2010年10月

2010年10月25日

物を描く事とは、物のイメージであり、そのBack groundである

FJ22-02line1A-C

出来事A出来事B出来事C

 

 

 

 

 

 

物を描く事とは

a)物を描くことは、必ずしもその物を
 描く必要はない。その物のイメージを描く、
 それはBack groundであり、
 ときとして、木々を描いてもそれが海の
 イメージへと結びつくことがある。
 どんなものでも意味へと関系する
 言葉のネットワークが身体に
 こびり付いている。堆積、地層、
 歴史は過去ではないし、
 現在の分身でもある。

b)断面図は地層のかたちを観る
 観えない全体である。
 断片の集合、言葉、線、色など
 それらが統一され調和する機能、
 すなわち、カオスから組織をかたち
 つくる外と内の区分が生じる。

c)言葉は分離され、浮遊する
 無-意味な殻をもちあわせている。
 それに秩序を与え方向性をもたせる
 と、空間化された内部意識の
 出来事が発生する。それ自体の空間化、
 フィクションとも言われるが、
 もともと本質を観るということが
 曖昧なのである。水についての
 イメージは語れるが、
 水そのものについては語れない。
 



2010年10月15日

荒川修作氏のこと「マラルメの虚無からランディング・サイトへ」−5

はじめに「ドナルド・ジャッド論」と合せて読むことをお奨めします。
ジャッドの西欧的な思考と「Symmetry」の概念、荒川修作氏の
行為する建築としての概念など。両者とも建築の概念について
深く思考しています。特に荒川氏の「 Blank, Bioscleave 」の
概念とは、有機体-人間の根源を「生き生きと到来する行為」へと
導く不思議な力を持っている。


ED05-20black2

Dark Site

 

 

 

ED05-20black2
「途方に暮れて、
その星座へと」

 

 

 

 

 


 

Landing Sites

わたしは、荒川修作氏について考えるようになったのはステファヌ・マラルメからだった。それはわたしにとって重要な出来事であった。ユリイカの「マラルメ」特集号(1986年)で詩人、文学者と荒川修作氏の鼎談でした。それまで図面的に描かれた作品には特別興味をもっていませんでした。Conceptual Artのひとつとして観ていた。「意味のメカニズム」の概念をわたしはそれほど気にしていなかった。ところがこの鼎談を見て、かって身体に感じたあの異様な音が蘇ってきたのです。それはマラルメのイジチュールまたはエルベノンの狂気」を読んで身体の変動を、その振動音に驚き、音楽がきこえてきた出来事だった。この体験は身体のメカニズム、有機体-人間、共振する相互の集合が、あるシステムとして自己組織化するその振動音だったのです。それはカオスの淵・・を体験したマラルメにとって到底言語に現すことができずに、ひとつの劇を漸近的で厳密な抽象・・」というあの荒川修作氏の言葉がぴったり当てはまる緻密な散文詩で書かれていた。この経験は言語にできず「」とマラルメはいう。言語の寄集め、ダイアグラムをつくること、それは「漸近的で厳密な抽象・・」だった。暗黒に静かに身を潜め、恐怖と不安、虚無に苛まされ、必然性としての「」を、「イジチュールまたはエルベノンの狂気」を草稿のまま筐底にしまいこんでいた。

荒川修作氏がマラルメにこだわる理由は、初期の詩篇ではなく、後期詩篇でした。おもうに荒川氏の初期作品「抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン」を観ると、生と死が同時に感じられる不思議なオブジェなのです。しかし何かが誕生している気もします。それは時空が、意識内部のそれ自身によるそれ自身の生成が、つまり有機体-人間としてそこには反転がおきている。死滅した細胞の跡と、まだ発生はしていないが、新たな細胞の芽がそこにはある。荒川氏は19歳頃、彼自身が語るところによると死の恐怖や不安な時期で、辛い欝病になってしまったらしい。何もないという恐怖、己がどこにいるか分からない非人格性の身体、落としどころが見つからない。空中に浮いた身体から、死への道以外に見つからない恐怖、そのことを「・・マラルメは薬のかわりになったんです。そのころはこの世から出られるものなら何でもよかった」と話している。この体験はマラルメの詩を危機意識として深く理解し、マラルメが観ていたものを、どのようにそこからスタートすればよいか、Landing Siteを一生涯追究するに至る道が、すでに感覚内部ではじまっていたのかも知れない。死を反転せざるを得ない必然性を感じます。「死なないために

渡米する前の20代初期の作品は、凄い凝縮力をもった作品です。墓というイメージがでてくるのは、死の彼方以外ありえない。そこからでてくるものはひとつの元素、多数の元素や分子・・の結合された身体の静かな叫び、遠く言語をはなれてある有機体-生命の出現、人間という生命形態の出現を感じます。死への傾きであるより反転、内部意識の発生が、空気が光となってでているのです。すなわち・・をとおして現れてくるものは何。その追究を日本人には類稀な体系をもった概念形成として、思索行為をすることとなる。それが「意味のメカニズム」です。図面は思考する行為によって成立つ。たえず完成へと向かう部品の集合です。厳密な構成によって予測されたもの、それが設計図です。しかしそれでさえも予測されたもの以上の出来事が発生する。力学に限定すれば計算されたより以上の応力が発生すれば建物は崩壊する。しかし身体をどのように作動させるか、「意味のメカニズム」を問うて設計はしない。作業空間、経済空間、文化的空間、その他さまざまな空間を、その用途に応じ、想定して設計する。言語で埋め尽くされた空間からの開放であるより、身体は言語で塞がれることを望んでいる。・・を見込んで想定し、設計される。

