2010年02月

2010年02月28日

Marcel Duchamp「それはガス体のシュルレアリスムである」

FB27-01/A sneeze of Duchamp

デュシャンのクシャミ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マルセル・デュシャンの部屋

デュシャンの部屋に入ると霧のようなガス体が立ち込めています。
わたしはそれを吸うと神秘的な測定器が働いてクシャミをします。
きっとそのガスを吸い込んだからでしょう。
『ローズ・セラヴィよ、なぜクシャミをしない?』という応答なので
しょう。わたしはレディ・メイドの服を着てその部屋を
歩いたのです。というより着せられたのです。

ガス体のレディ・メイドはデュシャンの言葉と個体が出合い
化学反応を起こしたもの、いわゆる昇華したものです。
そんな装置をつくるデュシャンは、変化するもののクシャミである。

小さい鳥かご、体温計、イカの甲、大理石の立方体」それらの
組み合わせは地層の原理を見せるローズ・セラヴィである。
蒸発を待ちうける女性名、ローズ・セラヴィという別の人格をもった
一つのデュシャンのようなもの。それは詩的化学反応を起こす想念
絵画、脳化学反応のガス体というべきものである。

そこでわたしはクシャミをしたデュシャンを想いうかべ、「大ガラス
の独身者の9人を繋いでいるその線を「クシャミからでた鼻水線」と
おもい、描いた。それを右下に「A sneeze of Duchamp、デュシャンの
クシャミ」と書き、上には「Please cover your nose with a tissue
ティツシュで鼻を押さえてくれ」という文を英辞書から選んで抽出し
書いた。「Ahchoo」という意味は日本では「はくしょん!」という
音であるが、英語圏の人はどのような音でするのかおもしろそうだ。

これでまでわたしの絵画論らしきもの、見えないものの見えるメカニズムを書いてきましたが、いかに網膜絵画から脱出することが可能か、デュシャンの最後の言葉をもってこのシリーズをおわりたいとおもいます。わたしがデュシャンから学んだことは「ジョルジュ・スーラ」と「マティス」なのです。詩ではジュール・ラフォルグ、マラルメ、ランボーも入るでしょう。とくにラフォルグです。そんなわけで21世紀ではどのようなアートの様式がでてくるのか、新しい概念の発見へと冒険する勇気がますます必要になってくるでしょう。だれが、これがアートなどとセレクトするのか問題でしょう。評価されたものがアートで、評価されないものを発見していく行為はアートではない。つまりアートでないものを発見(新しい概念を)していく道のりを歩んだ20世紀後半の代表の画家は、わたしにとってデュシャンです。彼は最後に「信じるか、それを信じないか」といった、そういう到達地点にいったひとだとおもいます。その意味でわたしはそれなりに「デュシャンの部屋」を少しだけ覗いたに過ぎません。では下記にM.デュシャンP.カバンヌの対話を引用して「デュシャンの部屋」につて終ります。

M.デュシャン: 『---美的な感動を何も受けないような無関心の境地に達しなければいけません。レディ・メイドの選択は常に視覚的な無関心、そしてそれと同時に好悪をとわずあらゆる趣味の欠如に基づいています。』

P.カバンヌ:『あなたにとって趣味とは何ですか

M.デュシャン:ひとつの習慣です。すでに受け入れたものを反復すること。何かを何度も繰り返していれば、それは趣味になります。いいにしろ悪いにしろ、同じようなものです。やはり趣味であることに変わりありません。

P.カバンヌ:『あなたはどうやって趣味から抜け出したのですか。』

M.デュシャン: 『機械製図によってです。それはあらゆる絵画の約束事の外にありますから、いかなる趣味も負っていません。』


わたしが引用した本はタイトルが:『デュシャンの世界』、
エピステーメー叢書/訳:岩佐鉄男+小林康夫/朝日出版社の
ものです。

 

この本によってわたしは”スーラ”と”ラフォルグ”を知ったのです。それは本当にラッキーだった。まえからこの二人は好きだったのだが、たんに感覚だけでその思考方法までは、まだ理解してはいなかった。このブログにデュシャンスーラ、ラフォルグの「カテゴリ」を設けてありますので、そこに詳細に書いています。御覧になりたいかたは拝見してみて下さい。上の画像(FB27-01)はデュシャンをモチーフにしたわたしの言葉遊びです。



