2010年01月

2010年01月25日

空と線「"Pierrot Le Fou" 分断と瞬間そして永遠など・・」

FA22-01A/空と線

雲のイマージュ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また見つかった
何が?-永遠が、

このランボーの詩で終るゴダールの映画、
気狂いピエロ」はいったい何処に行くのだろうか?
狂気に充ちた行為、あのフェルディナンは・・・

やがてアラビア半島の最南端アデンに到着する
ランボー。この地アデンは灼熱の太陽、すでに
詩は放棄している。前人未到の世界に到達した
財産とは何・・

・・ボードレールからランボー、マラルメなどに受け
継がれるのだが、ランボーのような詩人はいない。
どのようなランボー論であろうが、ランボーはそこにはいない。
詩のなかにもいない。自分の中にランボーを見つけた、
中原中也がいる。

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」この”山羊の歌”の
サーカス」の奇妙な響き、逃走線を行くフェルディナン
ピエロが必要な「サーカス」、ピエロは破壊であるより、
再生だ。なぜ自爆しなければならないのか、フェルディナン

また見つかった
何が?-永遠が、

このランボーの詩で終らす、ゴダールは
なぜピエロの破滅を望んだのか・・・

ブルーの空と水平線、そこにはもう逃走線はない。
生きるとは、逃走し続けることではないのか。
ランボーは、なぜ灼熱の地アデンに逃走したのか・・

そんな疑問に答えるてだてはない。もしあなたが
詩人であるなら、ランボーから逃走することだ。
ボードレールからも、マラルメからも逃走することだ。
逃走線を発見することだ。芸術とは逃走線の痕跡
にすぎない。「Miserable miracle, みじめな奇蹟」

むしろ詩の外にある,芸術になる前の
Henri Michaux,アンリ・ミショー」の踏破の線、
「ムーヴマン」歩き続けること。向こう側に行かないこと、
死ぬことなくして死ぬこと、それがピエロではないのか。
ではなぜゴダールはフェルディナンを自爆させたのか・・
「半ピエロ」はすべてを破壊しなければならない
自爆は終わりではなく、それは始まりだつた。
・・フェルディナンは、ゴダールは永遠を発見しなければ
ならない。だから最後に、ランボーのあの詩、

また見つかった
何が?-永遠が、

逃走線の延長のそのまた延長に、永遠回帰の
差異と反復、前人未踏の己を、アンリ・ミショーの
すべてはムーヴマンだ」と語る、この逃走線を
身体に沿って運動し続けなければならない。
それは自爆と再生の「みじめな奇蹟」となろう。
それがピエロではないのか・・

ジョルジュ・ルオーは「ピエロは私なのだ」と言った、
この言葉をおもいだす。

 

FA22-01A:この画像は「空と線」というタイトルですが、ゴダールの「狂気いピエロ」のエンディングの印象を描いたわけではありません。けれども無意識にその平面(プラン)にむかっていったのかも知れません。そこから神秘を発見してゆかなければなりません。空を見たから無限が見える分けではありませんし、海を見たから無限を感じる分けでもありません。外と内の接線の様なもので、内在の問題でもあるわけです。逃走線を追究してゆくプロセスから、突然現れるのかも知れません。向こうからやって来るのかも知れません。そのことについて、わたしには分からない。

この画像は空を撮ったものです。そこにただわたしの敬愛するジョルジュ・スーラの線をいれたのです。「アニエールの水浴」の空、そして水面に映る雲と空。このタイトルを「ジョルジュ・スーラと無限の空、あるいは宇宙」でもよかったのです。それではわからないので「空と線、ゴダールと”狂気いピエロ”のイマージュ」としたのです。スーラとどう結びつくのかは、わたしにも分かりません。ゴッホの作品「青い空の麦畑、1890年」の空を想起もさせます。無限と有限の狭間で・・・創造とは形式を破壊してゆくこと、スーラにはそれを特に感じます。その点はどの芸術家もおなじだとおもう。無限とは永遠のテーマなのだと申し上げとおきます。マラルメ偶然というテーマで瞬間を捉えようとした、あの無限性を追究していたのです。デュシャンもそうでしょう。彼は、それを「infra-mince=アンフラマンス」極薄という特別な造語で詩的に表現している。しかしそれは再現することもできず、見ることもできない極薄ということか。初期の知覚の現象を感知する前の極薄・・それはいったい何? 二次元であるのに三次元を観ること。3次元であるのに4次元を観ること・・・