そうではなくて身体に住み着いた言語(幾何学的な抽象も含め、あらゆる言葉)を剥がし、「漸近的で厳密な抽象・・」をかたちつくる身体へと、Cleavingするもの。それはイデー(理念)ではない。決定しないこと。それは「これでもなくあれでもない」あるいは「あれでもなくこれでもない」というように固定しないもの、たえず変化してゆく速度、空気、密度・・の流れ、「切り閉じる」外と内の身体運動の無限大の速度変化を触発するもの、すなわち「建築する身体」であるということです。ドナルド・ジャッドの建築は幾何学的イデー、厳密な数学的シメントリーへと回帰するものをもっています。この厳密な抽象・・は色彩を与えることによって、よりいっそうイコンのような神秘性をましてきます。荒川修作氏の概念は西欧(ギリシャ的な)的な哲学に回帰しないし、フッサールの現象学的なものでもない。ハイデッカーの存在論や構造主義後のドゥルール的なものでもない。特にドゥルールの哲学はひとつの呼吸法を学ぶけれども、ガタリを除外すれば、社会に対して直接触れる実践的な身体は失われる。ランディング・サイトのない永遠回帰の呼吸法でかなり泳いでいかなければならない。そこからスピノザのいう「コナトゥス」がでてくるような気もします。

そんなふうに荒川修作氏の「Making Dying Illegal 」から感じます。この本はわたしにとってスピノザのエチカ:第三部、備考」のことを想起せさる。身体、精神、運動そして言葉・・など、非常に荒川修作氏の「建築する身体」へと連関して考えさせるものがある。さてこの「Making Dying Illegal 」から生々とした生命-有機体である人間の活動が蘇ってくる。それに対して幾何学的構成(シメントリー、数列など)の建築はドナルド・ジャッドのイデー(理念)を思いだしますが、テキサス州マーファの平原にコンクリー製の巨大な作品が置き去りにされたかのように配置されている。荒川修作氏の「漸近的で厳密な抽象・・」という言葉はドナルド・ジャッドにも当てはまりそうですが、身体の運動(変化率)というテーマはジャッドの建築理念からは、結果としの身体は感じますが、そのプロセスとしての運動という建築的な身体はない。どのような建築もそのような概念は見当たらない。荒川修作氏独自の建築的行為する概念です。

実際に施工された「三鷹天命反転住宅」ですが、身体行為としての建築は「Making Dying Illegal」でその概念を詳細に記述してあり、それなりに理解できます。ところが色彩についての記述がまったく論じていません。周りの空間とは特別に異彩を放った色彩は目に付くとおもう。なぜあのような原色を使用して配置したのか。「死なないために」も色彩のことは語っていないし、荒川氏の他の書物では詳細に色彩論のことを述べているのだろうか。絵を描く場合、色彩そのものを見ることは、同時に他の色を見ていることになります。一つの色をキャンヴァスに置くとすると、連続的な反応をひきおこし、この固有色から離反します。そのとき固有色は消失し、描かれてはいないイメージの色が出てきます。色と非-色との間にCleaving(切り閉じ)が生じている。すなわち行為ばかりでなく、色のBioscleaveがあると感じる。それは「意味のメカニズム」で追究していたとおもう。色とは固有色と非-固有色のイメージによって成立つ。そのイメージのベクトルをひとつの出来事として観る。空気、流体、微粒子のスペクトル。太陽の光をプリズムで見ると、7色に分解されて見える。わたし達はそれらの色を人間という視覚機能をとおして合成された色で自然界をみている。犬はどのような色で見ているのだろうか。

この7色を(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫など)合成される以前の色で配置すること。これは原色であって原色ではない。脳内で合成された色というべきもののように感じる。色の配置、配列「漸近的で厳密な抽象・・」であるような、ここでも出来事の織り合わせが生じている。つまりCleaving(切り閉じ)が行為されている。身体運動とともに空間をかたちつくる微粒子が流れている。それはBack groundではない。認知するもののイメージの生成に近い。一般的なビルやマンションの建物の色は、それとは逆にイメージの固定化、イメージの作用しない色、安定した色という選択がなされる。単色で色を使用することはあっても、原色を複数(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫など)組み合わせて使うことはまずない。行為する身体はもちろんのこと、視覚をとおしても反転するという色彩の配置、配列はない。荒川氏の「三鷹天命反転住宅」では、この7色の原色の組合せで視覚をとおしての脳内の合成を促がす。そのような作用を計算して配置しているとおもえる。それは原色であっても、原色の組み合わせが色自体を変換させ、和らげ、自然が体内から生成されてくる色である。その色は原色を超える原色である。

