2008年05月

2008年05月21日

フランシス・ピカビアの方へ「官能的な靴の測定器」−1

ED01-60Red_2A/ED01-60Blue_1Aa

赤い靴青い靴

 

 

 

 

 

 

 

 

ED01-60Red_2A/ED01-60Blue_1Aa
 「Red Shoes &Blue Shoes

 

「官能的な靴の測定器」の為のデッサン

フランシス・ピカビアの官能は一つの機械から
すべてが満たされた、無意味の総体である。
それは秘めたる奢侈の商品であり、バタイユの
消尽する過剰なエネルギーの官能である。

虚無の彼方へと、情念が作動する自動機械の
ネクタイは、地球に結ばれたピカビアの
抽象機械である。その果実は、裸体の言語を
吸収したエロティシズムであり、人間はその
機械である。



2008年05月11日

ボードレールとマネ「裸体の蒼空・・あの素敵な雲」−2

FA21-04A/FA21-04A

雲と空A雲と空B

 

 

 

 

 

「裸体の蒼空-供
あの素敵な雲

前回、ボードレールとマネのことに関して書きました。ボードレールの散文詩(パリの憂鬱、17・髪のなかの半球と)「1・異邦人」の最後のフレーズが気になって、何とか表現ができないものかとおもい、暗示的な方法で左上の部分のみ顔をとり込み、背後から光りを感じるよう、微かに色を付けてみた。前回のデッサンでは、内面性としての情動を表現し、外との連関は内部のひとつの接線として関係性をもつのみで、具体的には表現していませんでした。今回は外の光りを顔に射れ、その関係性を最小限にとどめ、抽象的な方法で表現してみた。内部から外へではなく、外から内部の線へと向かう、外が主体となる様相にした。上記のFA21-04A/FA21-04Aはマネの「燕、1873年」作品の空の部分のみ掲載したものです。いずれこの「燕」という作品に「かくされた沈黙」を論じたい。当初わたしの作品を掲載していたが、あまりに駄作なので削除しました。上述だけの文をのこしました。

マネのモデルでは「煙草を吸うジプシー女、1862年」馬の背中にジプシー女が肘をかけ煙草を吸っているポーズです。この背後に前回も書きましたが、マネは蒼空の空間を画面の3分の1にとどめ、無限を暗示させる描写となっています。そのことが、かえってイメージが無窮に広がり、素晴らしい表現となっています。舞台装置として馬を2頭配置し、その背後に蒼空を描きジプシー女との対比が見事です。それは外と内部(ジプシー女の表現)の連関が驚くほど構造的で、タブローそのものを見させるマネの様相は、現代美術そのものです。近代詩の始まりが、ボードレールからランボー、マラルメへと接続されてゆくのもよく分かります。そのことと関連して、マネを見ますと現代美術の始まりを強く感じます。話しは現代にいってしまいましたが、ボードレールにもどりましよう、そこからわたしがイメージするのはボードレールの散文詩「1 異邦人」の詩篇の

『----僕が愛するのは、雲です・・・流れて行く雲・・・ほら、あそこ・・・ほら、あそこを・・・あの素敵な雲!』

という最後のフレーズです。わたしは、この詩篇からイメージが無限にでてきます。ジュール・ラフォルグもそうですが、わたしにとって絵画とはイメージそのもので、視覚的要素であるより、不可視の構造を可視的に表現する方法が、たまたまわたしにとって絵画という感じです。視覚の快楽は脳髄からやってくるより、外の表面から浸透する心地よさです。デュシャン的にいえば、網膜の快楽ということでしょうか、強度的には脳髄の刺激より多少弱い気もします。詩のインパクトは、まさにその辺の刺激です。この刺激を可視的にしたいわたしの欲求が絶えずあります。

 

ボードレール:パリの憂鬱
「1 異邦人」渡辺邦彦訳、
発行所:みすず書房、参照



2008年05月10日

ボードレール「裸体の蒼空(パリの憂鬱)とマネなど・・」−1

DD25-02_1

裸婦A

 

 

 

DD25-02_1
「裸体の蒼空-機

 

 

 

 

 

 

