2010年03月

2010年03月28日

エドゥアール・マネ(「鉄道」、「フォリー・ベルジェールのバー」その装置と現代アートとは」-2・2

FC04-02

FC04-02鉄道

 


FC04-02鉄道
サン・ラザール駅
1872-73年、Oil on canvas
93 x 114cm
National Gallery of art

 

 

 

 

FC04-01

FC04-01フォリー・ベルジェールのバー

 

 

FC04-01:フォリー・ベルジェールのバー
1881-82年、Oil on canvas
96 x 130cm
London,Courtauld Gallery

 

 

 

FC10-01

FC10-01侍女たち

 

 

 




 

 

FC10-01:ラス・メニーナス
1656-57年、Oil on canvas
318 x 276cm
Madrid, Museo del Prado

 

 

黒い数字A

白い数字A

 

 

 

 

 

 





DC13_Black/BB15_White3:
Black and White:非-言語の声

 

マネの絵画は驚くほど眼差しの沈黙があります。そのベクトルが未知数なのです。マティス論を書いたときもそうですが、わたしは語ることの出来ない身体の言語をみてゆきます。それは強度の問題でもあります。さて「鉄道」ですが(マネの絵画その不可視の構造とは・・」)で詳細に述べていますので省略します。マネの「カテゴリ」をご拝見ください。それを踏まえて読むことをお奨めすます。ここでは「鉄道」と「フォリー・ベルジェールのバー」とその構造の比較を述べてゆきます。マティスやスーラではそれなりに分析的にその構造をダイヤグラム化して制作してきました。スーラはその構造的な分析をしなければ到底理解できないとおもい、特別にダイヤグラム化しました。

それはわたし自身が、よりいっそう理解するためのものです。しかし最近では詩的なメモ程度にしています。シュルレアリスムのエルンストやマグリットについてもわたしの絵を掲載して、詩的に記述するのみにとどめています。デュシャンにしても「それはガス体のシュルレアリスムである」や「・・それは沈黙と透る鏡を用意する」というタイトルでそれ以上のことは余白とします。語らない方がよいでしょう。あとは作品をつくるプロセスにはいるので論じられない部分があります。出来るだけ構造的な部分を述べ、美しいとか、人間の本質を描いているとか、そういう美の部分は、各自が感じることなのでわたしは述べません。その構造を感じることによって、知覚的な誘発が湧いてくるものであればいい、そんなふうにおもっています。アートは知識ではなく感覚です。専門書を読めば読むほどその言説が本質を乖離させる場合もあります。スーラは点描の画家というレッテルなど取り払って、もっとストレートに感じると、神秘的な宇宙像が見えてきます。それは無意識に構造を観ていることになるからです。機能は構造を解体させ、身体の言語となるのです。ひとつの強度が形成されてきます。

マネの作品は別格といえる程に可視的な背後にある深い哲学的な(不可視の)構造をもっていますそのタブローは見えることの見えない沈黙を感じとる身体の言語となって顕現化してきます。観ることのよろこびでは、特に「鉄道」などはダイレクトに反射してくるので鑑賞者の目を楽しませてくれる作品です。しかしその装置は複雑で、やがて謎のような作品へと連関してゆきます。それは「フォリー・ベルジェールのバー」です。ベラスケスのラス・メニーナス」の装置も複雑に絡み合った構造をもっています。両者に共通している要素は「鏡の言語」ということでしょう。フーコー的にいうと、”表象は対象の束縛から解放され純粋な表象として、それ自ら現す装置となることができる”。「ラス・メニーナス」は、古典でありながらその装置は時空を超えて、「鉄道」や「フォリー・ベルジェールのバー」へと。そして現代アートのジャスパー・ジョーンスとも連関してゆきます対象のない対象とはイメージのシメントリーをつくること、アートもこの行為であるともいえるアートは意外と数学や物理学との距離は近いです上記画像Black and White:非-言語の声をご参照くださいこの詳細につては'08.03.14 付にて「カテゴリ」現代アートに掲載しています。

