2011年11月

2011年11月12日

レオナルド・ダ・ヴィンチ(「聖アンナと聖母子」の神秘または感覚の論理)−2

GK-01

聖アンナと聖母子_スケッチ

 

 

 

GK-01
「聖アンナと聖母子」
スケッチ 1508年頃
(羽ペン、インク、黒
黒チョーク鉛白)
London
British Museum

 

 

 

 

 

 

聖アンナと聖母子の神秘

ダ・ヴィンチの絵は、なぜ神秘的に感じるのか。鑑賞者にとっては、そんなことはどうでもよく、その美しさに感動してまう。疑問などもつ必要もなく、その印象に圧倒されてしまう。なぜそう感じるのか、分析しようとおもう心がなえてしまう。美しさと気品に満ちた「聖アンナと聖母子」は感覚に湧き起ってくるものがある。しかしその一方で聖アンナの足元に胎児と胎盤が小さく描かれているという。画集で見る限り分からない。不思議な設定だ。これも全宇宙の1つの出来事として観ればいい。生命の起源、宇宙の本質的な構造の観察結果を記号的に表したのかもしれない。いかにもダ・ヴィンチらしい。この「聖アンナと聖母子」はわたしにとって特別な作品だ。その構造を是非知りたい。すべての物質が動いている。背景も(空気、山脈、樹、大地、人物など)しかも一瞬の動きと、そこに現れるものの無限の静止から瞬間移動、無限大の円環運動、この中心のどこのもない円であると同時にいたるところにある中心、永遠としか言いようのない時間を感じさせる。そのような感覚を生じさせる。

ダ・ヴィンチの五千ページにも及ぶ手記は、宇宙の創作メモであり、思考の詩ともいえる。しかもすべて未完成。デュシャンの「グリーン・ボックス」や「ホワイト・ボックス」のノートと比べるといかにその思考が凄いか分る。思考そのものが全宇宙である。ポール・ヴァレリーが「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論」にすべての思考を賭けていたのも分るきがする。数学のイメージは詩と繋がるところがある。それは観念であるより実体というべきか、観念が身体まで十分滲み込んだ自然数、こんな印象を受ける。そこでわたしは「聖アンナと聖母子」が数学的ともいえる幾何学的な運動を知りたい。その美しさを感じただけでは、情性的世界だけではどうしても接近できない。もっと法則的な要素があるはずだ。厳密な構成を知りたい。そんな欲求からわたしは、それをダイアグラム化したい。そうすることによって神秘のなかにわたしの感覚を参加させたい。

セザンヌだったら、画集やメルロ・ポンティのセザンヌ論などを読んで自分なりに思考し、そのような感覚がはたして生じるのか、ブリジストン美術館にでも行って確認して観る。なるほどセザンヌはある感覚に到達しようと格闘する痕跡が観える。他の印象派とはまったく違うことに気づく。生成する時間と感覚との格闘だ。これはフランシス・ベーコンジャコメッティにもある。ドゥルーズは「感覚の論理」ということでフランシス・ベーコンのこと、まるで解けない微分方程式に挑戦しているかのように接近し、何とか全体の像、存在にむかって哲学の発生以前の”感覚の論理”・・が発生するものに接近しようとする。触覚的、視覚的、身体器官、脳作用、哲学の総動員だ。言語化できないものの偶然性・・放棄。それにしてもフランシス・ベーコンの絵はどこで止めるのか、その判断はもう迷宮である。この迷宮こそわたしは神秘と呼ぶ。

あらゆる哲学は概念途上にある。絵画はその概念を超え、観念を超え、あらゆる場所からやって来る。その断片を顕現化させるとは言え、断片とは部分のことではなく、しかも全体のこでもない。いまそこに現れ出るもの、このものの全体、一瞬にして感じとる永遠の無限円環運動のようなものである。さてここでだらだら書いてもしょうがないので、結論からいうと、その全てを感じさせる絵画とは「聖アンナと聖母子」である。この絵はダ・ヴィンチの手記、(岩波文庫)」にあるものの厳密な表現である。とくに”力、運動”の項目で:

運動はあらゆる生命の源である

というダ・ヴィンチの言葉は、詩的なイメージが無限に広がりはじめる。「聖アンナと聖母子」のデッサンでは動きを追究している様子が分かる。身体の構図とともにその脇に回転する歯車らしきものを描いている。運動の源を考慮しながらイメージしてデッサンしていたのだろうか。

余談ではあるが、なぜわたしはダ・ヴィンチのこととフランシス・ベーコンのことを述べたのか、「アンチ・オイディプス」を書いたドゥルーズ(+フェリックス・ガタリ)なら当然フランシス・ベーコンのこを書きたくなるだろうと予測はつく。それと連関して「ピカソは、無明の達人である」と言った数学者の岡潔はどんな意味で言ったんだろう。そうであるならフランシス・ベーコンはどういうポジションかドゥルーズは「感覚の論理」で書いているけど、東洋人からすると論理とう言葉は何か身体的にぎくしゃくしてくる。”無”とは何か、論理を超えたところの禅問答でもしない限り、エンドレスに書(描)き続けなければならない。つまり、どこで筆を下ろすのか。その落としどころはどこか。極限の無明を感じたところか。そんなことを考えると、凄くピカソフランシス・ベーコンが重要におもえてくる。それが分かって、はじめて宗教的な体験ができる。マティスからもそれを感じる。「聖アンナと聖母子」はそのような体験がなくても神秘的な体験ができる。わたしにとってはマティスと同様、絵画の教科書であるとそんなふうに感じている。

次回は「聖アンナと聖母子」のダイアグラムを掲載する予定です。その次にピカソとマティスの違いを論じるためにその前提として書いた。カオスということからくる運動と身体の無、そこに留まり、個己の”かたち”をあくまで追い求め、それがアートであると考えるのか、それを超個己の”かたちに”限りなく近づこうとするマティス的に、あるいはジョルジュ・ルオー的になるのか、その判断基準がわたしにとって、ダ・ヴィンチであるということです。わたしにとってはダ・ヴィンチ宗教画であるより、宇宙の設計図として観ている。あえて言えば、密教的な曼荼羅(胎蔵曼荼羅や金剛曼荼羅)のように感じるときもある。どんな絵も曼荼羅的といえば、そうなってしまうが、デュシャンの「The Large Glass 大ガラス」だってそんなふうに観ようとすればできるということです。とくに「聖アンナと聖母子」は胎蔵界のなかに金剛界を、母なる子宮で思考するダ・ヴィンチというおもいもする。

ダ・ヴィンチに関する記事は、
第1回〜5回まで「カテゴリ」にあります



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