2009年03月

2009年03月30日

勅使川原三郎「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観た感想−2

わたしにとって舞踊を観る行為は、わたしも舞踊をします。見えるものが、見えない身体の内部で呼吸し、新たな血液が流れ心臓が鼓動してきます。それまでとは違った何かが流入してきます。舞踊家によってわたしも踊り創めるのです。それは踊っている舞踊家の内在がわたしの中に侵入してきます。外の出来事が内部を形成し。外と内の混成された内在、相互の浸透、この振動がわたしを瓦解させます。

 

此性としての内在A此性としての内在B此性としての内在C

 

 

 

 

 

 


 

此性としての内在E
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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外と内の混成された内在

そんな体験をさせてくれた勅使川原三郎は、わたしになる。その感覚はわたしに絵を描かせてくれる。これはわたしであると同時にわたしではない他者、多分芸術はこの他者とは何者か・・という問いなのであろう。「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観たわたしの感想です。前回はわたしの感じたことを概念的に書きましたけれども、わたしの脳裡に残像としてやきついたものをデッサンしそれに単色の色をつけてみた。触発されたものを見える形にして残しておきたいとおもった。コンセプトとして体内の群集というべきかそのノイズを前にしてそこに立ち、それに共振するかのように首と肩を振動させる仕草が、内在の強度量を感じ興味深い動きでした。最後に集団のなかに静に入って行くシーンが、ひとつの出来事が地層化される、そのような印象を受けました。とくにあの設定は面白く凄くよかった。



2009年03月22日

勅使川原三郎「ダブル・サイレンス-沈黙の分身」を観る

久しぶりにダンスの公演にいってみた。もう何年も観ていない。渋谷の「シアターコクーン」で勅使川原三郎の公演ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を目撃してみたいので、わたしは宇宙の振動音と身体の関係をどのように身体が思考しているのか、その勅使川原三郎の身体を一度観てみたかった。彼が消える瞬間を、微分化された身体の空気を目撃したかったのだ。呼吸音のなかに身体の孤独な光を閉じ込め、ガス化した空気の層を見たかったのだ。だが彼は接近しその接線の身体を共有できなかった。内と外の身体をもったカオスの影を感じてはいるのだが、身体はおしもどされた。からだの運動が遠ざけてしまったのだろうか。見えているのだが移行しなかった。つまりシミュラークルの襞を、反転されたミラーの背後に、更に沈黙の身体を形成してくる化像の潜在性を、体内の絶対ノイズによって消されたのか・・そして最後に取り残された身体の悲しさをわたしは目撃してしまった。震えるからだの涙を見てしまったのだ。差異と反復、永遠回帰、シミュラークル・・そこには幾つもの残酷なアイオーンの洗礼を受けねばならない。沈黙は宿ると消える。

追記:
勅使川原三郎の公演「ダブル・サイレンスー沈黙の分身」を観た
その印象を記憶にとどめておきたいとおもいモノクロで描いて
感想文として下記に掲載しました。
画像掲載「ダブル・サイレンス」感想ー2 
画像掲載「ダブル・サイレンスーカオスの鏡」感想−3



2009年03月17日

Georges Seurat/スーラ「情動と社会機械」−7

スーラについて第6回は「グランド・ジャット島の日曜日」をとりあげました。第2回と第3回は「アニエールの水浴」の構図について論じました。その装置はどのようなものであるのか、Diagramを作成し、遠近法による視線の方向性が、不可視の構造を生成させカオスの平面をタブローのなかに見事に結晶化させた。この新しい概念を論じました。それはデュシャン的な装置の見方で観ることによって、スーラの絵画は「アンフラマンス=inframince」となる。これはデュシャンの造語で何を意味しているのか各自が体験してみる以外ない。もしそのことを説明しようとすると、トートロジーに陥るか、一冊の書物を書き上げなければならない。詩的に表現するか、実際にそれを創ったデュシャンの「便器=泉モノと言表行為とのアンフラマスでもある)」、「大ガラス」、「遺作」などを観て感じる以外ないというとこです。あるいは自分でその装置を創ればよい。しかしこういう体験は誰でもしているとおもうのだが、再-現前化させその装置を創るとなると、別問題です。デュシャンは「大ガラス」の制作に8年もかかっている。メモを入れると十数年はかかっているはずだ。しかも途中放棄している。デュシャンのことで少々脱線してしまいましたね。もとに戻りましょう。