さて「鉄道」ですが、フーコーが見事に分析しています。それでおしまい、というわけではないのです。それからが大変洞察力を必要とする哲学的な要素にはいるわけです。フーコーはその入り口で地図を観、その概要を語っただけなのです。わたしはそのポイントに旗印しを置き、そうすることによってマネの物質性を肌で少しでも感じればとおもいます。それでは各オブジェクトの諸要素につて項目をあげて述べてゆきます。鑑賞者の視点は最初に少女と婦人を一つのブロックとして観るとおもいます。表裏いったいというわけです。いわば鏡のような、対象とそれを映し出すもの、そんな関係としての2つのオブジェクトです。それではそのポイントについて入っていきましょう。

少女は汽車を見ている、わたし達鑑賞者側からするとその少女の姿は当然後ろ姿となる。鉄柵を手で握ってじっと汽車を見ている。その手がいっそう鑑賞者の眼差しを汽車に向ける。しかし汽車の姿は見えない。その煙だけなのである。それとは対照的に左側の婦人(モデルはヴィクトリーヌ・ムーラン)はこちら側の鑑賞者を見ている。このタブローは主に4つのオブジェクトから成立っています。(.番目として小犬と本だけがわたし達と共有するある心情を示す記号として、そのオブジェクトの役割をはたしている。)

1・ 鑑賞者を見ている左側の婦人
2・ 鉄柵を握っている後ろ姿の少女
3・ 何本もの縦線の鉄柵と2本の水平の鉄柵、一つの劇場を
  つくる装置として全体を構成する要素となっている
  (これは重要な劇場の要素です)
4・ 汽車の煙(汽車が見えないことによって成立つ要素です)

この構成は、正面の姿(1.左側の婦人)と後ろ姿の少女とは見えない対象性の表象関係をイメージさせる。この二人はあたかも無関係な様相として一瞬を捉えている。その関係から少女の後ろ姿を見、鑑賞者は鉄柵を握っている少女の手を見、その視線は汽車の煙へと鑑賞者を向かわせます。しかし4つのオブジェクトは分解された部品のように、その一つを見ると、まるでばらばらで無関係なオブジェなのです。マネの装置はこの無関係によって構成された見えないもののベクトルが強烈に顕現化してきます。構成の概要は上述に示すとおりです。しかしわたしには「見えないもののベクトル」を語ることはできない。ここまでです。

次に「フォリ・ベルジェールのバー」です。これは「鉄道」の構成要素をさらに発展させ、パースペクティブは複雑です。「鉄道」では婦人が左側に描かれ、後ろ姿の少女は左手を含め画面中央に描かれています。「フォリ・ベルジェールのバー」ではウェートレスを画面中央に描かれ、カウンター(水平線)に手をのせています。その構図は、カウンターに接している手を交点(右腕を低角Bと左腕を低角C)としてその腕を対辺とすると、頭の頂点に向かうこの2本の線の交点の頂角は35度になっています。そのシメントリー(垂直2等分線)を暗示しているのが8個の垂直に列をなしているボタンである。この上着の末端のボタン下は、三角形のかたちで下のグレイのスカートを幾何学的に描いている。いっそうシメントリー(カウンターに接しているスカートは上着の型によって中央部は鋭角な三角形を、その左右には頂角は90度で描いている)を暗示させるものとなっている。

もうお解りだとおもいますが、このウェートレスの形体がこの装置を暗黙のうちに不可視の対話へと導く、構造的(部分と全体のパースペクティブ)なプロローグとなっています。数学的に言えば、ひとつの関数をつくっているのです。微分係数であると同時に全体を暗示する原始関数というようなものです。マネの絵画はこの未知数(X)のベクトルが思考のうちに発生してくる知の装置となっています。最もその不可思議なオブジェクトは、鏡に映っている男性で、黒い帽子を被り左手にはステッキをもっています。そしてウェートレスの顔を深刻な眼差しで話している様子です。しかし口元を見ると結んでいるように見えるし、少し半開きにして、つぶやいているようにもみえます。鏡に映っている像は対象であるはずだが、そうではなくて、かなり移動して描いている。上述しましたように、このウェートレスの幾何学的なシメントリー(対象性)とカンヴァスでは見えない男の像が鏡に映っています。

