2009年01月
2009年01月26日
ジョルジュ・スーラを「現代アートの視点から観る」−1
今年は少しずつ現代美術の視点で古典、近代絵画を観ていこうとおもいます。絵画の通史としてではなく、確立された絵画論や一般的に評価された見方とは別次元でみていこうとおもいます。空間と内在という問いに焦点をあわせて、現代の視点で観たその構造を述べてゆきます。それは現代でもその概念の発展途上にあるとおもえる絵画を抽出し、そのなかに何か新しい発見を、その概念をみいだすために書いて(描いて)ゆきます。従って確立された既存の概念をなぞる絵画史とはなりません。わたしの感じたこと、作品をつくる思考の延長として観てゆきます。そしてわたしの作品の概念とリンクして思考してゆきます。その第1回として、ジョルジュ・スーラをとりあげます。スーラは現代美術との接点がものすごくある画家です。わたしにとっては、デュシャンと同じくらい画期的な概念をもっています。それは「装置としての風景」を最初に表現した画家なのです。今回はそこから入ってゆきます。尚、「アニエールの水浴」の構図論の詳細は第3回目に掲載しました。厳密な幾何学的構成のすごさが明になってきます。
Seurat_EA22_1/EA22_2
「花瓶の花、1878-1879」/
「座っている少年、1883-1884」
1・空間と内在
結晶化した時間の現働化
Seurat_EA22_3
「アニエールの水浴、1883-1884」
2・装置としての風景
人物を空間に配置し、
再領土化する。それは、
自然からの対象を解放し、
カオスの断面を捉えること。
Seurat_EA22_4
「グランド・ジャッド島の日曜日の
午後、1884-1886」
3・装置としての風景
社会、文化を風景のなかに
再領土化し、その断面を配置する。
Seurat_EA22_5/EA_22_6
「エッフェル塔、1889」/
「シャユ踊り、1889-1890」
4・近代テクノロジーと社会機械及び
その欲望する諸機械あるいは
情動のダイアグラム
Cezanne_EA22_7
「大水浴、1906」
5・分子的無意識の
欲望する諸機械など。
カオスの断面を
ミクロ物理学的なものへ
向かわす内在性
1・内在と空間
花瓶と花:この絵は不思議な絵である。花瓶と花は正面から見た視点で、テーブルは45度上から見た視点のようにもおもえる。そして背景は荒いタッチで筆触の跡があり、しかも立体的な空間性(リアルな空間)として描いてはいない。エモーショナルな2次元的空間をつくり抽象表現主義的な感じさえする。花瓶と花は自画像のように描いている。そして花瓶から出ている二枚の葉がテーブルの上に射している二つの光と同系列の配色で描いている。それはまるで光の粒子を取り込んでいる手のような二枚の葉として、すなわち無限大のカオスを、その切片を取り込む内在として描いてる。この構造は(世界は)スーラの本質を成している。後に描く絵はすべてこの哲学に貫かれている。内在と空間性の問題をすでに表現していたのである。若干二十歳の時に描いた絵である。驚くべき才能である。しかも詩情溢れるスーラの内在性があり、内と外の見事な接線を、その平面を観せる魅力のある絵である。
構成要素は4つの平面から成立っている。ひとつは幾何学的なテーブル、二つ目は花瓶と花、3つ目はテーブルの上に射した二つの光、4つ目はエモーショナルな垂直に描かれた筆触の跡がある背景である。この4つの構成要素で調和のとれた絵となっている。 幾何学的なテーブルが3つの要素(背景、光、花瓶と花)を静かに確り受け止めている大地の要素となっている。もっと先え進むと、4つの構成要素の平面を分解し、格視点をずらし再構成するとキュビスムとなる。このスーラの絵は、花瓶と花の視点とテーブルの視点が明らかに違う。ずれているのだ。これは意図して描いたのだろうか。素晴らしい構成要素だ。
座っている少年:この絵は「アニエールの水浴」の習作で、コンテで描いた作品である。わたしはスーラがコンテで描いたデッサンがものすごく好きで、かなり影響を受けている。わたしはブラックインクでスーラ的技法でエッチングのように描いてる。エッチングといえばレンブラントの線の描き方、その技法は完璧である。線の方向性、ベクトルがまったく無駄がなくパーフェクトである。両者とも光の画家であるとわたしはおもっている。ただし印象派のあのモネのような光の捉え方のことではありません。モネは空虚なものに対して、哲学的な問いを感じない風景画家のように感じ、わたしにとってはあまり興味を惹かない。スーラの話に戻りましょう。この「座っている少年」もそうですけど、スーラの描く人物は側面の構図が多いですね。頭、首、そして背中の曲線へと向かい、臀部が支点なって足元へと流れてゆく。背中が光を受け止める窓となっています。ちょうどそれは外と内在の接線の役割をはたしています。カオスを受けとめる孤独なモナドのようでもあり、それは『内在・・すなわち一つの生』という問いを感じます。この内在とは内部意識のとこではない。あえて言えば、関係する外と内の流動的な此性の・・強度的なことを意味します。
2・装置としての風景:この「アニエールの水浴」は、わたしにとっては実験的な風景画なのです。モネを代表する印象派のような風景画ではありません。自然を写しとる対象としては描いていない。それは現実の風景画ではなく、ひとつの構築された装置としての風景画なのです。自然という対象を離れタブローそのものに向かう絵画としての自立性がそこにはある。たんなる筆触分割技法で描かれた印象派の画家とは違います。それは画期的な絵画に対する新たな概念がそこにはあります。この絵は神秘的で不思議な空間構成となっています。デュシャンに通じる宇宙エネルギーをもっている。それはシュールレアリスム的にさえ感じる。その構造の概要だけ今回論じます。