 

シャユ踊りAサーカスB

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

シャユ踊り、1889-90」/「サーカス、1890-1891

スーラは網膜的な絵画から離反し、理念の幾何学的な感覚の形成を観るタブローとなって現前化してくる。つまり構成された点描の背後に、描かれえぬものの、極薄性の見えないものの観えるものが現前化してくることとなる。この見えないものの、見える視点は空気の層である。空気の微粒子がイデアの内部で結晶化し波動化する。それが「アニエールの水浴」であり、特にこの「ポール=アン=ベッサン、橋と波止場」では小さな女の子の体からオーラがでており、事実スーラは彼女の左側に点描でその空気の層を描いている。実際には在りえない出来事である。不可視の構造としてスーラのどのタブローにもたえず微粒子の影が結晶化した純粋時間のカオスがある。それは現すことも見ることも出来ない極薄性のカオスの平面である。とはいえ理念の内在として形成してくる何にものかを感じるのである。それに向かわすベクトルがあるということです。


情動と社会機械
さて今回テーマの「シャユ踊り」と「サーカス」は、一方は音と身体であり、サーカスは運動と身体である。この両者ともリズムが共通なテーマとなっています。それはひとつの波動をつくること。波動とは作用するものと、作用させられるものとの共振関係ということです。情動という動きを作用させるメカニズムを見せる装置をつくったということです。ここでわたしがいう情動とはスピノザのエチカ第3部定義3のことで『情動とは、私たちの身体の活動力を増大し、あるいは減少し、促進し、あるいは阻害する身体の変様の観念である』と、このような意味の情動のことです。最初にスーラは「アニエールの水浴」で5人の独身者と大地、水、空、そして欲望する諸機械を生産する表象としの工場の煙を描き、まだ社会機械の方へ視点はいっていない。空間と内在に重点を置いている。渡りボートがグランド・ジャット島に向かっているのでそれを暗示はしている。次にそのジャット島という地層のなかで人々の様相を配置する構想にスーラは着手する。「アニエールの水浴」が外と内の内在の構造に感心がいっているのに対しして、「グランド・ジャット島の日曜日」は、社会の反映としての内在に感心が向いている。この時点ではまだ人間の様相が社会機械の表現としての形を、その特異点を形象化しているに過ぎない。当時のファッションを外面的に描いた社会的な係数としての形象である。社会のベクトルは見えるけれど、心の動きはまだ描いてはいない。しかし近代資本主義の波がおしよせて来る、その反映としての心の状態に、その変様のメカニズムをすでにグランド・ジャット島でスーラは観ていたのである。欲望する諸機械の社会的な生産過程を敏感に感じていたというわけである。「アニエールの水浴」では工場の煙突の煙で表象していたのが見てとれる。

さて今回の「シャユ踊り」と「サーカス」ですが、これは明らかに外との反応であるより、内部の情動のメカニズムの方にスーラは感心がいっている。前述したようにこの情動のことをスピノザが的確に述べていることを踏まえて、更に精神のことは次のように述べている。『精神とは身体の観念のことである』と、そこでスーラは身体の様態のシステムに興味がいっている。このときでもスーラは外の時空を観察はしている。海の風景画を同じ時期に描いてもいる。たえず外と内の関係性を、その内在を観ている視点がスーラには必ずある。それはイデアの世界(多様体として)の具現化の確認作業でもある。そこで「シャユ踊り」や「サーカス」では何を表現したかったのだろうか。あるひとはシャユ踊りはあまりに図式的であるというし、サーカスでは何を表現したいのだろうかと、おもえるほど形式的な表現方法をとっている。ある意味では、わたしにとってはDiagramである。その機能を作用させるために意図して図式的な描き方をしている。では一体その機能とは・・そこからスーラの理念が観えてきます。「サーカス」も「シャユ踊」も顔の表情がほとんど記号的であり、何かを表現していることには違いないが個性を表現しているわけではない。顔貌性のそのシニフィアンなのである。事実スーラは顔の形態と情動の関係を記号的に追究していた。