そして相手をしているウェートレスはそれを受け真剣な感じなのである。この鏡の対象性を無視した形体で、彼女の頬は右側に向け描かれている。画面中央に描かれた彼女とは、別人のようにルノアールに出てくる豊満な体に描かれてはいるが、男性の話を真剣に受けている様相をしている。しかしそのことによって男性と女性の対話がいっそう不思議な情景をかもし出している、ひとつの物語を構成しているかのようである。これがこの絵のテーマであり、ウェートレスはこの物語を見せるための表象的な変数なのかもしれない。謎は深まるばかりである。そして全体のパースペクティブとして鏡に映っている劇場の多くの男女達である。この要素はウェートレスと男性が対話している原始関数ともいえる。社会機械としの象徴的な役割をはたしている。最後にこの装置の場を提供しているのが、白い水平のカウンターと劇場の真中付近にある太い水平の枠、そして後ろに縦線としての2本の柱である。物質としての肌は2本の柱の間に大きく描かれた白い光を発しているシャンデリアであり、そこに円い照明だろうかあります。この装置のリズムをつくっている。

しかしこの劇場の水平な枠は、彼女が正面を向いている左腕と、鏡に映った左腕の隙間に見える枠の色が、かなり白い色で後から塗られている。白と黒のコントラストを演出するためか。左側の水平の枠も鏡に映った像であるので、当然シャンデリアの像が強く反射して明るく照りかえる白光に近い色のはすだが、らさらに白く描こうしているのか、あるいは少し大きめの平筆で意図的に前の色を消すように、白に近いグレイで荒いタッチでつぶすように描いている。天上から吊るされたシャンデリアは鏡に映っているはずです。だが描いてはいない。散らばった雲がうすく見えるような、その暗示でとどめている。不思議な描きかただ。劇場の雲のようにもおもえる。

また、一つ一つのパーツ(部品=オブジェクト)はまるで合成された無関係な様相なのである。とくにウェートレスの正面(鑑賞者を見ている眼差し)の顔を見ると口元はしつかり閉じています。しかも無表情です。このカンヴァスに描かれていないカウンター手前の男性(鏡に映た右端の男性)とは話をしてはいない。ところが鏡に映っているこのウェートレスは、少し前がかがみで男性の話を深刻に聴いている様相なのです。しかも鏡に映しだされた像ですのでシメントリーなはすです。上述しましたように、そうしてはいない、それを(像)ずらし独立した像として描いている。迷路のように思考を惑わし、未知数がさらに未知数を増し、沈黙の深い世界へと導く装置なのです。元の関数がいっこうに見えてこない。それは不可視の装置をつくるために可視的に配置し、遠近法を変形させ、合成画像のように描いているのである。この概念は思考する20世紀アートの概念です。デュシャン的にいえば、網膜絵画からはじめて解放した思考の絵画で、いわゆる絵画の知の装置をつくった最初の画家というわけですスーラはさらにそれを発展させ意図的に構成してゆきますこの二人は現代アートの偉大な先駆者です。この装置の構成要素のオブジェクトは仕組みがかなり複雑なため、「鉄道」のように(具体的なものなど)項目をあげて論じることはせず、ここでは省略します。上記文とあわせて画像掲載を参照して見てください。

そしてここが真髄なのですが、鏡に映された像は非-シメントリーに描かれているということです。この効果は捉えてはなさない不思議としか、いいようのない深い謎に惹きこまれていきます。シメントリーは調和というイメージになりますが、マネの絵画はときとして、幾何学的構成(バルコニー1868年、水平線と垂直線、三角形の構成になっています)でありながら、それを壊し、形而上的な非-シメントリーへと導く見えない関数があるのです。「シメントリー」⇔「非-シメントリー」のような関係なのです。これは本当に不思議な絵画です。マグリットはそれを見事に捉えたマネの「バルコニー」を「パースペクティブ供1950年」として4つの棺を配置して描いています。

また彼女を中心に左右の酒瓶類と鏡に映ったカウンター端の上にはその酒瓶類をずらし描いている。これも三角形の幾何学的構成です。そして物質的な色を添えるためカウンター中央近くに白い花とオレンジイ-エローの果物を配置している。全体のトーンは黒と白の対比(コスチュム、カウンター、平行な太い劇場の枠、シャンデリア、鏡に映しだされた燕尾服とその帽子など)で、マネ特有の深さを演出している鏡に映しだされた男性たちはオペラ座の仮面舞踏会1873年と同じ要素ですねこんどはそれがというところがさらに絵画の空間表象としての言語が、何重にも仕掛けられた装置となっている

