2008年07月

2008年07月13日

反アレゴリーの円「重層する表象の彼方へ・・」−2

DG13-06black4a

ネコの表象A

 

 

DG13-06black4a
Laughing cat

 

 

 

 

 


 

Laughing cat

「いったい誰なのか」

重層する顔貌性はネコではない。
ましてや赤子にネコのぬいぐるみを
被せたものでもない。
確かに口元は赤子ではある。
しかしよく観ると大人の女性にも見える。

ネコは空虚な笑いをする
分子状の身体性のない
笑いガスを吸っている。

あの銀河の元素をもった
渦巻き星雲に通じている

無限大の速度で運動する
物質を微分した笑いである。

もともとそこに存在していない
無限の集合を見せた
仮の姿Xのネコ的な赤子、
ネコ的な女性、生成変化の
奇形児Yから産出した
ある人X」なのである。

ウィトキンの写真に出てくる
奇形児の表象Xである。
そのぬいぐるみを着た
強度Wである。

それは言語Zが
シミュラークルをつくる

平行線の縞シャツは、
何かを隠す手品師の
ハンカチであると
想って下さい。

あなたがそれをとり上げたとき、
ブラックホールに入り
不思議の国のアリス」となる。
ただしそれは危険な冒険となり、
言語の逆襲に遇わないように。

この実体というものから電離された
言語は絶えず空虚な微粒子
発生させ、出来事をつくる。

そのとき実体は消えるのではなく、
負の電荷をもち時間軸から
一時的に消去された---のような
振る舞いをしている。
この振る舞いが出来事に置換される。
いわゆるシミュラークルの発生となる。

 

上記の言葉は、わたしのデッサンノートをコピーしたものです。何とかして「永遠回帰」というテーマを視覚的にできないものかと、あらゆる「表現の形」を変えて試みている。わたしは表現するスタイルをもたない。思考がわたしのスタイルです。



tneyou4595 at 22:11コメント(0)文学・詩 この記事をクリップ!

2008年07月12日

反アレゴリーの円「この平面を思考する表層の世界」−1

DG12-01/「不自然な書斎」

反アレゴリーの円

できるだけ不自然になりたい
自然が美しいという不自然を
感じるわたし、人工の二枚舌

死に至る病は死ぬことが出来ない
あの病である。こんな事をいうのも
芸術的であれば、あるほどそこから
遠のきたい

人工的であればウォーホルの機械に
なれる、人工死、シミュラークルの世界に
強度を求める。

するとボードレールの幽霊がでてくる
アレゴリー、時間の切断、パサージュ論の
ベンヤミン、グノーシス的狂気、現世の呼吸
困難病が身体を蝕むアルトー・・

何かをしたいとおもう瞬間呼吸が苦しい。
酸素なんぞいつも無視して生きているのに
たちどころに器官がそれを知らせる。

神経の秤というやつだ。時間軸をデリートした
複素数の概念でいきたい。アリスとアルトーの
さらにその表面で生きてゆきたい。

それは鏡の鏡、さらにそのまた鏡で
自分がどこにいるのか不在の方がいい。
人工的に、さらに人工的な純粋の表象装置を
つくりたい。死体置き場にいながら、
ステンレスの寝台を用意するその対比を
観るのではなく、それを反射させること。

両者の影をつくり虚数の値を導きだしたい。
二つのものを一つの平面(プラン)で観ること
それは電流と電圧が一つの円で構成できるように。

この平面を思考する表層の世界を感じる記号を
見つけること。人工的な平面が不可視の内包を、
そのリアルな世界のパサージュであるもの。
反アレゴリーの円をみいだしたいのだが・・

 

わたしは絵画的な世界から脱したい。けれども詩を書くことが出来ない。詩は言葉の錬金術のような技法が必要だ。ボードレールからはじまり、ランボー、マラルメへと進み言葉の秘法を授かりたい。デュシャンはいつも言葉の喚起力を誰よりも鋭く感じていた人だ。ランボー、マラルメ、ジュール・ラフォルグ、レーモン・ルーセルなど愛読していた。ピカビアも詩を書いている。わたしは詩人が好きだ。言葉と身体の関係を、その狂気を身に滲みて感じているがゆえに、逝ってしまう。

古典ではヘルダーリンがいる。舞踏ではニジンスキーがいる。絵画ではイヴ・クラインがいる。わたしは世界に接近するのではなく、そこから離れたい。どうすれば離反できるのか分からない。今流行のアニメをパクリ、シミュラークルの世界をつくるものでもない、かといってフランシス・ベーコンやキーファーは、わたしには重すぎる。ウォーホルはもっと重くて、資本主義のシステムまで見せてしまう。表層の限りなく重い世界だ。(この反重力の世界は深層の世界と等しい量を持っている表層のベクトルだ。落下が無重力をつくるように、言葉は重力と無重力をつくりだしながら、自らそれを離反させる。)

またその逆バージョンで身体の重さ、死、腐敗、廃墟を表現すれば、それだけ反自然となって返ってくる。生の重さが見返りとなるが、その瞬間人工的な思考の逆襲にあう。そこで登場してくるのがバタイユであるが、非-知の彼方を各自が探す以外ない・・ということで、わたしはこれから街路の写真を出来るだけ人工的に撮りまくろう。まずはわたしのアトリエ兼書斎を撮ってみた。ようするに反アレゴリーの円を撮りたいのだ。



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