わたしの脳内でいったい何が起きているのか、そのドラマを記述していきます。それは美学でもなければ、脳科学的な見方や芸術でもありません。視ることの運動であり、そのためのダイアグラムDiagram)です。アンナマリアそして幼児イエスと子羊宗教的な意味は述べません。確かに顔の表情や身体のかたちなどは、その方向性を示す為にダ・ヴィンチは最高度のテクニックを駆使して描いている。その方向性とは、深い宗教的な見方や哲学的な見方ですが、わたしは動的な視点のベクトルのみにどどめます。「聖アンナと聖母子」は、円環運動の力学的な宇宙像を視覚作用と思考によって、移動とその瞬間を同時に観せるダイナミックな運動のうちに相互の関係性を、その宇宙像を顕現化させる構造となっている。視る行為脳の反応見えないものの見える思考(ドラマ)を記述していきます

構図(Fig:GK-02A)の主な記号説明
1)点a:アンナの眉間の位置を示す
 (その位置はビンディーと偶然一致している)
 垂線a-h点aから地球の中心(重力)へ、三角形の底辺p3-p4
 垂直2等分線
2)点b1:マリアの後頭部
3)点b2:マリアの口元
4)点c:幼児イエスの眼
5)円弧d1-d2:銀河の円周の一部(どこにも中心のない
  無限大の円周の一部、(空想の点=画面の外で
  その位置は  非-存在であることによって存在させる
  点であり、最も重要な円の中心点である。
  この絵のテーマでもある

掘帽戎泙旅柔とその作用
  
幾何学的な機能が意味するもの

2等辺三角形a-p3-p4
全体の構図を安定化させる重要な作用をもつ。たえず瞬時に変動する視点を安定させる大地の礎である。右画面上の樹を無意識のうに静に支えている。C/G点(重心=画面全体を安定させる要)は四角形内部の上部、マリアの胸の下に接した腿の部位である。絵画にはその点を意図的に不在化かする場合もある。ゼザンヌの「大いなる水浴する女たち、1906年」の構図は完全な三角形である。C/G点を無意識に体感し、感覚変位の不動点ともいえる。このC/G点とは不可視であり、重力バランスを無意識にとる身体機能に似て、なぜそう感じるのかは理解不能なものである。画家は構図の設定に幾何学的な原理を応用する。C/Gとはフォルムの重心点とも言える。

四角形内部ドラマの形成=より暗示的に
この四角形は三角形a-p3-p4のように幾何学的な安定した構図を意図的に構成されたものであるより、秘たる構造で、この内部でアンナとマリアの関係(アンナの膝の上にマリアが座っている不思議な構図)がどのような仕組みなっているのか。四角形は演じさせる眼に見えない思考の劇場(マリア幼児イエス子羊、その舞台はアンナの膝の上で演じられている)をつくる、神秘的な意識を誘発する装置としの幾何学である。

思考と視点ベクトル
  
内的ドラマの形成プロセス=宇宙の贈り物として

-1:円弧のd1-d2の作用

この絵を観る最初の視点は全体像のうちにアンナの点a(眉間)とその背後の風景と空となり、円弧のd1-d2は無限の円環運動する銀河である。その銀河の中心点は脳内でかたちつくられる。これは銀河の仮想の点としてであり、直感的な実在というべきものである。しかもその中心点は画面の外にあり、その点は不在でありながら、存在しているという脳内現象の実体化である。この点こそ天上の神を想起させる幾何学的な宇宙の点であり、始まりであると同時に、膨張する宇宙の運動の始点であり、無時間の質量のない点でさえある。

-2:重力と天体

わたし達が最初に「聖アンナと聖母子」を観るその視線は、画面全体から瞬時にアンナの眉間の位置に向かう。この点a(アンナの眉間)は銀河を受信し大地へと貫き、地球の重力でその中心に向かって作用する。アンナによる天と地の接続銀河と地球の結合か。不思議な感じがする不可視の線である。

検3:垂線a-hの作用

点a
垂線a-h始点a)は銀河の円弧d1-d2の交点で、宇宙の円環運動の出入り口、銀河の交点ともいえる。初期視点aからすべての運動がはじまる。背景はたえず銀河へと導く運動エネルギーのポテンシャルである。

視点運動
  (直感的眼差と楕円運動の
  
幾何学が脳の固有運動を促がす)

