2010年05月

2010年05月27日

荒川修作氏のこと「消えることと、現れることの様態」−2



出来事の発生とは・・」

生まれることと、
死ぬことの同時に発生させる
時間のない、時間
それは
Blankのこと

*1) Arakawa氏は:
FORGET ANY FORM
FORGET ANY NON-FORMと、

横たわる男性の個体と気化の
混沌、空気など・・を印す。

それは一つの生と死
あるいは消滅。
存在するとは、存在すると-いえない。
では存在しないのか・・接線の奇跡

すべての言葉はトートロジー
*1)「意味のメカニズムの放射・・
それは遠い
自己原因の今、
反転された遺伝子の裏側へ

すなわち:
抗生物質と子音にはさまれた
アインシュタイン》の作品のように。

 

この本(意味のメカニズム)をお持ちのかたはpage91にでている「横たわる男」の写真を観てください。「16.検討と自己批判」です。そして「抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン、1958-59年」を見比べてみると、「消えること」と「現れること」が同じ次元で起こっています。もっと厳しいことをいうと「死と生」です。そこに介在する「Blank」が謎のように見え隠れしているのです。わずか22歳頃の作品です。驚くべき完成度をもった作品です。このような作品をつくると天才といわれ、たいていは夭折してしまいます。ところが感覚に身を任せず、なぜこのような感覚がでてくるのだろうか?と。この神秘を論理的に生涯追究してゆくこととなる。日本人には類稀な「美の概念建設」を、情熱をかたむけてつくりつづけたひとでした。

わたしにとって「意味のメカニズム」は図像と言説の踏み迷い、言表行為の絵画、思考の眩暈・・を体験する不思議の国アリス」です。そして「TO NOT TO DIE」の方は詩的言語の美を体験する響きをもち、それはスピノザの「精神は身体の観念である」ということを想起させます。前回そのことを「自己原因」と関連して述べました。最後は身体の体験として「養老天命反転地」へと、伸びたり縮んだりする精神と身体のワンダーランドに向かいます。Blank空白、空虚変様の様態・・お好きなように

そして最初にもどってArakawa氏の言葉で終ります。わたしはこの*2言葉が《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》の作品のことのように感じます。

*2『 Immediately following the shaping of any world,
  even a suspicion of,
the un-imaged imaging power, the blank power
to shape, to be shaped
  is re-distributing
.』

このRe-distributingは無限大の、終わりのない始まり・・であるような動的な永遠を作動させる原理、煌めく星の誕生と死、そのようなものを初期作品《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》から感じます。それは現れることと消えることの同時次元の不思議な感覚を蘇らせる。意識の永遠性のようなもの・・が、すでにこの作品のなかにある。Arakawa氏は生涯この観えざるものの探求者となる。反転とは観えざるものの現れ、永遠回帰の鏡のように観え、沈黙に呑みこまれる感動も同時にあるのです。主体の消滅・・。そこにはいまだ無いという危険性もあります。生と死のドラマを体感する煌めく図像学、意識の踏み迷いのなかに未曾有の時空を生成させる、この「意味のメカニズム」、わたしは迷路に陥る快感を味わう。謎かけ遊びの言語と図像。「意味」と「非-意味」の2重の仕掛、それは危機を孕んだ世界。この世界を情熱をもって生涯追求していったArakawa氏は、正真正銘の芸術家だ。それ以外考えられない。この世に美しいものがある、「意識とは美」だということをわたしはArakawa氏からもらった。『精神(意識)とは身体の観念である。』というスピノザのエチカを感じます。意識は身体であり、逆に身体も意識である。この身体性とは養老天命反転地の出来事のことなのでしょうほんとうに有り難う

 

*1意味のメカニズムN02)」
Arakawa and Madeline .Gins
[発行所:ギャラリー・たかぎ]91page参照
*2TO NOT TO DIE 
Arakawa and Madeline .Gins
[発行所:リブロポート]78page参照



2010年05月25日

荒川修作氏のこと「アートする身体など・・」−1

FE24-01

抗生物質と子音に--

 

 

FE24-01/Arakawa Shusaku
抗生物質と子音にはさまれた
アインシュタイン》/1958−1959年
国立国際美術館蔵

 

 

 

 

 

死なないための葬送
荒川修作初期作品展
04/17〜06/27

 

TO NOT TO DIE
死なないために

わたしはこの詩を読みました。”Blank”ということがテーマだと
おもいました。それは次元の問題を孕んだ壮大な宇宙を想起さ
せます。

「いったい”Blank”とは何だろう」と、それは空白がわたしをつくる。
わたしが空白をつくる・・の関係性へ、用意するものと、用意される
ものの同じ次元からやってくる、別次元の現れ。それは身体が
アートすること

