2009年12月

2009年12月23日

ジョエル=ピーター・ウィトキン「神秘とグロテスクそして聖者なのか」−1

EK22-01

ウィトンキン5

 


EK22-01
「ウィトキンの写真集
より鉛筆スケッチ」

 

 

 

 

Ref:[Sanitarium, New Mexico1983
       photo:Joel-peter Witkin]

このタイトルの写真にでてくる被写体の「太った女性」は、ロープで首吊りにされた猿の死体から2本の管で、彼女の口と接続されているのだ。あらゆる生命体の血を吸って生きている奇妙な吸血鬼にさえおもえる。なんというグロテスクさなのだろうか。わたしはその彼女(被写体)がサトゥルヌスのように感じたのだ。その印象をわたしは急いでスケッチしてみた。いったい彼女はサナトリウム「(Sanitarium)=療養所」で何を療養しているのだろうか・・、わたしには彼女が「サターンの女王」にさえ観えてくるのだ。そこでわたしはソファーに横たわっている、この威容に太った女性を「サターンの女王」として描いた。

わたしはこのサナトリウム(Sanitarium)というタイトルが、何を意味しているのか分からない。しかしこの言葉によって誘発される、ある存在が被写体と巧妙に絡み合って、わたしの感覚に訴えてくる「何ものか」がある。それにしても、ウィトキンの写真はグロテスクなのかエロティックなのか、あるいはゴヤの絵に出てくるサトゥルヌスなのか、理解不能の彼方からイメージがやってくる。その感覚はわたしを刺激するのだ。

2009年12月13日

物をデッサンすることとは、「見える物の再現ではない」

EK11-01

吊るされた物と瓶

 

 

 

EK11-01
吊るされた
物と4つの瓶

 

 

 

 

 

 

 

デッサンとフォルムについて

わたしは物をデッサンするとき、その物を
再現(類似)することではなく、イメージをデッサンします。
・・線を描き、色を着け、見えてくる方向性を探る
作業がデッサンするという行為なのです。
それは脳内で構成されてゆく「何ものか」です。
わたし自身、理解して描いている分けではありません。
新しいフォルムを発見してゆく作業なのです。

世界が訪れてくるその線を、色を配置すること
によって、観えてくる「かたち」があるのです。これは
「かたち」を描くのではなく、「かたち」が世界のうちに
現出してくるのです。これをフォルム「かたち}と、
わたしはよびます。

エドガー・ドガEdgar Degas)は「デッサンとは
フォルムではない。フォルムの見方だ
」と、語っていますが、
この意味することは何か、ひとつの内在の現れ方
を線が、色が自らのうちにフォルムを生成してくる
という意味で、わたしは理解します。秩序と調和を
フォルムが形式化してくるのです。

印象派の時代では、具象から多少離反してくる傾向
が見えますが、まだリアルなかたちが見えます。
セザンヌですら、もとの対象が分かります。ところが
今日ではその対象が判別できないところまで来ています。
その先駆者がアーシル・ゴーキーArshile Gorky)です。
わたしにとってデッサンというイメージは、もはやドガではなく、
ゴーキーなのです。

そして20世紀後半に入りますと、
デ・クーニングWillem de Kooning)やジム・ダイン
Jim Dine)など完成された作品なのか、デッサンなのか
殆ど区別がつかない、そういう時代になってきています。

わたしにとってデッサン(Dessin)とは作品のことです。
あまり区別はありません。デュシャンDuchamp)のメモも
言葉のデッサンということになります。ドガの言葉だと
おもいますが、「一枚の絵とは一連の計算の結果だと・・・
言っています。まさにそのとおりだとおもいます。
では「計算とは何か」アートでは解のない問いであり、
ある感覚器官の反応だとしか言えません。

人工的なものを含め、この反応とは宇宙の広大無辺の
ひとつの切片を微かに呼吸している、人間という
生物の営みを生命ある「かたち」に感じる、という形式を
創りだすことなのです。この形式は共通言語を通して
(視覚化されたフォルム)見いだし、反応を惹きだす表現の
ことです。したがって反応とは表現と同義語のことです。
画家はそれを探究し、鑑賞者はその記号を読み取り感覚の
反応を喜びをもって感じることができるのです。

 

