2008年11月
2008年11月30日
デッサンシリーズ「イカロスの墜落」ー7
DL30-30A
DL30-30A
「イカロスの墜落」
イカロスの死とは
神に接近し過ぎると、
なぜ二度ともどってこれないのか、
ニジンスキーは「牧神の午後」を踊った。
その後、彼は何処へいってしまったのか。
同一性の喪失とは、アイオーンの
永遠回帰、こんな誘惑をなぜするのか。
ディアーナの水浴を、その輝く裸体を
偶然目撃しただけで、なぜアクタイオーンは
鹿に変身させられ、自らひき連れてきた猟犬に
食い殺されねばならないのか。
このデッサンシリーズでは既知の神話を描き、それを現代の中にどう対応してゆけばいいのか見るために描いています。またイカロスを分子的なカオスへと想起させる線、その空間性をみるための、わたしのデッサンメモです。それにしても失う(死と主体性の喪失が)ということがなぜエロティックなベクトルをもつのか。
・・欲望するとは、消費社会の装置のなかで消耗させる機械なのか。それはウォーホル的な欠如を生産する欲望の機械、反転された主体性の喪失、同一性の反復行為のなかで反神話をつくりだすことなのか。・・シミュラークルの、そしてシミュラークルの機械をつくりだすこと。強度を機械化し麻痺させ主体性の喪失と同時にシミュラークルの同一性をくつること。フラクタルな精神構造を量産するアートであること。こんなふうに思わすウォーホルのアートは、定点もなければ、数直線上にもない。それから外れた、複素数のアートなのか。
K30-30:「イカロスの墜落」の画像は『”イカロスの哀悼”、ハーバート・ドラッパー、1863〜1920』の絵を参考にスケッチしたものである。ドラッパーの絵ではイカロスの翼が異常にでかく絵画空間としての魅力を追究している。わたしはラフスケッチで翼を小さく描き、天と地上の中間にいる状態になるよう描いている。このスケッチは描くことが目的ではなく、その思考を読み取ることが重要なのです。そのため女性は省略して描いてはいない。ドラッパーの絵は周りに3人の女性を描いて、一人の女性は墜落したイカロスの遺体を背後からいたわるように支えた構図になっている。それはピエタ的であるより、ずっと現実的な女性に感じます。他2人はそれを見守るような情景で描いている。
2008年11月27日
人体の夜「portraitX(顔貌性機械の平面)−4
DK26-40RED/DK26-40BLACK/DK26-40BLUE
PortraitX
「人体の夜」
夜はなく昼もない、光はたえずある。
それが人工的なもであるのか
自然的なものであるのか、
そこには区別はない。
ただ光があるということだけで人は群がる。
夜行性の光のなかで飛びかう群れ、
それが何の光であるかは知るよしもない。
人体の夜、それは夜という意味ではない。
白昼の太陽の光は影をつくる。この影は夜
となり、昼の夜という作用をとおしてカオスの
顔を見せる。
・・ただし不在の影、--言語はそのためにある。
誰かを演じさせるために、--自らを現す顔貌性の機械・・
本質を覆い隠すために主体性の機械が作動し始める
相互に、すでに浸透しあっている。
2008年11月07日
デッサンシリーズ「イカロスの上昇と落下」−6
DK06-10A
DD06-10B
DK06-10A
上昇するイカロス
太陽の光の向こう側へと
逝かねばならない。燃え
尽きた後に、暗黒の死の
光が待ち受けている。
そこを徹りぬけると、
わたしは死ぬ。
DK06-10B
落下するイカロス
わたしは死に、黄泉の国に
どんとん落下してゆく。
もどるてだてはない。不在の
影で死に、言葉だけが生きる。
そのときわたしは2ど死ぬ。
「イカロスのイメージ」
イカロスのデッサンは初めに落下するイメージがでてきた。上昇のイメージではなかった。この落下はカオスの海への落下を、死としてメタモルフォーゼさせる身体の旅立ちのように感じた。翼を崩壊させ、メルトダウンさせる変容の熱を誰が与えているのかという問いを感じたのです。むしろ融けて落下することをはじめっからイカロスは望んでいたのではないか。そのイメージがわたしの無意識のなかにあったのだろう。それは当然上昇の結果なのである。上昇も下降も同じ位相の無限大の深淵であり、バロック的な上昇と下降なのである。落下する暗黒の重い重力は無重力の思考のトポロジーというわけである。
わたしにとってイカロスは、危険を省みず無謀な冒険をしてはいけない、というたんなる教訓では決してない。脱領土化へのアンチ・オイディプスなのであり、詩作行為するものの登竜門だ。カオスの微粒子を感じる詩がそこになければ、たんなるメジャーな作品にすぎない。パウル・クレーの偉大さはカオスの風がいかなるときでもそこにある。領土化された父の警告を無視した深い病はあるのだが、あの暗黒というやつだ。痛みをともなわないアートはないというわけである。前回は別々に掲載しましたが、上昇と下降するイカロスの両方を観てこそ、ある本質が観えてくる。それは:
クレーの「さえずる機械」を観るとカオスとは何か、アートとはどのような行為なのか分かってきます。
またマティスは芸術について次のように語っています。
『芸術という名に値する芸術はすべて宗教的です。線や色彩でつくられた創作物があるとしても、もしこの創作物が宗教的でないなら、それは存在していないということです。もしこの創作が宗教的でないとすれば、そこに問題となっているのは記録の芸術、逸話的芸術にすぎない・・・もはやそれは芸術ではないのです・・』
ということでマティスの言葉で、この「上昇するイカロス」と「落下するイカロス」のデッサンを終ります。この言葉は以前書いたマティス論に詳しく書いています。
2008年11月06日
デッサンシリーズ「上昇するイカロス」−5
DK06-10A
DK06-10A
上昇するイカロス
ヘルダーリンのように
あまりに神に接近するでない
身体は燃えている。
わたしは前回イカロスをカオスの暗黒へと突き落とした。それは死へメタモルフォーゼさせるためにブラックホールをつくった。消えることではなく、復活させる死を天体の暗黒なかに閉じ込めた。ゼロ次元の時間をもたない点として時空のない虚空間の胎児へ、再び受胎告知を受けるあの壮大なビックバンを、宇宙の始まりへと落下してゆくイカロスをイメージした。しかしそのまえに思考の燃え尽きる、あの天上にひたすら接近したいという至高性があるのだ。殉教の身体によって「無」ないし、消滅を願う死への接近があるのだ。ひたすら美しいこと、純粋な至高性へと。しかしながら、それはブラックホールであり、カオスの罠を自らの意志によって望む神秘、黄泉の国へいくオルフェではないのか。