以上のように:
いったいマネは何を描こうとしたのだろうかと疑問におもえば、これでますます迷路に陥り、思考の旅がはじまります。その行き着く先はバタイユの「沈黙の画家」マネかも知れませんしそしてフーコーのいう三重の不可能性なのかも知れません現代アートで言えばカンヴァスの裏側に描いた表の表象・・のような”ジャスパー・ジョーンズ”あるいは”ウォーホル”の反復行為の表面に描かれた「社会機械の死」であるような・・このように20世紀絵画の概念をマネはすでに思考していたというわけです

 

マネ論は3回に分けて書いてきましたが、整理して書いてはいず、わたしのメモしておいたマネ論めいたものを繋げて、書きとめただけです。作品をつくるための構想(マネの構造、骨組を観る為)、その概念を掴みたいとおもい書いた。とりあえず今回でおわりとします。わたしにとっては、マネは写実主義から印象派への先駆者としての画家というより、現代アートの概念を最初につくったひとです。いまもわたしに影響しつづけている。そんな画家です上記に書きましたアーチストはカテゴリに、「マネ、スーラ、デュシャン、ジャスパー・ジョーンズ、ウォーホル、バタイユなど、他」詳細に論じていますのでそちらを参照してくださいまたマネの絵画」:ミシェル・フーコー安部 崇で上梓されていますそれとフーコーは言葉と物、第一章でラス・メニーナス侍女たち)」のことを明解に論じていますそれらを拝見して観るとよりいっそう興味がでてくるかも知れません。「現代アートとは”知の装置”をつくる新しい概念の発見行為ともいえます




2010年03月18日

青い手「無感心の掟」

FC17-01/青い手

青い手

 

青い手
結ばれたネクタイは消され
無関心な青い手がそれを
管理する。描かれない絵は
思考の記述を可視的にする。

 

 

 

それは詩的ことばの闇に無音の音を訊かせるノイズ。
絵画の詩は見えない言葉、パウル・クレーのように。

塞がれた口のおしゃべり、見えない目を持つ絵画の鑑賞を
葬る、見えるもののおしゃべり。「無関心」は心の痛手ではない。
感情の波を水平にする深い海底の星。

ぼくはかき消されようとする無窮の空間におし黙る。
皆が楽しんだ劇の終わりに、ピエロの悲しみを観た
あの姿だ。



2010年03月15日

黒い裸婦供崙盧瀛震漫考えないものへの形態」

FC15-01black

黒い裸婦

 

 

 

 

FC15-01black
「黒い裸婦供内在平面」
考えないものへの形態

 

 

 

 

 

 

 

 

*叫び   cri

『マットレスは恐らく一言語である
たぶん簡単に信じるに足りぬものである
死亡も     鳥もちも    訪問者も
次の間で捕獲されて
睡眠の上に雑誌をのせる
演出ということだ-----
弱点が体をやつれさせる
希望はない------ 』

 

*叫び cri
「フランシス・ピカビア、
母なしで生まれた娘の
詩とデッサン」参照
訳:鈴村和成



2010年03月14日

オブジェの言表「詩の思考が発生する見えない絵画」−1

FC13-02

blue hole

 

FC13-02
steel plate
and 
A leg

 


 

鉄板と脚
トーチで切られた雲状の痕にも
生きる価値はある。扉を蹴った脚が、
飛びだしてしまったとしても。

*空虚
『あらゆる言語に反する二つの方向だ
というのも幻想は抽象を生み
その完璧な形態のうちに
驚異を発展させるから
人も知るように 貝殻がかたちづくる
完全なものは 人間の言葉である

それ自身の法の中
生の現実的支配下にあって
外部から生じる
心の内部の消耗は
連続する運動だ
それが身を隠す神を分離する

人間の意志に従い
三条の光線は想定させる
腐敗する不動の大気が
この地上に君臨することを
それは霊的な自然に苦しむ
人も知るように。』

 

*空虚
「フランシス・ピカビア、
母なしで生まれた娘の
詩とデッサン」
訳:鈴村和成



2010年03月12日

エドゥアール・マネ「マネとボードレールその背景」-2・1

FC10-1

さくらんぼを持つ少年

 

 