2010年02月26日

時間の部屋とは「見えないものを見える想念となるようなもの・・」

FB25-01/赤い時間の部屋

赤い部屋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤い時間の部屋

・・発掘されたこの円環運動の軌跡は、思考の前に座っている。
わたしがみいだしたものは一点の無数の永遠性、時間の微粒子
だった。嘗て遇ったものが、存在と非存在の間ですべてが消え、
堆積された地層は不定形な浮遊した思考の島(身体)をつくる。

凝固したものは時間の昇華を発生し続ける。
それは忘れ去られた大気の時空となり、解明されぬままに
わたし達は呼吸している。その大気の書物を視覚空間として
捉えねばならない。わたしはそれを”見えないものの
思考絵画と呼ぶ。

絵画が思考となるとき書物となり、思考が絵画になるとき
見える思考の絵画となる。対象が見えないことによって絵画となり、
その連関作用が時空の微粒子をとらえる。詩は言語によって
現すことができない言語をとりあつかう。見えないものへ語らす
沈黙、マネの絵画のように。その意味においてわたしにとって
絵画も詩も同じところからでてくる、別の視覚言語にすぎない。

思考の無限性を”見えるかたち”にするには、どのような
ものでも”現前化しているものとは違った”見えないものの
見えるかたちにしなければならない。

デペイズマンとはシュルレアリスムの手法とは限らない。
わたしは地層化された内部から永遠の時間性を、その目録を
見る身体の言語へと、「赤い部屋の時間」をつくらねばならない。

強度の永遠回帰を、昇華している気体の言語を、その粒子を
感じるとるために凝固させるのである。昇華を見えないものの、
見える思考にかえねばならない。視覚作用を十全に活用する
絵画の技法とは、その彼岸に横たわっている神秘を発見
してゆく作業なのである。



2010年02月23日

こわされたカリグラム「マグリットの平面」

FB23-01B/-01R

blue shoesred shoes

 

 

 

 

 

 

 

青い鳥と赤い鳥

わたしは青い靴と赤い靴を描いている。
脚も同色で描いている。ありえない脚の色、
靴の色はリアルにあるかもしれない。

わたしが描いているものは靴ではないし、
それを履いている脚でもない。

青い鳥と赤い鳥」を見えないものの
見える思考を描いているこの言表?
隠されたもの・・

いったい何を描いているのか

それは詩(絵)としてのタイトル
青い鳥と赤い鳥」を描いているのか?
隠されたもの・・

描かれていないものの、描いている
思考を現前化する、
それはトートロジーのようなもの。

 



シュルレアリスムとは「”自分を見つけたときに迷う”もの」

FB21-03/赤い鳥の木霊

巣立ちの痕1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤い鳥の木霊

羽音は巣立ちの記憶をもっている
それは想い出すからではない。

からだの一部にすでにもっている
マックス・エルンストの葉は、
フロッタージュされた)をもっている。

擦れた紙の上に浮き上がる”かたち”

ものと別のものとが出合う同時性
分離されたものの純粋差異

いわゆる孵化をすでに懐かしんでいる
裸形の卵は*自分を見つけたときに迷う

 

上述の*自分を見つけたときに迷う*とは、補足すると「画家は自分を見つけたときに迷う」と
エルンストのいった言葉だとおもいますが、それは謎を見出すこと、「神秘」とは宇宙の踏み迷い
をもった感覚なのだろう。たえず発見してゆくこと。いったい何を・・それは誰にも分からない。



2010年02月18日

バタイユ「死を前にしての歓喜の実践」そのデッサン−7

AJ1401M

光りは光源からA

 

 

AJ1401M
「バタイユの方へ」

 

 

 

 

 

死を前にしての歓喜の実践
          
        1.
消滅の状態へ到達するまで私は静謐に身を委ねる。
河が海に、星の輝きが夜空に消え去るように争いの
ひびきは死のなかへ消え去る。

戦いのちからは一切の行動が静まることによって
完遂される。暗い未知なるもののなかへ踏み込むような
かたちで私は静謐のなかに入る。

その暗い未知なるもののなかに私は落ち込む。
その暗い未知なるものに私自身が変わる。

        2.
私は死を前にしての歓喜である。

死を前にしての歓喜が私を運び去る。
死を前にしての歓喜が私を突き墜す。
死を前にしての歓喜が私を消滅させる。

私はその消滅のうちに留まる、するとそれから先は
複雑な絶え間ない断末魔のかたちで表明される諸々の
ちからが集まった一つの作用のように森羅万象は私の
脳裡に映じる。