2010年01月20日

Robert Mapplethorpe/メイプルソープ「性と身体そして形式美へ」−1

FA20-01gray

拡散と収束

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

性と身体そして形式美へ

性と死、そこには生きる力がある。ロバート・メイプルソープにとってセックスすることはアイデンティティーだった。若いとき、彼のセルフポートレートは輝いていた。性への好奇心と快楽と死の影。その様態をサド、マゾ・・あらゆる形態を写し撮ること。何かに拘束されたくて、解放されたい。それは身体を捉えること。この様態変化を人工的な写真の構築を試みる。一瞬のうちに解放された彫刻のように。そしてオブジェの回りをとりまく静寂、シャープな金属質の柔らかくて硬い”もの”、勃起したペニスの花。儚く壊れるもの達の光りと影。思考の発情した遠い過去の死。かたちだけが残りそれらをイデーのなかに、普遍的なものが形式化される。永遠を夢見てこのかたちにするメイプルソープ、まさしく光りと影の織り成す刹那さは男性特有の柔らかさを、勃起したペニスに花咲く一輪の花。その処女性の美は、メイプルソープのレンズを通した光りの反射と影。雌花と雄花の両方を兼ね備えたメイプルソープの花は、ナルキソスの鏡を見る。若き美しいメイプルソープは、今はもういない。そこに一輪の白いユリの花が咲いている。エイズにて死去、享年42歳合掌。

 

FA20-01gray:
この画像は外へ出ようとするベクトルと、内部へ向かおうとするベクトルの相反するもの、いわば生と死というように、同時に起きている出来ごとの「」をイメージして作制した。これは無数にあるシーケンスの瞬間を捉えた「欲望する機械」のようなもの・・その機械の背後にある何かを描きたかったので、さらにメイプルソープのイメージを、彼がいったい何を見ていたのか、具体的に身体とその眼差しを描いてみた。それは存在そのものに接近しようとする、非身体的なカオスの窓であるようなもの、そんなふうに感じます。



2010年01月18日

Duchamp/デュシャン「・・それは沈黙と透る鏡を用意する」

FA-02pBlue3

星々の手

 

 

FA-02pBlue3
Hands:
星々の手

 

 

 

 


・・それは沈黙と透る鏡を用意する 

----はじめに用意されたわけではない。
想わぬところからやって来る。それは
突然でもなく、継続でもない。閉じられた
口の渇きからでてくる。沈黙は色彩のない
色彩というように夢に似ている。

取り出そうとすれば、空虚のなかに言葉を
埋め、身体に色をつけねばならない。
生きた言語、「強度の永遠回帰」を創りだそうと
する。それは腫れ物にさわる痛さと快楽の言語を
とり出す。この予測される生成を待ち受けるものに、
こわばった身体へ餌を与えねばならない。

ひとは「アー・・」とか「ウ・・」とか分からぬ
意味不明の身体言語に遭遇する。
痙攣と言語の中間でひとは、ようやっと
舞踊をする。そうやって創りだした「もの」を
見せびらかす行為を観るのは、なんだか
はずかしい。絵画は、はじめっから裸になって
どうぞという、図々しさがある。言葉を追いやる
という、あの視覚をよりどころにする快楽に
落ち込む図々さというやつだ。

言語で埋め尽くされたメモ「グリーンボックス」は
この図々しさを脳みそにしまいこんで、
絵画の脳みそを創り続けたデュシャンがいる。
そこからでてきたものは、意味不明の神秘と
言語の乖離からくる「Infra-mince=アンフラマンス
であった。しかしそれは、ある接近を意味する。
乖離でありながら言語がそれを接近させるのである。

何を・・」それが「アンフラマンス」を接近させる
これは再現でもないし、経験でもない。
言葉はすでに「アンフラマンス」を含んでいる
未生成の脳内の視覚化、「仮想のもの」という
ように、あるシミュラークルが不可視の構造を
言語の彼方に創っている。これは語ることが
出来ず、未視覚の「実体」とでもいえる、神秘の
領域に、脱領土化の「ミステリーゾーン」に
入ってゆく。

こんな領域を開拓し続けていたデュシャンは、
絵画の見るという網膜の快楽から解放した。
思考の詩的絵画「”グリーンボックス”など」で、
言語と視覚の融合をやってのけたのである。
それは「アンフラマンス」を再領土化する作業
だったのである。それも何年もかけて創り続けて
いた、あの「大ガラス」と「遺作」となった
作品などである。

 

上記の文と画像掲載(FA-02pBlue3)とはあまり関係がありません。全然ないことはないが、関連付けて見ない方がいいでしょう。当初は身体と言語、それと視覚化の思考を書こうとおもっていたら、いつのまにかデュシャンのことになってしまった。書いているうちに自分のなかで変化していくのもおもしろい。わたしはおもいついたらどんどん過去の記事を追記したり、削除して更新していきます。訪れたかたは多少途惑うかもしれませんが、これからも流動的に記事を変化させながら掲載していきますので、あしからず。



2010年01月12日

Mark Rothko/マーク・ロスコ「”key of Life”それは不安な夜に・・」

EK24-01blue/EK24-01red

blue annd redblue annd red-01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Untitled

 

不安な夜に・・

・・気にはしていたのだが、その絵を観たときから
ある予感を感じてしまった。美しいとか、上手に描けて
いるとかそういう絵ではない。鑑賞する絵でもない。
わたしは「それに」近づかないようにしていた。
マーク・ロスコの絵とは、わたしにとってそういう
そういうところに在る絵だ。感情(情動)が身体性と
なって形成されてくる、生を超越した死か・・