社会とは欲望する諸機械の生産の総体であるということです。社会とはひとつの機械であり、その機械の表現が顔に刻印された、シニフィアンとして形相された表象なのである。名なしの顔、個性というより印(しるし)であり、無数に連接する機械の音、振動などの集合体である一つの係数なのである。それが顔として表現されるときポスターとなる。スーラがポスター画家ジュール・シェレに興味をもった理由はその意味で、一般大衆の欲望する諸機械を記号として表現するそのイラスト的なDiargamとして観る装置のことなのである。初期のスーラは「アニエールの水浴」や「グランド・ジャット島の日曜日」のように身体の配置にとどめ、個体としての内部運動は隠されたまま外部のひとつの表象として表現しているだけであった。静的な配置に徹している。ところが「シャユ踊り」や「サーカス」では内部の運動が外部へ形態として表出するその表情を表現するようになる。顔貌性の追究に、様々な形態による情動の表現をスケッチするようになる。そのメカニズムに興味がいくようになる。これは一体何を意味するのか、スーラは最後にこの課題を残して「サーカス、1890-91」の作品が遺作となり、未完成のまま1891年死去する、享年31歳。

シャユ踊り」と「サーカス」のことに関してそのメカニズムと情動、そして社会機械のいたるところにある欲望する諸機械について論じる予定でしたが、そこまでいきませんでした。それから構図が非常に面白く、その理論的な構成を分析し「アニエールの水浴」で画いたようにベクトル的な見方をするといっそう明確になってきます。「シャユ踊り」は各パーツを分解し再構成する方法はキュビスムの概念です。切断された各パーツを理念によって構成させるイメージの運動が、新たなタブローを生成させる、これは描かれえぬ、n次元のタブローを脳内で形成させる、ひとつの純粋時間の生成でもある。このようにスーラは「シャユ踊りで実験的な装置を創っていたのである。ただ当時の人々はそれを理解していなかった。図式的な表情描写が機械的であり、生気のないものとして感じていたのである。表象の背後にある、欲望する諸機械をスーラはDiagram的に表現していたのである。対象を類似として正確に表現することではなく、記号的な情動表現によってイメージを喚起させるメカニズムを追究していた。この思考は何と現代美術そのものではないのか。

 

補遺:
ジョルジュ・スーラの絵画論
は第1〜第7回まで連載となりました。わたしはスーラの点描の技法につては殆ど論じていません。それを論じると視覚のメカニズムの問題になるからです。あえていえば、脱個性的な普遍性がその空間表現とピタリとあって、スーラの個性と感性をいっそう豊にし、静寂な空間表現に成功しています。機械的なドットの描写表現が印象派の筆触分割技法とはちがって感情を抑えた理念として表現している。したがってスーラを観る視点は点描の背後にある、見えないものを観る理念として思考のうちに形成してくるある実体を感じるというアートなのです。そのことを強く意識していたのがデュシャンなのです。『いく本かの絵の具のチューブが一点のスーラになる可能性はアンフラマンスとしての可能なものの具体的説明となる』とデュシャンは語っている。スーラの絵画は今もシャニックがいうように本当に理解されているとはおもえない。あの点描の美しさの評価で人は満足している。もっと研究されていい画家だ。ゴッホセザンヌと同様、偉大な画家だとわたしは感じている。機会があれば、次回はそのことを現代美術の視点で論じようとおもいます。