FC10-1:
さくらんぼを持つ少年
1859年、Oil on canvas
65.5 x 54.5cm
カールスト・グルベンキアン美術館

 

 

 


 

FC11-2

マネ_燕

 

 

FC11-2:、1873年
Oil on canvas
65 x 81cm
チューリッヒ、ビューレ・コレクション

 

 

 

 

 

FC11-3
 横たわるボードレールの恋人

 FC11-3:
横たわるボードレールの愛人
1862年、Oil on canvas
90 x 113cm
ブダペスト国立美術館

 

 


 

FC10-1:さくらんぼうを持つ少年
ボードレールの「パリの憂鬱」という散文詩があります。その散文詩のなかでマネのことを書いています。それは「”エドゥアール・マネに”30.縄)」という散文詩です。これはどう読んだらいいのだろうか。その主人公はアレクサンドルという名前で、「さくらんぼうを持つ少年」のモデルだったのです。あのマネの無関心な眼差しとはちがって、なんと純真で生々した表情で描いていることだろうか。

ところがボードレールは12才年下のマネに対して辛辣なことを書いているのです。このアレクサンドルはマネのアトリエで働いていたのだが、15歳のときに自殺してしまう。それはマネがこの少年を叱りとばしたことで、*『衣裳箪笥の鏡板に首を吊った僕の小僧っ子、僕の生活の茶目っ気たっぷりの伴侶だったのです!』という文でボードレールマネのことをこのように書いている。この散文詩をどのように感じればいいのだろうか。もういちど見てください。「さくらんぼを持つ少年」を。なんと素直な微笑みなんだろう!

後にマネはこの少年の死後もモデルにしたとおもわれる絵があるらしい。それは「犬を連れた少年」という作品で、深い悲しみをもった絵らしい。わたしは観ていなのでわからないけれど、。「さくらんぼを持つ少年」の微笑みをもった表情からは想像もできない。

FC11-2:
この作品が意味するものは何・・田園風景それとも二人の婦人、あるいは空と大地なのか、タイトルはそうではなくて、小さく小さく描いてある「」。自由に飛びかっている””なのです。飛んでいるその一瞬を捉えている。そして大地の上に座っている二人の婦人。その若い婦人の方は、画面中央に白い服を着てもの憂げに座っている。手にはブラウン色の日傘をそっと持っている。そこへ近接して飛んでくる燕の羽音の風、。そして対照的に左側の婦人は、寡婦のようにおもえる黒い服を着て、静に本を読んでいる、静寂と大気。この大地の遠景には放牧された牛たちと、その地平線の真中にブルーの屋根の教会と風車、そして周辺にはオレンジ色の家々がある。生活から離れたこの大地に座ってひと時の休息を。あの雲の空から燕が運んでくるものは何・・そこにはボードレール的なアレゴリーがある

 FC11-3:横たわるボードレールの愛人
それはジャンヌ・デュヴァルの肖像、ボードレールに霊感を与え続けた嘗ての愛人、いまはもうその面影はない。半身不随の身体、投げ出された脚、大きく描かれた白いスカートと上半身のシルバー色の縦縞、緊張した顔と胸のあいている首には十字のネックレス。そして黒いソファーに座って、身体を支えている大きな右手は、背後の透明な波うつカーテンの端にそっと置いている。左手はモスグリーンの扇を持っている。その姿は意志だけが支えている。彼女を抱擁する大気は微かに「髪のなかの半球」をわたしは思い浮べる。

*(「ボードレール、パリの憂鬱」
訳:渡辺邦彦/みすず書房)参照



2010年03月09日

エドゥアール・マネを「現代アートの視点から見る」−2

前回は’09・01・26付で第1回として(ジョルジュ・スーラを「現代アートの視点から見る)−1」をとりあげました。そして今回の第2回目ではエドゥアール・マネを掲載しますマネの絵画とは不思議なタブローをもった謎のような絵です。その不可視の構造から観えてくるものは生の死、あるいは沈黙その瞬間から観えてくる永遠のなにものかが・・)わたしを非常に惑わせます。スーラと同様、現代アートの先駆者でもあります。わたしにとって「限りなく人間とは何か」という問いを仕掛けてくるタブローなのです。フーコーが最後までメモしていた画家であり、おもいとどめていた画家だったのです。そのような偉大な画家マネは、今でもその概念の途上にあります。前回のデュシャンで”見えないものの、見える思考を”書いて終らせるつもりでしたが、近代絵画の最初の画家がManet/マネ”であり、そのことを抜きにしては考えられないので、今回はマネをテーマにその周辺と現代アートの関係性をみてみようとおもいます。