さてわたしが荒川修作氏に興味をもった理由は、最初に述べたようにマラルメに対する見方です。マラルメにたいしては多くの研究がなされ、どれもなるほどと、思えるのですがマラルメを体験していたという、その感覚が荒川修作氏から感じられたのです。どれだけ宇宙に接近していたか分かりませんが、それぞれが、自分自身の感覚をとおしてマラルメを感じている。しかし荒川修作氏は特別な思いがあって、その当時からLanding Siteを探していた。そのことを強く感じます。でなければ「死への病」、死ぬことができないゆえに、不安、神経症、消滅する恐怖、虚無、闇、この深い病から抜け出せない。「マラルメが薬になった・・」ということは大気圏脱出のあの星座へと向かう身体の、純粋身体(牧神の午後、詩はマラルメが後にドビュッシーが曲をつくる)をとりだすニジンスキーからLanding Siteを探していたのかも知れない。虚無に到達したマラルメの観念それ自体を演(劇)じさせることであるより、演じさせる仕組みへの発生へと向かってゆく、あの「意味のメカニズム」の表現行為となる。問いそのものが発生してくる応えの感覚、これはマグリットジャスパー・ジョーンズの絵画と通ずることは当然であるが、何かの方向性をもつたオブジェクトであるより、何かの発生がでてくる問いの反応を観る絵画、すなわちそのメカニズムを追究していた。絵画における詩の発生のメカニズムともいえる。

詩的な響きを感じる絵画といえば、デュシャン、マックス・エルンスト、マグリットなどシュルレアリスムにもっとも関係のある画家たちです詩そのものといえる画家は、わたしにとってはパウル・クレーです絵画の詩とは、詩の発生を促がすものであるということです。荒川修作氏にもどりますが、多くの批評は建築に関する概念のことなのであろうか。わたしにとっては行為する詩、運動を詩に変換する環境をつくった。その哲学を後世に伝えるために「Making Dying Illegal」を遺したと、考えます。「漸近的で厳密な抽象・・」の地図作成法を、だれでもそこから読みとれるよう書き記した。哲学書とは違って、詩的な用語が多々あります。それは言語では追いつかない速度と密度をもたすためであって、用語の難解さではありません。そのような印象を受けます。かといって易しいわけではありませんが、すくなくともあの難解な哲学用語を読みとるスキルを必ずしも必要としない。荒川修作氏は、まぎれもなく詩人であり、哲学者、建築家、この宇宙の中の地球、有機体-人間の存続を継承しようとするものの行為である。それはあらゆる分野を含む。

荒川修作のことは、第1回から第5回まで連載してきましたが、必ずしも「建築する身体」の行為としての(荒川修作+マドリン・ギンズ)概念をあまり述べていません。それだけを捉えて論じることは、多分「養老天命反転地」や「三鷹天命反転住宅」を体験していないひとがほとんどであり、さっぱり分からない。 しかし「意味のメカニズム」や「TO NOT TO TODIE」を観るとその概念が体系的に連関していることが分かってきます。残念なことに「三鷹天命反転住宅」の場で身体の経験なしには、何ひとつ語れない。わたしもそのうちのひとりですが、そうはいっても手掛かりはある。それは「Making Dying Illegal」を手に触れ、読み瞑想して観る。山を歩くときの身体運動、あるいはフリークライマーの最高峰である山野井さんを観る。そこからCleaving(切り閉じ)が、岩を前にしての空気の流れ、Landing Siteの配置(知覚、イメージ、次元化など)が瞬時に行なわれる。このような特異な場としては、普通のひとには経験できないけれど、日常の場でもどこかにある。デュシャンは「ひとつのものから他のものへの移行は、極薄アンフラマンス=infra-minceにおいて起こる」という。荒川修作氏では「ランディング・サイトは中性的なしるしであり、単純で魅力のあるメモであり、それ以上ではない」というように。

 

「Making Dying Illegal :
Madeline Gins +Arakawa
訳:河本英夫+稲垣諭
発行:春秋社」参照

最後に
荒川修作+マドリン・ギンズ」のことは建築的な行為や現代思想としての21世紀の「新しい行為概念」をつくったひと、ということで重点的に論じることもできますが、もっと一般的で、上記にも書いたように、ごく日常でもランディング・サイトは起こりうるということです。・・単純で魅力のあるメモであり・・、まさに今あなたは、行為しているかも知れない。この魅力ある「行為する概念」は専門家や熱狂的なファンのためばかりでなく、生きるための行為書です。それが「Making Dying Illegal」です。この書物こそ外に出、社会のなかに浸透し、各自が行為する手引きとなる書物、死を反転し行為するLanding Site、「生き生きと到来することの書物です現代アートは、ますます流通機構にのせた見世物になりつつある今日、社会状況の係数に、固有のオリジナルを付加するだけの反復行為となってしまった。そこから脱出することを必要とする21世紀の時代は、すでに突入している。荒川修作氏はその声に応えるべくして「意味のメカニズム」という類稀な「新しい概念」を40数年前につくろうとしていた。彼こそは現代のプロメテウスではないのか。



Recent Entries
「最新トラックバック」は提供を終了しました。