こうして私は理解できない底なしの空間のなかへ徐々に
のめり込む。

私は諸世界の底に達する
私は死に蝕まれる
私は熱に蝕まれる
私は暗い空間のなかに吸い込まれる
死を前にしての歓喜のなかで無に帰し。

 

ジョルジュ・バタイユ
「死を前にしての歓喜の実践」
訳:生田耕作/発行:奢灞都館


上記の文は『アセファル』誌、1939年バタイユ著作、生田耕作訳の1、2を引用したものです。わたしのデッサンでは「アセファル」とは逆で、頭と胴はあるが下半身を描写せず暗示に留めた。この(「バタイユの方へ)は、最初に(’05・12・29)わたしのスケッチ(AJ1401M)を掲載したものです。わたしの思考を述べたりもしていましたが、’10・02・17付けですべて削除した。言葉が沈黙に、無に到達する喚起力がなければ、ただのバタイユ論。わたしは書くことを放棄。それより直接詩を、「死を前にしての歓喜の実践」を名訳されている生田耕作氏の訳文を掲載しておきます。参照してください。わたしのデッサンがバタイユのイメージなのですから。

以後これをもとに、バタイユに喚起され様々なバリエーションで描いています。バタイユを思考すると、どうしても「からだ」の問題が強烈に自然発生的にでてきます。それと同時にヘーゲル的な思考が「からだ」を痛めつけます。それは神経症をわずらうほど強烈です。たんなる考察ではとうてい到達し得ない、神秘的な実体というようなものが現れてきます。それまでのロゴスの帝王が瓦解してきます。そのときに、いったい何が起きているのか。その問いがわたしのデッサン(AJ1401M)です。ようするに各自が「無神学大全=内的体験」のような宗教的なエクスタシーを体感する以外にないということです。わたしのデッサンをカテゴリに「バタイユ」を設けましたので、そちらを参照して下さい。バタイユに関しては機会がありましたら別のかたちで表現しようとおもう。



2010年02月15日

2重の構造「鏡のSelf Portrait or 賭け軸」

FB15-02A/FB15-02B
「鏡のSelf Portrait or 賭け軸」


掛け軸1掛け軸2

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

賭け軸

吊るされたひとはわたしだ。
わたしは壁に「掛け軸」を描ける

棒に摑まっているわたしは、
わたしを吊るしている。

そこには、わたしはいない。
鏡でもて遊ぶ。離したらおしまい。
からだの中心から出てきたわたし。

救いを求めているのか、
遊んでいるのかわからない。
縮んだ言語はぶら下っている。

振れば落ちるのだが、わたしは
それが出来ない。そんなことを
すれば、わたしは鏡から押し出され
てしまう。

賭け軸」でなくなってしまう。



2010年02月14日

絵画とは「視覚を通し、視覚を分離し純粋表象の出来事を創る」

FB12-01/秘めたるもの

空間に立つ人体D

 

劇場としての哲学

---深層への拡がりを持つ物体の
限界点で、出来事は非物体的で
ある。(形而上学的表層)物と言葉
の表層では、非物体的な出来事は

 

 


命題の意味となる(論理学的領域)ディスクールの連なりにあっては
非物体的な意味=出来事は動詞によって留められている
(現在の不定法的な点)----

---出来事の系列と幻影の系列とを共振させねばならない。非物体
的なるものの系列と、触知不可能なるものの系列とを共振させねば
ならないのだ。どこまでも生きのびおのれを顕示する闘いと死の系
列と、飛翔する到達すべき偶像の系列とを共振させること。

それはほかでもない、武器と武器とが触れあう衝撃の向こう側で、
人間たちの心の内面ではなくその頭上に、運命と欲望とを共振させ
ることである。運命と欲望とが両者に共通のある一点といったとこ
ろ、なんらかの幻影的な出来事とか模像の原初的根源といった
場所で収斂するというこてではいささかもない。出来事とは、幻影の
系列には決って欠如したものなのだ。

---それは、起源なき出来事の反復が、およそあらゆる模倣の外部
で、また類似の束縛から自由な姿でおのれをそれと示すという欠如
である。したがって反復の仮想であり、何ものをも隠してはいないど
んな場合も個別的な仮面であり、隠蔽を意図せぬ模像であり、
いかなる裸像を蔽ってはいないみじめに不調和な衣裳なのであっ
て、つまりは純粋な差異なのである。

