2010年06月

2010年06月15日

人体の夜「外の線と内在」−3

DH02-03_bC

DH02-03_1c 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

Untitled

 

人体の夜

外の線は内在の接線をつくり、
ただ一度という、偶然を投擲する。
その運動は生成の夜を
可逆的に昇華させる。

それは夜を昼に変えることではない
明け方を待つ夜である。

そこには窓がない、それは内在の線が
外の線を取り込むということではない。

光りはそこに在るというより
既にそこにある。モナドがその
光りを遮断することによって、
外部のカオスの振動を身体の
和音に変え、外と内の場を融合する。

いわゆる内部の内部が、
無限に関係するX1の連続が
非連続のなかに形成される。

・・この変数をもつ自律化されたX1が
モナドの影として、外の波動を
関数化する。外の内として襞を・・
あるいは畳まれた内の外へ、・・のように、

「非連続のなかに、瞬時に観える
ことがある。偶然は破棄されて、
・・思考の外へ、Y1の全体として」

こうして身体の出来事は光りの夜を
とり込み、夜のなかに
ひとつの光りを持つに至る。 

それは精神自らの作用が
世界の無限の関係性をもち、
かくして宇宙の要素をモナドとして
精神のなかに、唯一、n^a個の
ファクターをもつXn^aとなる。

 

上記の言葉はわたしのデッサンノートより抜粋したものです。「人体の夜」とはあるイメージがあって、ライプニッツの「窓がない」という意味になることなのかと。それは孤立と全体が矛盾しているようでどこかで繋がっている。この空間は可視的にはならず、思考が空間化する(イメージを誘発する)ある「虚-体」という不思議なベクトルなのです。分かったようで、分からない。しかしこのイメージは「人体の夜」なのです。それは外の線と内在性の関係性がバロックへと連関します。ここではその光を描いてはいない。思考空間のなかで、その欠如を形成させたい。それが何であるかは、分からない。



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