-1:多様な殻とその量子的な運動

一望のもとに感じるダ・ヴィンチの、この神秘はたんにテクニックばかりではなく、彼の厖大な記録の凝縮された記号であり、思考の具象化である。物体の運動と神秘、あのニュートン的な重力作用の自然的原理と神的原理の結合を思考のうちに可視化する。むしろニュートン的というよりも現代物理学の量子の運動、電子雲の重なり合う多数の軌道の集合を感じる。この「聖アンナと聖母子」の幾何学的な構成は球面上の線であり、楕円幾何学である。ダ・ヴィンチのこの絵は、その運動の法則に基づいて作用するユークリッド幾何学でありより、非ユークリッド幾何学の多次元をもった運動する物体である。

また足元の地層は静止した地層ではなく、変動する地殻である。これも楕円の形象をしている。上部アンナの背景に描かれている空と岩々の境は、空気遠近法と色彩遠近法によって描かれたシャープな先端をしているが、それぞれの頂点を結ぶと10%位の楕円となっている。アンナの肩の背後の小さな岩々の並びは、左画面から一本の樹の根元近くまでの右下がりで小さな楕円の構成である。その中心にアンナがいる。しかしよく観ると外殻が空に接している岩々で、手前の岩々は内殻のように感じる。更にアンナマリアを囲んでいる殻の半径rn)はもっと大きく銀河を構成している量子の運動を想起させる。これは描かれてはいない。まさにこの絵を視る凄さである。

-2:視点運動がかたちつくるもの
   
(視る行為が観える思考をつくりだす)

こんどはこの絵のもってる全体的な運動を上記の各項目に従って、視点運動の流れとその連関を記述してゆきます。最初に「聖アンナと聖母子」の絵(GL-17A)を視ると、絵は静止した2次元の平面ではあるが、視る行為と脳の作用が同一に光速度で運動する。瞬時に内部運動が始まる。その差異がさらに連鎖反応のごとく円環運動し始める。点a(アンナの眉間)は円弧d1-d2の光を受け無限の天界の交点となり、しかもその交点(円弧d1-d2三角形a-p2-p4垂線a-hこの3つの交点をもつ点a)は地球の重力の中心へと向かっている。一方円弧d1-d2の軌道上に配置された始点aの下アンナの眼差しは、マリアの後頭部(点b1)を通る線となっている。しかしここにダ・ヴィンチの仕掛けがある。アンナマリアの動きが連続的に感じるように同一人物の別な現れ方をている構図である。運動する物体の残像のような効果を計算してるとおもわれる。それは円弧d1-d2の軌道上(半径)にアンナマリア幼児イエスを配置している構成によって、上述のように円環運動を想起させ、視ることと脳作用の幾何学構成は数学的な、厳密な法則を感じさせる。

-3:視点運動が”かたち”つくる宇宙の円環運動
   
銀河⇒アンナ→マリア⇔ 幼児イエス⇒銀河)    

マリアはその光を受け眼差(点b3)しは幼児イエスを見やる。マリアの眼差しは点c)へ。そして幼児イエスの眼差点c)しはマリアへ、互いに見つめ合う眼差しは、その往復運動の後、軌道円弧d2-d1)からマリア→アンナ→銀河の中心へと向かう。一方この円弧d1-d2幼児イエスを通過するものと反射するもの、この二つの光もっている。通過したものは、銀河の中心(空想の点)から半径rの軌道で再び点aへと戻り円環運動する。この大きな半径rと遠方の山脈の景色の殻(岩々)、そして大地(彼岸の崖の上)の殻のなかには胎児や胎盤が収納されている。それらのものはアンナを中心にして電子のように運動している。それは次のような円環運動である。

『⇒初期視線(聖アンナ)⇔銀河(聖アンナと銀河の往復運動)→聖アンナ→聖マリア⇔幼児キリスト+子羊→大地→樹(右画面上)→大気(樹が大気から銀河へ接続)→銀河→聖アンナ⇒

此妨渓に計算された神秘

この絵の最大の神秘は上記のように円環運動を厳密に計算し、幾何学的な構成がニュートン力学であるより、量子的な運動を形成させる凄さであると感じる。セザンヌの構成は平面プランにおける幾何学的な構成に対してダ・ヴィンチのこの絵は、見事なほどの不可視の幾何学的な運動である。それは脳内に作用させ、法則を導きだすダ・ヴィンチ論理的構造にわたしは驚嘆するものであります。