2009年03月09日

Georges Seurat/スーラ「グランド・ジャット島の日曜日」−6

第1回から第5回までの掲載は、スーラの宇宙的で壮大なスケールのなかに於ける、カオスの断面と人間の内部ベクトル(方向性、速度、力)のことについて論じました。スーラの最初の大作「アニエールの水浴」をとりあげ第3回ではそのDiagramを画き、幾何学構成が不可視の構造を生成させ、カオスの線を触発させる装置の平面を論じました。さて今回は人間の心を中心に述べてゆきます。

 

グランド・ジャッド島

 

 

 

 

 

 

 


 


グランド・ジャット島の日曜日、1884-1886

その予告としてすでに「アニエールの水浴」のなかでジャット島に行こうとしている渡りボート(番号:8a)を描いていますね。そこに乗っているのが男女のペアで、グランド・ジャット島の男女を暗示しているようにおもえるのが興味深い。そのペアが「グランド・ジャット島の日曜日」では右画面の一番大きく描かれた男女のペアを想起させる。女性は猿を紐でつなぎ連れている。これは娼婦を暗示すると云われている。それを一番大きく描いている。画面中央には「ポール=アン=ベッサン、橋と波止場」と同様、小さな女の子を配置している。これは純粋時間の裸形の卵である。大地の地層と原初的生命の人間像を表象した無垢な魂である。宇宙の生命体の尊厳を感じる。これはポール=アン=ベッサンの「小さな女の子」は能動的な動きを暗示しているけれども、グランド・ジャット島の小さな女の子はそれを脱皮して少女への移行の違いだろうか、静に何かを見ている。

それは文明の諸機械を、身に着けていない無防備な魂・・すなわちスーラの意志なのであろうか。その女の子と手をつないでいる隣の女性はセーヌ川を見ている。小さな女の子を除いて、すべての人物はこの絵を見る鑑賞者に凝視してはいない。この小さな女の子だけが、こちら側を見ている。わたしは彼女と対話せざるをない状況に追い込まれる。いったい何を話したらよいのだろうか。わたしにとって「グランド・ジャト島」はたんに静寂な空気と美しい点描で描かれた絵ではないのです。それは次のステプに進みます。人間の心のメカニズム、情動のシステムへと探求は進んでいくのです。それは社会機械における欲望する諸機械の生産へと向かってゆきます。つまりスーラはそれを「シャユ踊り、1889-90」と「サーカス、1890-91」で表現してゆくことになります。次回はその「情動と欲望する諸機械」について論じたいとおもいます。当然それは「シャユ踊り」と「サーカス」のことについて語ることになります。



2009年03月08日

Georges Seurat/スーラ「内在と空間、ポール=アン=ベッサン」−5

スーラの絵画は非常に観念的な絵画ですので、思考することを要求されます。思考しないと、静寂で美しい、その点描の描き方にうっとりして終ってしまいます。鑑賞するぶんにはそれでいいのですが、スーラを体験するにはある種のイデアが必要です。また現代美術とストレートに結びつくとこが多々あります。その魅力です。重複する箇所もありますが、それでは前回よりの続きです:

・・スーラは空間のなかに於ける振る舞いを(有機的なもの、無機的なものを含め)たえず追究していたように感じます。そのタブローから観えざる不思議な力を感じることである。前回掲載した「ポール=アン=ベッサンの橋と波止場、1888」が特にそうである。この絵のテーマは描かれたものであるより、描かれ得ないカオスの断面が表象の背後にあるのです。多くの人はスーラの点描の表現の美しさに驚き、またその静寂な空間と人の神秘的な描写に感嘆する。そこで終ってしまう。同じ後期印象派のゴッホやセザンヌ、ゴーギャンには熱い眼差しとその批評が多くの評論家によって研究がなされ、事実読みきれない程上梓されている。それに比べてスーラは点描と科学的分析という言説に囚われそれ以外の見方をしょうともしない。ただデュシャンだけはスーラを特別な存在と見なしていた網膜的な絵画ではないと言っている。印象派とはまさに網膜的な絵画そのものではないのか、それとは反対のことをデュシャンは語っていたのである