ウォーホルデュシャンの概念は共通することろがあります。それとマネの絵画がいかに現代的な概念を含んでいるのか、分かってきます。マネの絵画とは見えるものの、見えない謎が顕現化してくる、「眼差しの彼方にあるものとはいったい何・・」という最も謎に充ちた画家です。マネの絵画は美術史的には写実主義と印象派の画家ですが、わたしにとっては現代アートそのものなのですボードレールとともに「人間とは何か・・」、この謎に充ちた深い問いを、近代資本主義(社会機械と内在)の発展に移行する時代を捉えた画家なのです。ボードレールはそのことを「バリの憂鬱」に、散文詩で見事に表現しています。マネのことを赤裸々に語っています。スーラはもっと踏み込んで現代の思考へと発展する概念をすでに描いていましたね。今回はわたしの感じたことを論じたいとおもいます。下の画像を参照しながらご拝見下さい。尚、ボードレール、ウォーホル、バタイユの関連はカテゴリ」にありますのでそこを参照してください。

  FC03-01A/-01B/-01C

Manet-green

Manet-brown

Manet-blue

FC03-01A,B,Cを3つの単色で
反復させると、事故が
ウォーホルの無感動的な
概念の
沈黙へと接近してくる

 

  FC02-01

Manet_自殺

 

FC02-01:自殺
1881年,Oil on
canvas
38 x
46cm
チューリッヒ、
ビューレ・コレクション

 

 

 

 

  FC07-1                            FC07-2

バルコニー燕

FC07-1:バルコニー、1868-1869年
Oil on canvas
169 x 125cm
パリ、オルセー美術館

   FC07-2:燕 1873年
Oil on canvas
65 x 81cm
チューリッヒ、ビューレ・コレクション

 

 FC07-3                                   FC07-4

皇帝マクシミリアンの処刑アトリエでの食事FC07-3:皇帝マクシミリアンの処刑
1867-68年,Oil on canvas
252 x 305cm
マンハイム州立美術館

FC07-4:アトリエでの食事
 1868年,Oil on canvas
ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク

  FC04-01                               FC04-02

鉄道

フォリー・ベルジェールのバー
FC04-01:鉄道
1872-73年,Oil on canvas
93 x 114cm
National Gallery of Art

 

 

FC04-02:フォリー・ベルジェールのバー
(1881-1882
)/Oil on canvas  96 x 130cm 
London, Courtauld Gallery

 

マネのタブローは現代美術の先駆者に相応しくまるでバタイユ的な”無”の眼差しがそこにはあります。画面前面に立っている少年の眼差し「アトリエでの食事」もそうですけど、「バルコニー」の作品もそうでしょう。マグリットもこのモチーフで描いています。それは4つの棺を配置した不思議な絵です。題が「パースペクティヴ供1950年」で、この絵は「マネ作:バルコー」からマグリットは死のイメージを喚起されたのでしょうか。マグリットの絵は死体を入れた棺というより、死を生きた形にした現在というイメージで、一方マネは生を死の形にした現在という捉えかたもできます。そのマネとマグリットのイメージは表裏一体の不思議な関係性にあります。その神秘は、二人の婦人の服装は白い色彩で、男性は黒のスーツを、そして黒い背景に溶け込んでいるように描かれた背後の男性、この白と黒のコントラストは非常にイメージをかき立てます。最後にこれを囲むように平行に走っている緑色の鉄柵と、縦の線とクロスした鉄柵、その両サイドには鉄柵と同色の窓の扉が待ち受けている。これらの情景を見るとマグリットの棺「パースペクティヴ」を暗示させます。そして3の人物の眼差は、まるで無関係のようにそれぞれ別方向なのです。なんという不思議な眼差しなのだろうか。

マネの作品にあるこの眼差のべクトルはいったいなんだろう、そういう深い問がでてきます。というよりひとを不安にさせる沈黙があるのです。無対象なのだ。「そこから引き出せるものは何・・」まるで静物画の無関心とでもいえる「ものの現前化」があります。このマネの眼差しの対象は何処へ、見えないものの沈黙とはなんだろうとかとおもいます。この描きだされた人物たちはウォーホル的な無関心さの様相なのです。