わたしが『聖アンナと聖母子』を観たその感覚は、まさにDiagramFig:GK-02A)に示したとおりで、上記に述べましたように、幾何学的な厳密な構成が脳に作用させ、それ自体で成立つ純粋な抽象性が形成されるこのドラマ、それは瞬時に永遠と円環運動が作動し始め、画面には銀河の大気が充満する。この何とも言えない天体の運動を現前化させる。そこには眼に見えない法則が在る。この探求のためにダ・ヴィンチは徹底した観察と冷徹さ、ときとして虚無さある。それゆえあの永遠の微笑へと到達するモナ・リザ」、また円環運動、「神の設計図をみせる聖アンナと聖母子」、この壮大なダ・ヴィンチの宇宙像を観る喜びをわたしは味わう

補足:
わたしの内部意識の出来事を記録したこの「聖アンナと聖母子」は、わたしにとって特別な作品であり、絵画のなかの最高峰であると感じている。ダ・ヴィンチの作品はほとんどが未完成であり、厖大な手記は思考の絵画とわたしはおもっている。
20世紀にはいてはマルセル・デュシャンがいますが、それ以外の画家は思い浮かばない。デュシャンの絵は観念アートであるとおもえば、クールベ以後はすべて非-観念アートであると感じる。それを再びデュシャンは新しい観念アートに戻した。そんなふうに感じることもできる。それ以前は宗教アートであり、観念アートでもある。対象は描かれたものであるより見えないものの背後がテーマだった。その意味で「聖アンナと聖母子」は最高の観念アートである。



2011年12月04日

ライプニッツの素描「モナドには窓がない」

GL-01A_Np

Monade

 

 

GL-01A_Np
思考の法」へ

数は無限の
自然を
もっている
思考の果てに
現れる
自然的人工
あるいは
人工的自然

 

 

 

 

 

出入りする窓の鏡は無数にあり、内部で
起こるものは記述され、出口のない無数の
魂の数で示される

「劇場の遊びをとりあえず身体化して観る」

観る身体化の無数の影、バロックの上昇と
下降の織りなす光と影、即ち円錐の断面、
大地の地層の影が表面にでたものの
遠近法の線と化する戯れる自然

光の粒子の遠近法影の鏡、ライプニッツの
思考の記述化は自然の模倣であるより、
模倣の自然をつくる無限の出入り口、
5官のペンタグラム、劇場を観るライプニッツの
官能性、即ち宇宙の微粒子を観る、襞。

光の投影法を盗む思考の窓が無数にある。
図像とはエネルギーの思考化であり、思考の
具象化である。それは記述された思考の彼方に・・



2011年12月01日

ダ・ヴィンチとニュートン「神の遍在性と運動力学」-1

GL01-101A/WilLiam Blake

アイザック・ニュートン

 

GL01-101A
「ニュートン」
1795年
40 x 60cm、ロンドン
テイト・ギャラリー蔵

 

 

 

 

 

神の遍在性と運動力学

セザンヌ幾何学を「地球のものさし」だったということを、ガスケ宛てに書いたのか、あるいはベルナールセザンヌから聞いた話を語ったのか、わたしはその経緯を知らない。しかし「大水浴1906年」を観ると、なるほどとおもう。カント的な先見的必然性を幾何学(ユークリッド幾何学)に絶対的真理として観ていたのかも知れない。

さてダ・ヴィンチのことを書こう。想いつくままにキーボードにむかって手を動かし書き始めた。ところがイメージが次から次へとでてきていっこうに纏まらない、終らない。そのためのDiagramは身体(手の動き)と思考の運動でデッサンのように幾何学的な軌跡を描くことが出来た。というのもダ・ヴィンチの絵「聖アンナと聖母子」を観れば自然と宇宙的な運動を、瞬間のなかの永遠を、円環運動の幾何学的な軌跡をベクトル化できる。ダ・ヴンチの絵を観れば視点がそのように無意識に動き始める。だれでも感じているはずである。わたしはそれをなぞっただけであると感じている。そうであるならダ・ヴィンチのことは想いつくままに書けるとおもっていたのだが、いつまでたっても終らない。そこで連関のあるイメージをわたしになりに書いてみた。遍在する神重力のことなど。神のイメージ数学的な記述とがどう折合がつくのか。そんことを考えるともう纏まらない。とりあえずニュートンライプニッツそしてセザンヌをおもいつたので書いてみた。ダ・ヴィンチの世界は専門家にまかせて思考のスケッチとして自由に書いていくことにしょう。

