2011年08月
2011年08月31日
ルネ・マグリットのイメージ「諸法空相」−2
GH22-01
GH22-01
”空”
石と水
諸法空相
実体は空である、あるいは空は実体であるという東洋的な神秘から離れて、言葉のメカニズムからやって来る、個々の事物の特異性を概念化し抽象化する。あの西洋的思考のニ元性、分割する思考の操作、これを巧みに利用し絵画の領域までたかめた装置。こんな出来事を思考絵画にしたてあげたマグリットは、ベラスケスの「ラス・メニーナス」と同様、無限分割、鏡の迷路におちこむカオスである。
では、東洋的な(禅的な)思考とはどのようなものなのか、分割する以前の未分割ということろにとどまること。それは”空”ということなのか?マグリットの「ゴルコンダ(Golconde)、1953」など多くの作品は”空の中”に出来事が起きている。大気の層、”空中無色”の劇場を用意する。見えない”空”が孕んだとき、実体のない何かが現れてくる。未分割の瞬間が現れる。それは新たな体験ということか。それゆえ次の言葉にわたしは注目する。
「人間の意識は経験そのものを離れて経験を見ることができるから、出てくるのである。すなわち見るものと見られるものが二つになるからである・・」
「 動物はずべて二つにならぬ・・人間はそれとはちがって、二つに分ける意識のゆえに、現実以外に出て、いろいろと夢を描いたり、いま無いものを希求したりする・・」
上記の言葉は、「東洋的な見方」、”時間と永遠”について語った、鈴木大拙の言葉を抜粋したものです。それとルネ・マグリットとの連関はどう感覚的に繋がるのか、”空”ということ、あるいは瞬間と永遠のことについて思考すると、生と死の転変が深く係わっている。それは何か言葉に表すことはできない。描かれたものにもでてこない。
そんな出来事を迷宮化するマグリットに驚くばかりである。しかも言語の文節化をたくみに作用させ、描かれたものとの混乱、この2重、三重もの仕掛のなかで何かが観えている。それは詩としか言いようがない。
2011年08月29日
ルネ・マグリットのイメージ「描かれたものと言葉(詩)」−1
GH28-03B1
GH28-03B1
「Gasburner」
ルネ・マグリットの謎
マグリットの絵を観ると、一瞬のうちに神秘的な感覚が形成されてきます。この原理で、もっとも単純な構造で人々を惑わす作品があります。「これはパイプではない」という図像と言葉の作品です。このパイプと言葉の奇妙な関係は、相互に反発しているのか、それとも強い力で引き合っているのか、理解不能です。断言できない感覚の眩暈から出てくる大量のイメージ、鏡の乱反射、宙吊りの状態、混乱の秩序、間違いなく感覚が一瞬のうちに統一され、方向性をもって可視的な詩をもって現出してきます。
その詩的な作用、名づけ得ぬもの、言語と描かれたものを超えて感じてくる何ものか。そんな絵画を演じさせるマグリットの装置は、迷宮としかいいようがない。それは超現実(シュルレアリスム)というより、ある作用(叙述し得る)によって”空”を媒体とした新たな感覚(時空)が形成されてくる。一つの身体の形成、新たな言語の誕生で、それは言語と視覚の相乗効果によって眼に見えるものと、そこに現ていない見える思考(詩-考)の誕生でもある。
「思考は快楽や苦痛とまったく同じく眼に見えません。しかし絵画は一個の困難を介入させます。つまりものを見る思考、眼に見える形で叙述し得る思考というものがあるのです・・」
とマグリットは云う。この意味を徹底して追究していたのが荒川修作です。まさに「意味のメカニズム」である。言語は身体と離反したところのものでもなく、身体は言語と離反したものでもない。ではどういうことか?それは”空”あるいは”Blank”のなせるわざ、時空をつくること。どのような、今あるところのもの。荒川修作なら思考のランディング-サイトというかもしれない。しかしそれは、どこにおりたつ場なのか、それが迷宮なのである。
「これはパイプではない」
ミシェル・フーコー:著
(豊崎光一+清水正:訳)参照
上記画像(GH28-03B1 Gasburner)は、パイプから炎が強く出ている状態を描いて、その右上に「A burner child
dreads the Fire」と意味のない言葉(ことわざ)を書いた。直感的には何かのイメージがあります。しかしそれは、わたしにも分からない。ミシェル・フーコーの「これはパイプではない」、あるいは「ラス・メニーナス」など、読むとマグリットの絵がいっそう感じることができる、ということとは別問題です。言葉はとんどんリダクションしてくる。そんな構造をもっています。その構造を踏まえて、とんでもない言葉を使用すると”禅問答”のようになってしまう。これも一つの詩であると、わたしは解釈している。
2011年08月21日
思考の果てに”空”をとりだす作用
GH20-02B
GH20-02B
「思考の果てに」
「思考の果てに」
身体-(言語で埋め尽くされた無秩序)
トートロジーのなかで人は別の
ものを探そうとする。
整理されたもの-秩序
分節化するもの、空であるものが
このものという、個物化、そんな対象を
無限につくりだす言語の作用
区切り、この能力こそ空を離反させ、
かたちつくる。”Form” これを通して
観取可能なものへと導く。
しかしこのFormは、空を含むその
ものへと向かう。何もないということの
沈黙・・を通して作用する。
詩の発生は言語の非言語を
とりあつかう空体・・のようなも。
そのものとはNothingであり、
Formであもる。
FormとNothingは表裏一体の姿、
矛盾するもののなかに発ち現れる。
たえず、今ここという決定の
未決定の姿をとる。
セザンヌの未決定、マティスの塗り残し、
ジャコメッティの空虚、パウル・クレーの
カオスの窓口、、さまざまな線(Form)がある。
2011年08月19日
2011年08月08日
ウイリアム・ブレイクとウィトキン「想像し、出現するもの」−1
GH05-B1
「出現するもの」
どこか天体と繋がっているという
遠い声、そんな風景がある。
植物の嬉しそうな姿をみて、
おもわずシャッターを押してしまう。
それとは反対に不快感とグロテスクさを、
異質の体感をイメージさせる写真家がいる。
身体風景を撮る写真家、隠された光を見せるために
エキセントリックな構成、人体を撮る名人がいる。
それはジョエル=ピーター・ウィトキン
この異端の写真家が、わたしには美術家におもえる。
そんなウィトキンになぜか親しみをおぼえる。
「Disciple & Master」
暗黒の影のなかに見えない光、
そんな光景が見えてくる。
神の光、神秘、その遠い声が被写体の
グロテスクさから響き始める。
見えないものの神秘、イメージの星々に輝く。
「想像することが現実となる」
と、ウイリアム・ブレイクが言ったことを
ウィトキンはその想像力を写真に託す。
銀河の遠い声、消え行く瞬間の草花の
美しい力。想像力を喚起させる力が
草花にもある。その力は宇宙の響き、
ウイリアム・ブレイクの光をおもいうかべる。
道は繋がっている。
絶望の中にも光が必ずある。
あのフランシス・ベーコンの絵画のなかにも、
ムンクの絵のなかにもあるように。
暗黒の虚無さえ永遠の時間のなかで
抱かれる。この風景こそ身体のかなに
潜んでいるのではないか。
わたしはウィトキンからそんな光を感じる。
この見えない光は植物を撮っても、
わたしには変わらない何かが、
潜んでいるとおもえるのだ。