ウォーホルは: 『美しさ?何それ?--そこにある美なんて無意味だ』と言い放ち煙に幕く。束の間の瞬間、エンドレスな反復行為によって網膜の快楽を麻痺させ、見ているのだが、観ていない。やがてそれを観ることをやめ、この無関心な視覚化ともいうべきものへと移行してゆく。「エンパイヤ・ステートビル」や「食べる」などの映画です。ではそこにない””はあるのか。そこに”無い”のだからそれは”死というモノ”なのでしょうか、表象の背後にあるものは何かという問いがでてきます。絵画はせないものをすこと、鏡の部屋純粋表象そのものへフーコーの関心事もそこにあるのでしょう。バタイユもそうです。存在としての「何ものかを・・あの沈黙の彼方にあるものとはいったい何」ということでしょう。

ウォーホルの作品、自動車事故の現場をカンヴァスにアクリルとシルクスクリーンで描かれた「Five Deaths Twice ,1963年」や「Green Burning Car 機1963年」があります。事故という大変な出来事にも係わらず、この反復された画面の無感心さ。報道写真家はもっと劇的な場面を撮っているでしょう。マネの絵画にもあるのです。「皇帝マクシミリアンの処刑」がそうです。特に画面右側の兵士は、銃口を45度に上げ、引き金をひいて次の銃撃の準備をしている。その兵士の顔は眠っているかのような無表情なのです。最初に処刑された左側のマクシミリアン皇帝の部下は苦しんでいるのだろうか。バタイユが最後まで持っていた写真は、中国の残酷刑罰生写真があります。これは刀で胸と脚を剥いでいる写真です。刑罰を受けいている被写体の顔が奇妙に恍惚の絶頂のような表情なのです。この顔とマクシミリアン皇帝の部下の顔とがなぜかオーバーラップしてきます。まるで無関心の永遠のような気さえするのです。

それとマネの作品FC02-01:自殺」とを見比べてください。見易くするために同じ状況をグリーン、ブラウン、ブルーの単色で反復した上の画像”FC03-01A/B/C”を観てください。ウォーホルの概念とマネそしてバタイユの思考がわたしには同質の何かが見えてくるのです。それは何か・・沈黙の彼方にある”無”か、それが現前化してくるときそれぞれの特異性が表現されているのです。それはマネの眼差しバタイユの絶対非-知ウォーホルの無-感心が、しかし共通点があるのです。それは「器官なき身体」という概念が、その平面が観え隠れしているような気がするのです。これはなかなか難しい問題です。一冊の書物では到底著せないものがあります。

それでは現代アートの概念をつくったデュシャンは”もの”をどのように観ているのだろうか。そのことは前回に書いたとおりです。M・デュシャンとP・カバンヌの対話の部分を再度引用するとデュシャンは次のようにP・カバンヌに言っています。

M.デュシャン: 『---美的な感動を何も受けないような無関心の境地に達しなければいけませんレディ・メイドの選択は常に視覚的な無関心、そしてそれと同時に好悪をとわずあらゆる趣味の欠如に基づいています。』

この言葉はウォーホルの反復する概念(作品)とは反対ですね。このことによって慣れされ、人々は視覚的な無関心になるのです。その無関心から、表象の背後にあるものは何・・絵画はせないものをすこと。ウォーホルは何も現していない平面の「Nothing」なものをつくた。これはデュシャンとは正反対のように観えて、実はウォーホルの概念と共通するところがあるのです。 

 

次の第2回目は、マネとボーレールの関係性など、「さくらんぼを持つ少年」、「」、「ボードレールの愛人」と、散文詩30・縄」など、とくにマネを論じたボードレールのことにつて書いてゆきます。テーマはすでにマネの「カテゴリ」にて詳細に論じています。またウォーホルとバタイユの関係性はバタイユの「カテゴリ」にあります。第3回目は鉄道=サン・ラザール駅」、「フォリー・ベルジェールのバー」とジャスパー・ジョーンズのこと。あるいはマネの鏡ベラスケスの鏡など、いままで書いてきたことのまとめとして論じてゆきます。



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