ダ・ヴィンチとニュートン
あるいはセザンヌの感覚について

上述しましたようにセザンヌの「大水浴1906年」を論じる場合、個々の人物の表情や女性の身体が問題なのではなく、その配置がいかに宇宙の顕現化を構成できるかという問題です。セザンヌは動的な要素を考慮するより、空間に存在するもの内部意識の、感覚の発生プラン(平面)を一つの公理系として観る。3次元の空間を円筒、球、円錐として観ようとするが、描かれたものはそれらを分解し視点をずらし、再構成し幾何学的な一つの法則を見出そうと格闘している”かたち”を観ることになる。”かたち”とは奥行次元)きの追究です。3次元にもう一つの次元(時間)を入れると、生成変化の現象学的な差異性に悩まされ、生涯自己の感覚の法則を、その奥行を追い求めていたひとだ。色は分割され一つの接線を、微分法を脳内で形成させ宇宙の全体像に迫った。絵画のなかの絵画を確立していった。まさに「近代絵画の父」というな名にふさわしい。

しかしダ・ヴィンチは絵画というジャンルにどどまらない。むしろ自然科学的な思考のダイアグラム化であり、すべての思考をデッサンし、具体的に宇宙像を示したひとである。あらゆるものを記述したライプニッツににている。むしろライプニッツヴィンチ的というべきかもしれない。宇宙は無限の襞によって出来ている。セザンヌは一本の線が無限の襞で出来ていることを感取している。その物質の波動を、奥行きとしての公理系を確かめるため「サント=ヴィクワール山」の描写に何回も試みる。構成と時間との格闘。幾何学と意識(感覚の振動)、その定理を追究していた。感覚と理論を統合すること。そんな無謀な行為をしていた。

一方ダ・ヴィンチ運動エネルギーについて思考し、そのメカニズムを追究していた。ダ・ヴィンチは運動の波形を、その振動するメカニズムを人体の”かたち”(さまざまな構成)のなかに、風景と同一のように宇宙の法則を観ようとしていた。というよりすべての物質の根源を”運動エネルギーの神”、宇宙の設計図を思考し続けたひとでした。それはニュートンに通じるものでもある。ニュートンは神の作用を真剣に思考し続けたひとでもあり、「機械的原理」はどこからやってくるのか、言い換えると数学的な記述がなぜ宇宙の原理を記述できるのか、神秘的としか言いようがないもの、それをニュートンは錬金術と関連して追究していた。これには驚かされる。あの近代科学の基礎をつくったひとなのだろうか。まさにローマ神話双面ヤヌスである。わたしは、「錬金術師ニュートン:THE JANUS FACES OF GENIUSthe role of alchemy in Newton's thought ) 」日本語訳を読んではじめて知った。ニュートン力学は今日でも工学の分野では力の単位すらなっている。自然科学を追究していたひとが神の存在を生涯追い求めていたのは驚きです。そのなかにニュートンの言葉:

神のうちにすべてのものは含まれ、動かされている

と述べている。神の遍在性(あらゆる存在の場)という言葉は何か謎めいて神秘的だ。そのことと関連して現在でも数学は発明」なのか「発見」のなか、わたしには分からない。現実の事象を記述するのにあまりに的確すぎて不思議だ。

補足:
セザンヌの構成
    
時間との格闘


水浴する女たち

 

 

 

 

 


大水浴1906年」

この絵を観ると、向かって右側の人物の肩の位置が幾何学的な構成を意識している痕跡がある(まだ決まってはいない。右側の人物は三角形の樹と見事に調和している)それをどう処理していいのか途中で放棄している。しかし構成という面ではこれ以外ないというほど肩の角度と腕の曲げ具合が決まっている。この不自然でありながら意識内部である抽象性が漸近的に接近している。生成途上にあるがゆえに、内部意識の発生を促がす未完の完成にベクトルは向かう。この厳密な構成こそセザンヌが求めていた、定理ではないのか。わたしはそんなふうに感じる。この放棄こそある原理が存在してると思えてくる。このようなセザンヌの意識は、フランシス・ベーコンジャコメッティにもある。

ウィリアム・ブレイクとニュートンについて
ウィリアム・ブレイク
ニュートンを論理的で冷たい機械論的な見方をしていた。ところがニュートンは決してそのようには観ていない。ある絶対的な原理のもとで作用する、その神秘的な現象を追究していた。法則と神的な関係を生涯見続けていたひとだ。



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