2008年10月
2008年10月31日
内在と外の線「あるいは強度量について」−1
DJ30-03b2/DJ30-03b3/DJ30-03b4
Untitled: 「空間の強度量X」
「・・感覚の振動とは強度量のことである」
強度の尺度は内包的なものであり、外延量とは
異質であり、差異化されたエネルギーを発生させる。
しかしながら、差異化のポテンシャルを持続してゆく
困難を生じる。おそらく抽象表現主義の行き着く先は
密度の最大値から落下しはじめ装飾へと移行する。
やがてはクラフトとなる途をたどるだろう。
繰り返せば、繰り返すほど強度は薄れ
表層の表層を漂い無意味な記号となり、虚無さえ
そこから離反する。晩年のデ・クーニング
は緊張感の弛緩がみられる。それでも尚
彼の絵は身体に忠実であった。
決してクラフトにはなっていない。
それは脳内のシナプスの繋がりが薄れ、
その密度が減少してゆくのに似ている、ダイアグラムの
途中放棄の緩慢さを観る空間・・であるようなもの。
強度量の縮減の線と身体性の関数を観る。
そこには失われた残像の線を美が補足している
様態を観るアートとなる。視覚的快楽はあるけれど、
崩壊してゆく何ものかを感じる空虚さだけが残る「美・・」
それはカオスに呑みこまれ、
無限大の宇宙に帰る最後の痕跡を遺す。
いわゆる銀河の拡散を見せる最後の
ジャクソン・ポロックの痕跡、「・・の線を観る美」となる。
もはや人の転んだ姿が見えず、
現れたり、消えたりする時間の現象がない。
これは生命の危機を意味する線となる。
身体の異変が強度を補う双曲線へと、
外の線へと移行する線、死への危機に結びつく、
内在性の希薄さが消滅の線を表現する。
強度が外の線と均衡を保つには、一つの襞を
つくらねばならない、その襞が更に折り畳み
多数の襞の線を形成してゆくアンリ・ミショーの
襞をつくることになる。それは倒れたサーカスの技を見せる
ミショーの線はそういう平面なのである。無数の傷跡があり、
密度減少の関数から逃走することの線となる。それは転んだ
人間と頼りないメードザンと有機的な線をつくる。
すなわち外の線を暗黒化し、それを取り入れ、
2重の他者をつくりだすこと。
「わたしと私でない者、私でない者とわたし、
その運動とまたその運動・・のように」
無限に繋がるシナプスの線を生成させる
ミショーの線は、襞の中の襞を畳みこんだ
平面となる。
「生成のまたその生成のように・・」
精神を生成さる運動性の身体など。
2008年10月21日
社会地層は暗闇のなかで・・こうして化石化されてゆく・・
DJ21-01red/DJ21-01none/DJ21-01blue
社会地層は暗闇のなかで
・・こうして化石化されてゆく。
わたしはすでに化石化されている。
同じ信号の中で同じことをしゃべり、
同じ行為をしている。
反復と差異というより、
差異が見つからない反復。
限りなく死んでいる生
それは化石の時間をつくる
文明とは化石化の時間を稼ぐ
消耗品か、 であるなら・・
脱コード化された未知数Xを
消尽すること。
その微分の身体化か・・
バタイユの夢
ラスコー洞窟の絵を現存在として
反資本主義のアートをつくること
供犠の行為、運動と身体、
「アートとアクティヴィズム」の原始的な
祝祭の復活。
・・こうして化石化されてゆく
わたしの部屋は化石化されてゆく
外へでると巨大な化石が
生きたかたちで動いている。
数千年の歴史は
一瞬にして化石化する。
アートはすでに化石化された地層を
白い壁に貼りつけその堆積を見る
標本に過ぎない。コンクリートのなかの
ショービジネス。出来事はその外で
起きている。どのようなものでも
それを表現したとき、すでに遅れている。