EK11-01吊るされた物と4つの瓶」:この絵はわたしにとってデッサンともいえるし、作品ともいえるもので、習作とはいえません。わたしにとってある概念のもとになるものなのです。ひとつの公理系を自然から、あるいは人工的なものから創り出す記号化なのです。



2009年12月08日

Andy・Warhol/「ウォーホルのアートは”器官なき身体”である」

EK04-FL03red/EK03-FL03blue

flowerAflowerB

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウォーホルの”器官なき身体”とは

アンディ・ウォーホルのアートは「器官なき身体」である。
・・こんな事を述べるのも「生とは、死にそこないの出来事」である、
というためではない。強度を限りなく繰り返す生の死であり、
シミュラークルの変形された身体である。これを「器官なき身体」と
いう意味においてだ。

まさに死をたえず素材にするウォーホルの
アートは、宙吊りにされた生の出来事を内在性の無反応
として引きずり出す装置である。それは時間現象の無限性、
エンドレスな「もの」の反復である。そこから表面を蒸留し
シミュラークルを形成させ、内在平面の不在化が純粋な
時間を身体にに与える。・・永遠回帰、反転されたアルトー
であり、あるいは終ることのないルイス・キャロルの
不思議の国のアリス」である。どこまでも表面・・・
裏が不在化する身体である。

しかしである・・その背後には、巨大な暗黒の宇宙へと突き
進むウォーホルの眼に見えない不可視のアートがある。
意識内部に無反応化のベクトルが作用し、反感覚の強度が
発生してくる。その真髄がウォーホルの映画「食べる」、
エンパイア」などである。その「抽象機械」の作動原理を
観せるウォーホルのアートは見事である。その醍醐味は凄い。

それとキャンヴァスにシルクスクリーンで制作された
「キャンベルスープ缶」なども同じ原理である。
この反復されたものとは、そのダイアグラムである。
コピーのオリジナルの代表が刷られた「お札」というわけである。
生きるということが、すべてがコピーするためだという
のが面白い。内在平面に対してこれほど、反アルトー的で
ありながらどこかで繋がっている。

もちろんあのフランシス・ベーコンとも関係していることは
言うまでもない。生と死についての平面を考えればよい。
ではデュシャンとの共通点はと、問われれば、それは当然
あるでしょう。「問いがなければ、解がない。」という「物質」の
詩的言語の平面を考えればよい。その賭けが神秘の裸体へと
導き、(詩的言語の結晶化でもある)「大ガラス」、や「遺作、
1・落ちる水、2・照明用ガス、が与えられたとせよ」という
神秘的な装置をデュシャンは創った。生と死のドラマから
エロティシズムを見事に蒸留することに成功している。

 

前回'09/11/10に第3回目としてウォーホル論を書きたいとおもっていました。第2回目の<ウォーホルなど「現代美術の世界」その場所は2>ではわたしの体験を通して書きました。これはきわめて個人的な論評です。それをより普遍的に書きたい希がありましたが、どうしても書くことがでませんでした。かなりしんどいという事と、詩的表現にならなければウォーホルに接近できない。というのも「出来事の無反応」という感覚を、その意味を論理的に述べざるを得ない、深い哲学的な思考になってしまうのです。わたしには到底無理で、ウォーホルのいう「Nothing」の哲学が生を仮死状態にする、シミュラークルの強度の問題であることに気付いたからです。ウォーホルについてはもう沈黙した方がよいとおもい、論じないことにします。ただ上記に書いたように「器官なき身体」の、あのアルトーの逆鏡であるような強度をもっている、とだけ申し上げて終わりにします。

上記画像は”EK04-FL03red/EK03-FL03blue”わたしなりにウォーホルの暗黒のイメージを視覚化して表現したものです。ウォーホル論は以前に書いたのでそれを参照にしてください。



2009年12月03日

エロティシズムの内部

EK3-FL01brow

生命システム

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エロティシズムの内部

すでに朽果てた生命の欲望は始っている。
終わりから始まり、繰り返すことなく、繰り返す
始まり。この円環の欲望する機械は、あらゆる
ものを振動させ、ひとつの「かたち」を創る。
生命体とはこの無限集合のシステム、すなわち
有機体の「ゼロ」と「一」の分割され得ぬ、
無限個の集合体ともこいえる宇宙を形成している。
その運動をエロティシズムという。



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