 

著者ミシェル・フーコー
「言説・表象」劇場としての哲学、
訳:蓮實重彦より抜粋


 フーコーの「劇場としての哲学」はそのまま絵画論でもある。ベラスケスの「ラスメニーナス、侍女たち」やマグリットの「これはパイプではない」は絵画空間ではあるが、ひとつの思考空間を、純粋表象を発生させる言語の力をもっている。デュシャンは言葉の力を、というより詩の力を最大限にデッサンとして駆使したひとである。不可視のものを見えるものとして言語の力を巧みに絵画へと連関させる力、その相互のベクトルの作用によってわたし達を神秘の世界へと導いてくれるのである。最終的には分からないものの感じる世界を生成させ、純粋表象の出来事を創り続けたひと達なのかも知れない。宇宙的神秘。

結局「沈黙の絵画マネへと接続させるバタイユやフーコーの「マネの絵画」に対して異常な関心を抱いているものは”鏡とその視点(場所、位置)”--表象の背後にある何ものかを感じ取ろうとする、一つの逃走線なのかもしれない。けっして捉えることはできない不可能な出来事を可能とする、ある出来事を生成させること。つまりそれを「劇場としの哲学」というのかもしれない。それは絵画とて同じことである。わたしにとっての「劇場としての絵画」は、マネの「フォリー・ベルジェールのバー、1881-1882年」であり、ジャスパー・ジョーンズの「Summer,1985 Fall,1986 Winter,1986 Spring,1986」や「Face with Watch、1996」などである。

わたしの描いた(画像FB12-01/秘めたるもの)ものは、人体らしき影だけで、背景も何も表現していない。ただ色彩の強度(彩度、明度、色相)などの変化をつけただけである。視覚と言語の相乗効果を観たいとおもい作品化したものである。「秘めたるもの」というタイトルにした。何も語っていない絵画、純粋強度の視覚化といえるもの、そんな感じです。フーコーの「劇場としての哲学」は、わたしにとって哲学というより絵画論になるのです。あるいはピエール・クロソウスキーであったりもします。



2010年02月10日

Robert Mapplethorpe「身体とその眼差し・・」−2

FB-01Bl1/身体の彼方へ

R・Mapplethorpeのオマージュ

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

ロバート・メイプルソープの痕跡
わたしはメイプルソープのSelf portraitを、光と影をフレームの
中に収めた。そこには、彼の身体は写てはいない。フレームの上
に、黄金色に輝く光をカーテンのように描き、その中は暗黒に溶け
込むブルーのカーテンにした。そしてその末端は暗黒へと吸い込ま
れている。「もはやないNevermore」というポーの「大鴉」の詩が
浮かんできたのだ。放蕩者への最後の言葉が、なんと残酷な、
虚無の響きを帯びているのだろうか。このフレームの中に
メイプルソープがSelf portrait、1988年」ガウンを着て、大きな
木製の椅子に座っている写真と、オーバーラップしてくるのだ。
彼の写真はシャープで眼差しを形式化する、古典彫刻のように。


そこでわたしは、古代ローマのイメージが喚起されるフレームを台に置き写真に撮った。さらに暗黒の空間を出すため画像(FB-01Bl1)処理し制作した。性への欲望はブラックホールに呑みこまれる狂気か、永遠の静寂に抱かれる死への逃走なのか、死とは永遠の窓口なのか。そんな瞬間を見せるメイプルソープの写真は、生の形を垣間見せてくれる。そしてわたしはメイプルソープの身体を暗黒の星座へと、やがて輝きだす星を暗示させるよう、フレームの左上に光の微粒子で飾った。微かに見える光として描いた。

メイプルソープのことは(「性と身体そして形式美」−1)でも掲載しています。前回ではそのベクトルの彼方とはどこか抽象的に描き、述べました。今回も重複していることろはありますが、メイプルソープはカオスの窓を観ていたのではないか。放蕩者の眼差しを描いて見ようとおもった。しかしメイプルソープのイメージを描き、書くことはかなり難しい。何しろ身体と思考がぴたりと寄り添った写真家なので、そのセルフポートレートはどの写真家もなし得なかった様態を見せる、その驚きはわたしを感動させた。事実、ロラン・バルトは青年のセルフポートレート(1975年、右腕を大きく水平にあげ、微笑んでいる半身像)ではもっとも美しいとさえ言っている。この写真は無邪気でほんとうに素晴らしい。若くしてこの世を去ってしまった。エイズにて死去、しかしその痕跡はいまも輝いている。