この危険性をたえず孕んでいる。」

生の不安定さ、揺らぎ、生成の向こう側・・
彼岸とは・・それは涅槃・・永遠・・
だが、生の発生はどこからやって来るのか、
だれにもわからない。生の死、この身体性を
脅かすものとは何者か・・

それは「Key of Life・・

 

EK24-01blue/EK24-01red:この画像は’09・11・25に掲載したものです。昨日ロスコについてNHK3で放映されていたので、わたしの感想として上記の文を追記しました。わたしがなぜ抽象表現主義にいかないのか、その理由は長期にわたって行為し続けるとやがてクラフトになるか、精神の衰えが、じかに身体を蝕む。それとともに、散逸の構造が現れてくる。やがて思考の(無意識も)コントロールの喪失をともない、その絵の世界を支配する非主体性の王国が表現行為となる。その表裏一体、主体と非主体の格闘がいっそう強まる。

そこにはJackson Pollockポロック)のように銀河がではじめることもたしかである。しかしこの格闘が喪失(宇宙空間の塵となって拡散してゆくように)すると緊張感の喪失となり、更に持続してゆくと、上述したように、たんなる美しいクラフトになる。その技法をめざす人はべつにして、死の彼岸が観え隠れする揺らぎの色彩が濃厚となる可能性がでてくる。身体の衰えとともに密度が薄れてくる。de Kooning(デ・クーニング)もそうかもしれない。わたしの好きなアーチストである。Tom Wesselman(トム・ウェッセルマン)やRoy Lichtenstein(ロイ・リキテンスタイン)もデ・クーニングのデッサンが好きだったらしい。そこからドナルト・ジャッド的な世界へ移行するのも必然性がある。わたしはできれば形式のなかにマティス的な思考をしたいとおもう。

あるいはさらに商業主義的なポップアートに、ビジネスアートの先駆者でもあるAndy Warholウォーホル)のようになってゆくのも時代の流れでしょう。それはドルを稼がなければならないということです。しかしウォーホルにはあの「エンパイア・ステート・ビル」、「食べる」などの非ビジネスアートの、だれが観ても感動しない映画を創ってもいる。これは抽象表現主義の反対の世界である。究極の非主体性の世界でもある。いずれにしても強度をどのベクトルにもってゆくのか決定をせまられる。わたしはそこでアートにもならず、詩でもない曖昧な中間の世界をおとしどころにすればいい、という考えをもっている。強度の問題をPierre Klossowski(ピエール・クロソフスキー)的(永遠回帰とは強度の問題でもある)な現代版であればいい。そんな方向性をたせたらいい。カオスのシュミラークルでもあり、形式の永遠回帰、またMatisse(マティス)の絵画のなかにある”ぞっとする”宇宙にもわたしは魅力を感じている。いずれにしても神の扉を開けるのは誰、それはKey of Life・・ということでしょう。



2010年01月03日

思考と都市「廃墟の果てに・・」

FA02-01blackA

都市工学  

 

 

FA02-01blackA
思考と自然

「夢の島地球号」

 

 

 

 

 

 

 

 

 


      神の扉
「都市の増殖と廃墟の果てに・・」

窓の向側は、まだ暗黒になってはいない。
あのマティスの「コリウールのフランス窓
ではない。2つの空間はどちらが内か外なのか
区別はない。窓を閉じる扉は確かにある。
一つの内在、すなわちそこは{神の扉}がある。
というのも、扉が身体を護り、。”カオスの襞”
いかにも自然と人工の乖離を解体する。
昼の暗い光と厚化粧の夜の光。二つの重なり
あう逃避。叫ぶ思考は閉じた「人工的なモノ」を
空に向かって無窮のビームを宇宙に放つ。

いわゆる、「人工的なモノ」が自然化する
現象とは、重なり合う死体の大きな黒い空洞を
創ること。すでに周りは砂漠の様相化している。
黒い空洞の跡におしよせるこの砂漠。
人々はそれを知っている。今日の喜びのために
明日の死体を創る。それが芸術の機械。
破壊の後の創造とは、生の死をエロティシズム
に変換する供儀、地球を破壊するとは、
ひとの「欲望する諸機械」のなれの果て・・

わたし達は何千年も前から、繰り返し
ピラミッドのような、「モノの思考化」現象を、
人工物を創っている。
もどるために・・

思考を駆使し、不可逆性と可逆性の両者を
身体に背負い生きている。それは地獄と救済とを創る・・
つまり都市化の思考とはこんな「モノ」を大地に今もつくり
続けている。 「夢の島地球号
砂漠の真中に、天にも届く思考のビーム。

人類の一本の電子ビームを外へ・・
人類の一本の電子ビームを外へと思考が叫ぶユートピア』
それは「グノーシス」ではない。
たんなる「欲望する諸機械」か・・



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