わたしはボードレールの散文詩「パリの憂鬱」のなかで<髪のなかの半球>がもの凄く好きで、そしてたまらなく辛い感じが伝わってきます。とくに最後の詩句『・・私は思い出を食べているような気がする。』というこのフレーズ、心にジーンと響きます。そしてこのあとに「1 異邦人」の散文詩の言葉へと続き、天上的なフレーズとなって現れてきます。『・・僕が愛するのは、雲です・・流れてゆく雲・・ほら、あそこ・・あの素敵な雲!』という情景です。

ボードレールの散文詩に「30・縄 ”エドゥアール・マネに”」という画家に対する想いを書いた散文詩があります。これはマネのアトリエで働いていた少年のことを詩っています。その少年の名前はアレクサンドルといい、15歳のときに自殺してしまいます。マネはその少年をモデルに描いています。「さくらんぼうをもつ少年、1859年」この絵は、マネの絵にしてはめずらしく少年の顔を生き生きと描いています。とてもこの少年が自殺するようには思えない。そのギャップが胸を打つ。

マネがどのようにその少年を観ていたか、まさにボードレールの散文詩「30・縄 ”エドゥアール・マネに”」でてくる少年の像がこの詩篇のとおりなので驚く。マネは観たものを観たもののとおりに描く、最初の近代画家であることがよく分かります。ボードレールの恋人を描いた「横たわるボードレールの恋人、1862年」のマネの絵は迫力があり、圧倒されてしまいます。

ミシェル・フーコーやジョルジュ・バタイユがマネ論を書いているのは、身体としての存在論であり、表象の彼方にある、その現れ方が、マネのタブローの意味作用が、非ー意味作用として返ってくるその特異性なのである。観てのとおりという絵画の自立を確立したことである。これは現代絵画の先駆けです。わたしはマネの絵を何回観ても神秘的だ。<人間とはいったい何だろう>という問いです。もしかして消尽する虚無ではないのか。

DD25-02_1:「裸体の蒼空」はコンテで描いたようにセピア色にして自由な線の走りと、余白の塗り残しが効果を生むようそのイメージを描いたもの。素材はマネの「煙草を吸うジプシー女、1862年」の印象を柔らかい情動がでるようひとつのかたちを断片化して描いたものである。結果としてマティスふうになったのが面白い。”煙草を吸うジプシー女”では馬の背中に右肘をつて煙草を吸っている。その後ろの背景は雲と空である。この絵と散文詩「1 異邦人」の最後の詩句をみるとわたしはマネの描いた空がそれを表象しているように感じるのだ。わたしのデッサンでは上部背景を黒く擦り雲の陰のようにし、空を描いてはいないけれど無数の線のタッチの隙間から微かなイメージとして空が見えればいい。

 

この詩篇は「ボードレール、パリの憂鬱」のなかの
「1 異邦人」「30 縄 ”エドゥアール・マネに」
「17 髪のなかの半球」を参照 みすず書房:渡辺邦彦訳



2008年05月02日

シミュラークル「意味の論理学<人体の夜>」−2

ED02-20A/ED-20E/ED02-20B

鏡A黒い人物鏡C

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ED02-20A/ED-20E/ED02-20B
「鏡のなかの夜と昼」

 

昼のなかに夜を・・その光りは外からやって来る
内部の光りは、たえず暗黒で二重映しになっている
その窓はなく、・・鏡に映る姿が己の像として
認識するとき、差異はすでに出来損ないの部品して
回転する。虚無そして・・虚無の持続が媒質として
つくるもの、微粒子の組み立て工具を持ち歩く言葉たち。

言語の無限反復はシーニュの意味作用を破壊せねばならぬ。
夜をつくるために。墓の彼方へ、その沈黙が回帰させる
でもどりの花嫁を祝福するために。つまり不在でなければい
られない言語の宿命を背負う独身者たち。モナドの影に
孤独のトポロジーをつくるシミュラークル・・

主体の消滅のうちに、外の思考を取りこみ、強い力として
感じる沈黙の・・余白を、この言語の虚体から人体の夜を
かくしてつくりだし、鏡の反射が内部空間の闇をかたちつくる、

「何者か・・・」を可視的に映し出すシミュラークル。



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