2010年02月04日

顔貌性「最後の画家、フランシス・ベーコンの自画像とは・・」−2

 

平面の余白に

この平面の余白に多くの顔があり、わたしは、わたしでない
顔がある。フラットな色彩の中に描き込まれた平面
この無名性の顔貌性。かつての肖像画ではないし、主体性の
問題でもない。ゴッホ、レンブラント、セザンヌ、この画家達は
美学であるより、それは一つの政治学であり、社会学の顔でも
ある。あるいは自然科学でもある。ベラスケス
ラス・メニーナス」はフーコーにとつての、ひとつの鏡であり、
絵画は断言することから、純粋表象の発生装置でさえあるのだ。

近代科学と同様、絵画の世界でも、方法論的に主体の問題を
客体的に捉えようとする、その矛盾を孕みつつ格闘する画家、
ゼザンヌがいる。また近代ヨーロッパ文明を絶望的に逃走する
ゴーキャンの自画像がある。さらに遡って、栄光と挫折の織り成す
レンブラントの自画像。人生そのものが彼の自画像であった。

この21世紀初頭に、いまわたし達はいる。いったい何を描けば
いいのか、画家にとって自画像とは何か・・こんな疑問に応える
画家は、多分もういないだろう。それは画家ではなく、いまでは
アーチストと称され、とても文明など背負いきれないだろう。
そこにある「もの」とは不明な顔、この顔こそ平面のひつの
抽象機械というべきものである。

その顔は、船が何処へ進むのか迷路の航海をしている顔である。
アートはひとりの才能でもなければ、個性でもない。多重な構造
の下でもがいている記号的な顔である。そんな顔を表現すれば、
自画像であるより文明の社会の機械と化した顔貌性である。
追究すればとんでもないものに出っくわす。顔が瓦解し、変形し
すぎた様相を描く最後の画家、フランシス・ベーコンがいる。

無名な、のっぺらぼう的ポップアートの顔貌性とは正反対である。
セザンヌ的な、そこにはある方法論がある。主体と客体の闘争、
その背後に何が潜んでいるのか、瓦解しかかっている顔、
ベーコンが描くのをやめたき、キャンバスに残っている「もの」とは
いったい何にか・・アルトーの「神経の秤」か、
否そうではないだろう。有機的な最後の形態か。

確かにそこには虚無がある、人々を不安定にさせるものが、
しかし絶妙なバランスがそこにはあるのだ。眼に見えない
無というべき光がある。主体でもなく、客体でもない感覚を
発生させる力があるのだ。「」というものは形態の
視覚的な快楽の心地よさでもなく、そのグロテスクさを排除
するものでもない。それは感覚の発生が無基底の光を伴って
生成してくるものであるということ、そんな顕現化があるのだ。

それがある形式を、フォルムを生成してくれる純粋感覚の発生を
うながす。この感覚の発生はセザンヌ的だ。彼の後続者は
ジャコメッティマティス、おそらくフランシス・ベーコン
含まれるだろう。



2010年02月01日

顔貌性「Self portrait、それは不確定なXである」−1

FA14-03/Self portrait X

Self portraitX

 

 

 

 



 




 

 

顔貌性とは

それは不確定な基底材Xである。
どんなに自分を描いて観ても、
はみだすものがある。何回見ても定まらない。
この「もの」、この顔とは何か・・狂気に
みちた顔貌性を観せる画家たち。

レンブラントの最後の自画像、暗い背景を
まえにして笑っている顔。自ら耳を切り落とし
包帯を巻いたゴッホの自画像。空間を押しのけ、
そこからでてきたようなセザンヌの自画像、

内在すなち、風景のなかに溶け込もうとする強靭な
主体と解体、そんな行為を観るにつけ、いったい
自画像とは何だろう。自画像とは自画像以外の
もの」。そんな問いを描き続けることは、
スフィンクスの謎」のようなものである。

デュシャンが女装して撮ったSelf portrait
ローズ・セラヴィ」、これは画家が自画像に
固執するものとは正反対である。
もの「顔、あるいは身体」がそこから乖離する
一つの「もの」をつくる。言葉遊びの顔貌性、
不確定な基底材Xの崩壊、それはひとつの
抽象機械であるようなもの・・



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