そのことを前回も述べましたが、第3回の掲載で「アニエールの水浴」の構造を分析したとおりです。ベクトル成分という運動の世界が不可視の構造として再-現前化してくるその凄さを論じました。このスーラ論はシリーズとして継続して掲載しています。第1回から連関していますので、分からない場合は最初から読むことを奨めます。特にベクトルという用語の使い方の意味を第3回に説明していますのでそこをお読み下さい。さて本題に戻りましょう。スーラとデュシャンのことでしたね、デュシャンは運動そのものをエロティシズムと捉えているところがある。スーラの世界は静的であるけれども、不可視の構造では微粒子が動いています。一瞬であると同時に永遠の世界がスーラにはある。しかしフェルメールのように絶対零度の時間性、その永遠性でもない。間違いなく時間は流れている。その予感がどこかにあります。静的であるけれども、どこかで微かに足音が聞こえてくる予兆があるのです。崩れ行く束の間の永遠、微分的な切片の線を見せる非常に切ない美しさがあります。そのとき神の姿を一瞬見るような永遠の力が空間のなかからでてきます。

「ポール=アン=ベッサンの橋と波止場」を見てください。海藻を背負って、たよりなく歩く「老女」、神の子のように迷って突然出てきた「小さな女の子」、そして社会機械の反映でもある「関税吏」、この3者の三角形の配置は偶然にできたものではありません。「アニエールの水浴」と同様、周りの風景とぴったりと融合しているのです。桟橋の幾何学的な構成と連接しています。そして家々と丘、雲、そのすべてが有機的に構成されています。この連接の作用は不可視の構造でタブローを見る限り、静寂な空間と微かな流れとして体感するような殆ど永遠に近いものです。そのようにスーラは表象作用を触発する構図を計算してここでも幾何学的にしています。雲の形も現実とはちがった形態で描いています。デュシャン的にいうと観念アートなのです。近代芸術以前はすべて観念アートともいえるのです。宗教画とはまさに観念アートのことなのです。ところが近代に入ってから現実的なものへと移行し、網膜的な絵画になっていったのです。スーラは違います。詩的であり、人間の心を描こうとしていたのです。それは印象派のモネ的でもなければ、ゴッホ的でもない。あるいはゴーガンのように文明の逃走線を描こうとしていたわけでもありません。またセザンヌのように存在と格闘していたアートでもありません。

ではどのようなアートであったのか、次回の第6回の掲載でそのことを論じます。それは「シャユ踊り」と「サーカス」のことを書くことになります。情動と社会機械のことについて論じます。



2009年03月05日

Georges Seurat/スーラ「内在と空間」−4

Seurat/EC05-02A
ポール=アン=ベッサン、1888


Seurat-EC05-02A

 


 

 

 

 

 

 


 


Seurat-EC05-02CSeurat-EC05-02B

 

 


 

 

 

 


 

ポール=アン=ベッサン部分:EC05-02C
ポール=アン=ベッサン部分:EC05-02B

桟橋周りの幾何学的な空間、背景には家々と小高い丘、そして前景の広い空間には制服を着た税関吏、小さな女の子、海藻を背負っておぼつかない足取りの老女、この三者は三角形を形成した配置となっている。「アニエールの水浴」と同様、まるで無関係な孤独な描写なのである。上空には5つの半円の雲が平行に走っている。自然の状態では決して在り得ないような人工的に描かれかた雲。すべてが静寂で充たされている、媒質のなせるわざか。中心のどこにもない円周、定点のない無窮の空間、この壮大な宇宙の断面を観るにつけ、この神秘的な空間に投げ込まれた無のわたしを想起する。内在の揺動面、見えない波動のゆらぎに侵食されて静に深く刻まれる時、微分化された空気の永遠、しかし雲は流れている。救い、そこに一人の「小さな女の子」が立ってこちらを凝視している。少しばかり肩をいからして。わたしはそこに大地に根ざした裸形の卵を観る。



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