2008年03月

2008年03月31日

アルトーの残酷絵画とは「技法の彼方にある、あの怪物を・・」

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水の出現3水の出現4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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       「Untitled


ブルーの中から現れてくるものが何であるのか、ひとは理解しようとする。わたし自身理解していないのに。ひとは類似を求めて安心する。それらの集積が既知の認識であるとおもう瞬間、解らないということを目差すこの思考運動が、それ自体から現れてくる怪物を探し始める哲学者たち。あのアントナン・アルトーの「残酷な絵画」を誰が解るというのか・・技法の彼方にあるあの怪物を。

つまり理性の力は狂気を止められるのだろうか。狂気が理性となる場合は。多分人は、それを理性と言わないだろう。ジャック・デリダなら『基底材を猛り狂わせる』というだろう。かれは言語のパフォーマーであり、サーカスだ。そこで演じているアルトーは、ピエロか綱渡りの曲芸師だ。思考の狂気を綱渡りしている。落ちたらおしまい。しかし彼、アルトーは思考の綱ですでに非-思考に落とされてる、ということを知ってる。

 

「哲学者たち」ということを考えていたら、とんでもない方向にいってしまった。あのアルトーに頭がスイッチしてしまった。しかしおもいついたらそのまま書くのがわたしの慣しである。というのもイメージが後にアートの覚書になるからである。



2008年03月30日

記号と意識ー6「Key of Life」

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Keys of Lkfe

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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Key of Life


わたしは作品名を「第七の封印」と当初考えていた。こところがその意味することは「聖ヨハネ黙示録」による深い予言書の内容であり、新約聖書の最後の書でもある、この深い宗教的意味合いがあるためわたしは断念した。つぎにおもいついたのが「沈黙」であるが、その言葉によって視覚的要素を相殺(思考の動きを拘束)してしまうのでこれも断念した。

わたしにとって作品名とは、見えないタブローを見える思考にするための重要な一つのタブローなのである。そこでおもいついたのが「Key of life」である。これは全てを意味するか、またはしないかもしれない。Keyとは「手がかり」という意味もあり、自らの手でそのKey(錠)を探し、ドアを開き謎の世界に、未知のゾーンに入ってゆく・・という意味で「Key of life」という題にした。



2008年03月29日

ジュール・ラフォルグ「ステファーヌのオマージュ」−5

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覗く少女

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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「大木の節穴から覗く少女」

 

「少女がこちら側を気にしながらちらちと見る
あの好奇心旺盛な年頃の少女たちを懐かしく
おもうのだ。

天使の顔と、秘めたるエロティシズムを
すでに隠しもっている。誘惑の顔を、そして残酷さも
備わった気質を、あの弱々しいおとこの子を
からかっている優しい少女をおもいうかべる。

やがてペルセウスに殺されることになる
従順な怪物にわがままをいうアンドロメダと、
この少女の相貌をおもいだすのだ。

未熟なステファーヌは、怪物の力はないけれど、
無垢な心をもっているのは同じ。

「本当は優しい少女で、
ステファーヌ・ヴァシリューが好きなのだ。」

その日は生徒監が転校生をつれて入ってきました。
彼はたったひとりでリセにこの6月に転入してきた
ステファーヌ、少女はひと目見たときから少年が
この寂しいリセの医務室で死ぬであろうことを
予感していました。

ステファーヌの愛は、幼児キリストの優しい母としての
マリアを望んでいたのだ。」

 

不可能な愛を希求すれば、そこに残るのは意志としての愛、形而上的なあの宿命的な生涯となってしまうでしょう。孤独と絶望そして絶対的な安らぎを拒否される残酷な生活。そこから広大無辺の宇宙的神秘像へと昇華してゆくポエジーが生まれてきます。官能と狂乱の乱舞する銀河系の無窮の世界にむかう。ノスタルジーが「地球のすすり泣き」となり、それを超え、無限の孤独が神への愛に変容する美しさは喩えようもなく輝いている。それは一つの煌めく星座が無数の輝く星々へと伝わりついには銀河となる。この比類ない美しさにわたしは惹かれる。そして「ペルセウスとアンドロメダ」のなかの怪物がメタモルフォーゼする光景をおもいうかべる。

愛を知らずに、また愛されもせず、見捨てられた孤独なこの美しい少年を、「ステファーヌ」をわたしは残酷な姿から救い出すため、聖母マリアを少女に変え、大木の節孔から覗かせたのだ。ステファーヌを見守る神として、”フランチア、フランチェスコ”の「聖母子、1649年」の顔を、大木のなかから覗く少女の顔としてコラージュしたのだ。この優しく描かれた母としてのマリヤ像がイメージとしてピッタリなのである。フランチェスコの描く明るい生命的な相貌が凄くいい。

このラフォルグの書いた小説「ステファーヌ」の結末は、神に己の身体を抱かれたいという、ラフォルグの願望が見えます。それはシスターの柔らかさ、温もりを感じたいという絶望のうちに死んでゆきます。そのドラマのなかで外の情景との対比も大変暗示的です。エンディングは次のようになっています。

