2008年06月

2008年06月18日

ボードレール「裸体の蒼空: ジャンヌ・デュヴァルの肖像とマネなど」−1

DD25-05-6LA_1

ボードレール_異邦人


DD25-05-6LA_1

「裸体の蒼空-掘

裸体の蒼空
わたしは忘却した故郷を想い
宇宙の鏡である女の面影に
「裸体の蒼空」を描きたい。
錬金術師たちの秘法の化学で
落下した隕石を蒸発させ、
異邦人のように
空の深さを反映させながら・・

 

 

煙草を吸うジプシー女

DF18-01_Manet
「煙草を吸うジプシー女」
1862年

「裸体の蒼空-掘廚粒┐蓮△海離泪佑
「煙草を吸うジプシー女」をモデルにして
抽象化し、イメージした絵である。背後の空は
キャンヴァス空間の3分の1程度しか
描かれていない。あとはジプシー女の
クローズアップである。しかしこの
対比はみごとである。わたしにとっては、
この空がボードレールの散文詩、
「(パリの憂鬱)1.異邦人」を想起させるのだ。  

 

ジャンヌ・デュヴァル

DF18-02_Manet
「横たわるボードレールの愛人」
1862年

この絵はジャンヌ・デュヴァルをマネが
描いた作品である。そのデフォルメした
大胆な構図は凄い。遠近法を無視した
構成はいっそう緊迫したジャンヌの表情を
捉えている

 

わたしはボードレールの詩から「裸体の蒼空」というイメージが湧き、上記の言葉が浮かびました。これは詩ではありません。わたしのデッサン日記の覚書です。描くときの見えない感覚を喚起させるためのモチーフです。そのイメージを裸婦として最初に木炭デッサンふうに描きました。はじめに内部の出来事(裸体の蒼空-機砲箸靴読舛、次に外のものとして内部が他者の出来事(裸体の蒼空-供砲糧娠であるような様態を描きました。そして外と内部の交感によって出来事(裸体の蒼空-掘砲内在化される。生命のかたちは外の光りによって内部の焔が灯される。

人間の意識-無意識も含めて、志向性とは分かっているようで、じつは何も分かっていない。その沈黙の画家がマネなのです。描くという行為は、ある情動の様態を、見えるものを見えるように描くことではなく、見えないものを見えるように描く、ひとつのフォルムをつくることなのです。フォルムとは見えるかたちにする構造のことです。今回モノクロからはじめて、段階的に色彩をつけていきました。そのプロセスをわたしは試験的にみて観ようとおもった。ちょうどボードレールの散文詩(パリの憂鬱)に触発され描きはじめた。

わたしが描くという行為は、情動の様態を構造的に観ることであって、その機能がどこへ向かうかは、美術になるとは限らない。場合によっては音楽であったり、詩であったするかも知れない。あえて言えば、その例としてピエール・クロソフスキーがそうかも知れない。かれの絵は、文学でもなく、絵画でもない。その中間で、思考の絵画とも云える。不可視なものを可視的に見せるデッサン的なフォルムをもった、ある種の記号絵画でさえある。謎を解こうとする思考の永遠回帰の迷路に陥る魅力は凄い。通常の絵画の方法ではとても表現しきれない素晴らしさがある。決してイラストではない。むしろダイアグラム的アートである。機会があれば、クロソフスキーが見ているものは何であるのか書いてみたい。

補遺:
どうしてもボードレールのことを書こうとおもうと、このマネの「煙草を吸うジプシー女」と「横たわるボードレールの愛人」を画像掲載しなければ意味をなさないと強く感じ、ここに追加して掲載した。しかも同じ年に描かれている。この2人の女性がわたしには心が打たれるのだ。ジプシー女と娼婦的な魅力のジャンヌ。わたしはそこから「裸体の蒼空」を散文詩(1、異邦人)よりその詩篇の最後のフレーズ、「・・あの素敵な雲」から連想するのだ。そしてこの「遺作、(1) 落ちる水、(2) 照明用ガスが、与えられたとせよ、)という作品にいきつくのです。この作品のヒントとなった詩が「ボードレールの墓」というマラルメの詩篇なのです。デュシャンの作品でもうひとつあります。それは「フレッシュ・ウィドウ、1920年」の作品がボードレールの散文詩、「パリの憂鬱(35、窓)」から触発されものらしい。