何しろこの絵は遥か彼方の天体の運動を、あたかも静止しているような構図で描いている。しかしである、人物は静止しているかのようでありながら、熱平衡状態に向かって膨張する宇宙の銀河を想起する。静止した内部では運動(座っている少年<原子核>を中心に4人の<4個の電子>男たちが円軌道を描いて動いている、ミクロであると同時にマクロでもある。)が起こっている。スーラの描写では、そこにはどこにも運動している要素を描いてはいない。しかし不可視の構造として、脳内では円運動をしているのである。この静止と運動の矛盾が、わたしの脳内では在り得ないことがおきている。シニフィアンの背後に理解不能のシニフィェの超現実的で、めくるめく神秘がわたしの感覚へと作用しているのである。この宇宙の神秘を垣間見せてくれる。まさにこれこそ「装置としての風景画」なのである。これはまぎれもなく現代美術の視点である。わたしはスーラの絵のなかで最も好き絵なである。セザンヌの「大水浴、1906」がひとつの神話であるなら、わたしにとって間違いなく、この「アニエールの水浴」もそれに匹敵する神話であり、大作である。
3・装置としての風景:社会、文化を風景のなかに再領土化しその断面を配置する装置としの絵画である。それは自然という対象を絵画空間として再現することではない。この「グランド・ジャッド島の日曜日の午後」は「アニエールの水浴」の概念を応用し、絵画空間として完成されたものとしてスーラは提示したものとも言える。従って絵画の魅力としてはある。グランド・ジャッド島の絵は「アニエールの水浴」にはあまりなかった(アニエールの水浴は遠景の工場として表現しているが)近代文明、文化を、その社会性を服装や市民生活の様態をとり入れて表現している。次に社会機械へと移行するスーラの思考が見える。このグランド・ジャッド島の表現では、スーラは風景より人物の方向性にウエイトをおいている。社会機械のなかにその情動を置いて観ている思考がうかがえる。後にこの情動を欲望する諸機械として「シャユ踊り」として表現してゆくことになる。この欲望のエネルギーを静にいかにもスーラらしく、この画面右側にいきなり愛人(娼婦かも知れない)らしき婦人と紳士を大きく描いている。これは欲望する諸機械を暗示させ、この絵の全体の中心(重心)には白い服を着た小さな子供を描き、その右側に母親を配置している。視点は愛人と紳士から母と子供の立像に移り、この対比も計算して描いてる。しかも「アニエールの水浴」と同様、子供の服をポイントとして白い色で配色している。それは全体を統一しすべてを観ている子供であり、スーラの眼差しと反射している。また鑑賞者を見据てもいる。
4・近代テクノロジーと社会機械及びその欲望する諸機械あるいは情動のダイアグラム。この「エッフェル塔」は近代資本主義の最初の欲望する生産である。社会機械のなかにある欲望の象徴的表象である。後にこれをニューヨークに置き換え、あの摩天楼群を幾何学的に抽象的な表現で描いた、「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」のモンドリアンへと接続されてゆくこととなる。点描をどんどん進めてゆくと、一つのブロックとして秩序構成され、分子状から有機的なシステムが形成される。モンドリアンの絵がその究極までいきついた表現手段である。色彩は両者とも赤、黄色、ブルーが主に配色されている。「エッフェル塔」を平面図的に表現し、それを分解し抽象化の作業をとおして幾何学的に再領土化すると、必然的にモンドリアンの概念へと向かう。
「シャユ踊り」はポスターとして観ることもできますが、スーラの思考はそれも含まれますが、もっと先へいっている。社会機械のなかに潜在的にある欲望する諸機械をダイアグラム的に表現していると観る。既存の概念で観ると、えらく幼稚に見えるか、猥雑さのあるたんなる絵としか観ない。決してそうではない、これは生産する欲望を機械的に観ている画期的な概念が含まれている。この概念は最後にはウォーホルまでいきます。この絵の構造は各断面を合成した平面となっている。踊り手、指揮者、ベーシスト、観客など。それぞれの視点で観ている。これらの画面構成はキュビスム的な平面があり、その先駆者として高く評価されてもいる。スーラはこれに限らず他にも先駆的な作品を創っている。
5・分子的無意識の欲望する諸機械など。カオスの断面をミクロ物理学的なものへ向かわす内在性。すなわち近代文明の思考概念を脱領土化する逃走線と、その地層を、ニコラ・プッサン的な寓意を再領土化するというテーマがセザンヌの課題とみる。しかしそこには社会機械の諸問題があり、それをどのように身体性の変調なしに、世界へ接近できるのか。むしろそれを射程において、プッサンへの回帰をしょうとしたのか・・・、ゴーガンやゴッホの深い傷跡をみるにつけ、その方法論を・・、今回はスーラがテーマなのでこのセザンヌ論は述べません。いずれ書きます。
補遺:
まえからスーラに関してまとめて書こうとおもっていたので、やっと論じることができた。これでもまだスーラの一面だけで、内在というテーマに沿った部分だけを抽出して書いただけです。なぜわたしがスーラにこれ程までにこだわるのか、それはセザンヌやゴーギャン、ゴッホなどの画家と比べて、多少影が薄い存在のように扱われているのは間違いで、それと匹敵する程偉大な画家であると思うからです。そしてわたしに多大な影響を今でも与え続けている。