2010年12月

2010年12月08日

ポール・セザンヌ「知覚の構成」

FG22-03

赤いチョッキの少年

 


FG22-03
「赤いチョッキの少年」
1894~1895年
カンヴァスに油彩
75.9 x 64cm / チューリッヒ、
E.G ビュルレ・コレクション

 

 

 


庭師ヴァリエ

 

 

FH01-01
「ヴァリエの肖像」
1906年
カンヴァスに油彩
65 x 54cm
個人蔵

 


 


水浴する女たち

 

FH01-02
「大いなる水浴する女たち」
1906年
カンヴァスに油彩
208.3 x 251.5cm
フィラデルフィア美術館蔵

 


 

知覚の構成

セザンヌの絵画は晩年になるほど透明感がでてきて非常に美しい。対象から断面の総体、再構築された線、色彩、それらの対象はオブジェクトの再現であるより知覚したものの世界へと、新たな線を確立しようとする知覚の線である。構成という平面(プラン)の最高傑作は「大いなる水浴する女たち、1906年」である。セザンヌが到達した世界は完成しているのか、未完成なのかは、いまだ生成途上にあるものとして存在している。現前(見えるもの)にあるものと、知覚との差異、そこから導きだされるものは構造である。ものの本質へと接近する方法があの技法に到達したわけである。塗り残し、不確定な形、遠近法の無視(比率)・・それらの断面をカンヴァスに再構成すること。特に「サント・ヴィクトワール山、1902-1906年頃」の作品は、セザンヌ自身が認識したもの、それらの像を確立することであった。対象から(現前する目に見えるものから)離反し、カンヴァスの平面に描かれたものは次元の再構築であり、セザンヌ自身が知覚(感覚器官)したものの確立、それらを構成することであった。

現前化するものとの差異、たえずこれと格闘しながら構成し続ける無謀な試み、その痕跡をみる意識の生成がある。この痕跡(知覚の構成)とは印しであり、表象であり、対象の類似性を観るものではない。その痕跡が思考を作用させそれを超え、新たな絵画を創ろうとする格闘がある。神話の誕生である。それは「大いなる水浴する女たち」の作品である。20世紀最初(1906年)の金字塔であり、セザンヌによって、はじめてタブローが独立し、それ自身による生き生きとした姿が観えはじめる。知覚の生成とでもいえる。多次元の構成が機械的に脳内で形成しはじめるのである。この感覚はフランシス・ベーコンにも受け継がれている。

赤いチョッキの少年」は:
右腕が少年の思考の印しであり、最初のスタート地点へのベクトルである。腕の長さの比率の違いはそのためのものであり、別次元の感覚を喚起させる方法なのである。まさにセザンヌが少年を観る眼差しは、セザンヌ自身による知覚の構成、厳密に計算されたものなのである。それによっていっそう少年の像へと向かわせる。また左腕は憂愁に充ちた顔に手を当て支え、弧をした背中の描き方がいっそう少年の内面を引きだしている。さらに左腕の肘の近くに白く描かれた手紙らしきものが置かれている。沈思する少年とこの対比も実によく計算された構成である。しかしこれらの構成は具体的なものを正確に描写することとは違う。抽象的に描かれ、どれも厳密に計算されたこの構成は、セザンヌが知覚した認識の印し(イデーの記号化、現実に存在しないものの実在化)ともいえる。また少年の背景に描かれているものも具体的に描いてはいない。

そして色彩は少年の赤いチョッキによって画面は密度をまし、その周り(Back Ground)は空間の再配分(断面)によって像(少年)はひとつの生命を、沈思するかたち、憂愁に充ちた少年を見事に描きだしている。ゼザンヌの作品のなかで論理的な構造など気にしなくてすんなりと意識のなかに溶け込んでくる作品である。わたしの好きな作品である。他の作品はセザンヌの理念がかたちとして観えるので、けっこうしんどいところがある。絵画としての視覚の快楽より、精神的で脳の機能を直接作用させるものがある。それはジャコメッティへと接続され、存在と不在(空虚さ、無ではない)の曖昧な不安定さがある。それは境界の接線である。マティスの絵画にもこの不安定さがある。運動という定点のない存在の漸近的で、微分された断面の再統合を試みるひとつの冒険であった。

庭師ヴァリエの肖像(側面),1906年」は:
最晩年の作品で体力の衰えがあるはずだが、本質に接近しようとするセザンヌの真摯な態度が観える。「存在」という重厚さ、密度がこの肖像画にはある。背景は「赤いチョッキの少年」のように具体的なかたちは描かず抽象的で、ヴァリエの像をいっそう存在させるための重い空気の層を独特のタッチで描いている。これほど重力の中心(像の)が観えるこの作品は凄い。少し離れて観ると彫刻的な次元をもっている。それは彫刻的になるということではない。そうではなくて次元の問題がこのタブローそれ自体から生成してくる意識の発生が構成されてくるのである。多次元的(数学では高次元から無限次元まで扱う)な内部意識が対象を離反し知覚の構成というカンヴァスに独立性をもたらすのである。このセザンヌの理念は幾何学的なトポロジーの概念と連関するように思える。現代アートの思考はセザンヌの理念をまさに受け継がれている。デュシャンセザンヌからマティスへと向かい、その思考は確り影響を受けている。

今回、はじめてセザンヌ論めいたものを書きましたが、そのさわり程度は何回か書いている。セザンヌについて語るのは本当に難しい。曖昧に書くと、輪郭がぼけてくるし、存在論的に書くと哲学の方向性にはまり込む。美的に書こうとするとセザンヌから拒絶されるような感じになる。一般論的に書こうとすると、多くの専門家が論じたセザンヌ論に、その言説にとらわれてしまう。結局わたしが感じた偏見的な見方で書くこと以外にない。しかも断定的に観ること。というのも定点を設定しないと、いつまでたっても接近できない。そんな難しさがある。その難しさこそセザンヌの本質ではないか。カンヴァスの中に多次元的な空間がある。それは完成された・・未完成(時空を形成する内部時間)である。



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