たえず別次元のなかに”Blank”がすでに潜勢力としてある。
わたしのいう次元とは、スピノザの最初の定義のように
自己原因」を、そしてArakawa氏から身体の変様を
作用させる”Blank”のことなど・・それは:”TO NOT TO DIE”

『《Iforms a spacetime that is killed or used up
by the species as a whole
.』のように・・

スピノザは「エチカ」第3部定義では:

情動とは、私たちの身体の活動力を増大し、あるいは減少し、
促進し、あるいは阻害する身体の変様、そして同時にそうした
変様の観念である

と、わたしはそこからArakawa氏が「コーデノロジスト」であることを
強く感じた。わたしの身体は美術という名の制度からどんどん解放
され、より自由な思考をもつようになった。そしてたえずわたしを
刺激しつづけてくれたひと、それがArakawa氏だった。絵画という
分野であるより、「概念建設」であった。

 

TO NOT TO DIE
著者:Arakawa/Madeline Gins
「訳:三浦雅士/ リブロポート」参照

 

三浦雅士の訳では『《はひとつの時空をかたちづくる種全体によって抹殺されたり消尽されたりするひとつの時空を。』のようになっています。参考に掲載しておきます。味わい深い言葉だとおもいます。この”TO NOT TO DIE”はわたしにとってスピノザの「エチカ」を想起させます。最初の定義が「自己原因」からはじまります。Arakawa氏は「Blank空白空虚)/出来事event」からはじまっています。”用意するものと、用意されるもの”という無限と有限の関係性をBlankが「」を相互に作用させる。そのような感じをもっています。Arakawa氏の作品を直接体験すると、身体をとおして感じてきます。哲学もいりませんし、視覚化のみをとおして感じるという従来のアート作品の制度でもありません、美術史を学び、洗練された知識も要りません。

わたしにとってのArakawa氏の作品体験は「Blank、空虚」です。その装置は直径2m x 高さが3m位の円筒形でできたテントみたいなもので、なかに入ると外界と遮断され、完全な暗黒の世界です。 いままで見えていたものが突然見えなくなり、脳の信号(想念)だけが見える。そのときのわしの身体の動き、これは恐怖です。一瞬のBlankだったのかもしれない。可視的なものと不可視の差異、そこから発生する世界は「精神の身体観念」です。わたしを生成させる何にものかが観えてきます。この体験は強烈で今でも忘れない。

Blankは次の次元を用意する。それは『《はひとつの時空をかたちづくる・・』という体験なのかもしれない。そんな体験をさせてくれたArakawa氏は「ステファヌ・マラルメ」の詩から虚無ということをだれよりも体験していたひとであると、それ以来おもうようになった。その書物(TO NOT TO DIE:Arakawa/Madeline Gins)は、精神の身体観念とは・・の幾何学的な原論でさえあり、スピノザの「エチカ」のような響きをもっている。したがってArakawa氏はこの「公理」をもとにして建設しはじめる。「養老天命反転地」それはTO NOT TO DIE”の概念建設

5月19日ニューヨーク市内の病院で死去、享年73歳。これからも美術以外の分野でもその哲学は行き続け、意識の永遠性を美に、その概念を「TO NOT TO DIE」に書き遺したこの原論は、わたし達の財産となる。そして他の多くの作品も同様に。

補遺:
TO NOT TO DIE”を拝読し、わたしにとってArakawa氏は死去したのではなく、生きたArakawa氏となっているのです。そして初期の作品《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン、1958-59年》は、わたしを感動させてくれました。その作品は生まれたてのArakawa氏なのだろうか、死後の元の世界なのだろうか、そこには永遠がある。初期宇宙の元素を採集したものなのだろうか。宇宙の遺伝子など・・


《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》の作品のことは
(「消えることと、現れることの様態」−2)に掲載しています。



2010年05月17日

絵画における形態とは「”可視的な物”の不可視化である」

FE16-01

切られた音符とハサミ

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

Untitled

 

切られた音符とハサミ

それは可視的な物が無意味へと作用させる
構造をつくりだす事である。フォルムは必ずしも
対象をもつわけではない。眼に観えない物の
思考の空間化でもある。不可視の機能を持つ。

そのためには可視的に配置された物が
類似や相似(二つの意味の違いはあるのだが、実際には
区別はできない)などの意味作用を空中に置き去りにし、
別の思考が発生しはじめることが必要である。

そのとき「置き去りにした物」と「思考の空間化した物」との
差異をつくりだす。これは不可視のものが可視的となる
ポテンシャルをもったタブローであることが条件となる。

この原理は物を統合する思考の裡に形態をつくりだす
眼に観えない、非対象の空間化、どこにもない物、
脳の不可思議な現象というほかはない。



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