補遺として追加しても・・ボードレールのことをいくら言葉で論じても虚しい響きばかりで、書くほどに遠のいていくので、わたしの体験を視覚的な言葉で「裸体の蒼空」というイメージで描いた。そのボードレールの痕跡を追いかけていった。しかしさらに向こう側に世界があり、わたしの手中からの逃れ去ってゆく。

またベンヤミンの「パサージュ論」でボードレールとアレゴリーのことを絵として何らかの”かたち”にして表現したい。それも現代の出来事として、渋谷、新宿、そして最近ショキングな事件がおきてしまった、秋葉原の街をアレゴリーとして表現できればと・・今考えています。どうい形式で公開するかはまだ、そこまで考えていない。

 

ボードレール:パリの憂鬱
「18 旅へのいざない」渡辺邦彦訳より、
その詩篇の一部:空の深さを反映させながら・・を
引用したもの<発行所:みすず書房>参照



2008年06月14日

言語と身体性「誰がイメージを探しているのか」−2

DF13-black1/DF13-02B_2

FlowersAFlowersB

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Flowers:2001

「誰がイメージを探しているのか」

内在性は外の線より摂りこみ
内在の意識を形成する総体・・
絶えず遅れていると解釈してはならない。

差異・・イメージが既にある、デジャブ
(幻視体験)など、既知の認識を超えるもの
様々な相貌が現われる。

アレゴリーは認識する方法として
ひとつの詩の技法であるとおもってはならない。
それは象徴でもない。言語をイメージ化する装置、
一つの断片から別の断片へ、突然変異のデジャブ
そこには無い歴史の時間的な亀裂から
観える図像であるようなもの、それは

「・・を垣間見せる。」

というように現われる何ものかである。


 

前回の続きで、こんどは2つの写真を対比してみた。DF13-blac1/DF13-02B_2:上記画像は花のイメージを追い求めていった結果の、2つの作品を掲載したに過ぎない。実際は10通りくらいあり、どれがリアル空間で撮ったときのイメージなのか、わたし自身判断できないでいる。いくとおりものイメージがあり、どれがこの花のイメージに相応しいのか措定できない。

写真とはイメージを措定し、セレクトするシミュラークルの世界でもあり、その強度の方向性をセレクトするアイテムでもある。そこでわたしはリアル空間で撮った花の写真を、もっとも人工的な色彩になるよう、モノクロと実際のゼラニウムの花の色を造化的な赤い色を選んで処理した。この2通りの写真を対比してイメージとは何なのか観てみようとおもった。そして「写真のシミュラークル」を、その「強度」を構造的に観る作品をつくてみた。つまり「言語と身体性」の問題など・・



2008年06月13日

言語の身体化「シミュラークルの彼方に」−1

DF13-02black1

ゼラニウム

 

 

 

DF13-black1
Flowers:2001

 

 

 

 

 

 

 

Flowers

わたしの想いはだだひとつ
自然になることはできない
言語の身体化によって
シミュラークルをつくること。

差異・・わたしが自然を観る
自然はわたしを無にする。
わたしは自然を取り出すために
無数の記号を地層の
なかから番地を探す。

「それは綺麗だね」

と、誰かが言う。番地はそこには無い。
花が囁く、すでにそこに在ると。

再現されたとき、花は花ではなく、
無限の時間の断層から
遠い花のシミュラークルとなる。

自然になるこはない、という
この呟きは、孤独の信号を
世界に発信する。

窓のない部屋で、光りと暗黒を
同時に体験するモナド・・

身体は接続さた宇宙の無窮を
元素化したあの想いを、星々の
煌めきを、秘めたる言語で語る

沈黙の・・沈黙の・・果てに
涙するわたしのあの想い・・

 

これは詩に近い文で書いていますが、わたしのデッサンノートより抜粋したものです。絵画はわたにとって言葉であり、視覚的なある再現でもありますが、沈黙の何かです。どのようなものでも表現したとき、既に遅れている。それを再現することではなく、不可視のものを構造化する何ものかです。それを思考が眼に見えないものの、見える構造にするのです。そのとき、シミュラークルの作用が在る強度をつくる。わたしにとって絵画とは、言語と視覚の融合されたある強度なのです。DF13-black1の画像はタイトルがFlowersとなっていますが、花そのものを再現した写真ではない。花の何かなのです。



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