『・・ひとりシスターだけが、蒼白の死せる少年の傍らにとどまっていた。二本の蝋燭の光りをともして、大きな尼頭巾(コルネット)をかぶった顔をうつむき、小声で祈りをつぶやきつづけていた。

可愛そうに、ステファーヌ・・・』

 

訳したひとの文が情緒的にならず、けっこう読みやすかった。これは難しい訳だとおもう。童話的にもならず、神話ふうでもない訳し方なので、わたしはすぐ入りこめた。この「ステファーヌ」の小説はラフォルグが21歳のときに書いたものです。

最初に書いた上記の文は、この小説を読んだわたしの感想文として妄想したものです。クラスのなかには必ず「ステファーヌ」を見守ってる少女がいるはずだ、という想定で書いたのです。ラフォルグの小説ではシスターが見抜いていましたね。しかし彼女は現実の女性ではなく、おそらく神なのでしょう。

本当に美しいものは目には見えない”姿”をしています。それを見破るひとがいる限りポエジーは存続します。あの「ペルセウスとアンドロメダ」にでてくる”怪物”が最も幸福になる資格があると、ラフォルグはいっています。しかしそれは最も自己犠牲を強いることでもある。愛とは、自らを失う生贄の意志なのでしょう。その意味でラフォルグは「伝説的な道徳劇」を書いたのでしょう。吉田健一の訳も素晴らしい。

 

ステファーヌ・ヴァシリューとは、ジュール・ラフォルグの小説
「ステファーヌ」という題の主人公の名前です。1881年作、
訳:志村信英、<発行所:森開社、1976年発行、>を参照

「ラフォルグ抄」の”伝説的な道徳劇”のなかの
「ぺルセウスとアンドロメダ」を指します。
訳:吉田健一、<発行所:小澤書店、発行1975年、>

「地球のすすり泣き」は「ラフォルグ全集機
訳:広田正敏、<発行所:創土社、発行1981年>

以上の三冊は限定本なので入手は難しいかも知れません。ラフォルグの好きな人は熱烈な愛好家なのですでにもっているとおもいますが、あえて参考に上げときました。わしはラフォグルが好きで挿絵を3点ほど描いています。デュシャンも挿絵を描いています。なぜ好きなのか、それは宇宙的なスケールをもっているからでしょう。

下記に掲載しています。
神話の構造−2「ジュール・ラフォルグ」
神話の構造−3「ジュール・ラフォルグ」
神話の構造−4「ジュール・ラフォルグ」



2008年03月27日

アンリ・ミショー「消えること、現れること」−5

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アンリミショーF

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「消えること、現れること」

 

・・存在とは消えることと、現れることの線であり
現れるとき、外の線は最小値となり、
内在の平面は最大値となる。
(孤独のなかに折り畳み襞をつくる。)
外の線はそのとき内在の接線をつくることになる。



2008年03月26日

アンリ・ミショー「襞をつくること」−4

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ミショーの空間A

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

「ミショーの身体」

そこに身体がない、”みじめな奇跡”とは気化した
身体の襞である。だがどこへ、微粒子の拡散した
痕跡が、”みじめな奇跡”となるのではない。
無限に拡げられた襞がそこに観えたとき、

「さらに無限へと高まらねばならない・・」

という無窮の意志が発生することである。
そのとき同時に孤独も発生する。
この”みじめな奇跡”・・

「それはモナドである。」

「出入り口もなければ窓もない」内部の空間が、
暗い闇から光りを呼び寄せ礼拝堂をつくる。
折り畳まれた襞、世界の秩序が形成される。

この人工的な建物は、人工的ですらなく、
世界圏へ導く非知覚の「内側の空間」で
襞は拡げられ、それが身体を折り畳み襞となる。
そして外の線が内在性の時間をかたちつくる。



2008年03月22日

無窮を鏡に映し、二つの石に変容する

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二つの石

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「現出した二つの石」

水の空間は自らを固体化することで
無窮を鏡に映し、二つの石に変容する。

 



2008年03月19日

賢者の石は、その光りで自らを語りはじめる・・

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Ligh CircleB

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤いリング

賢者の石をもつ者は、溶ける
自我をもちはじめる。その熱が
赤いリングを現出させる。





2008年03月17日

エロスとタナトス「横たわる裸婦」−1

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横たわる裸婦B

 

 

 


 

 

 

 

「横たわる裸婦」

生命の内部には「エロスとタナトス」がある。
その秘めたる時間は、突然やってくることもある。
意識するとき、エロティシズムは形而上的な
ものではあるが、それは性へのイメージの
物質化でもあり、性のメタファーでもある。



2008年03月15日

カオスの窓口「暗闇のなかに消えていった・・」

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Mail Box A1

 

 

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Mail Box A1
orChaos

 

 

 

 



カオス

・・それが破棄されていたとは気づかず、返信を待ち受けている。
つまり誰が破棄したのか知らないのだ。確かに逢うために接近し、
話したのだが、その人はもう見えない。暗闇のなかに消えていった。
「A1様へ」とMail Box に投函したのだが・・



2008年03月14日

非-言語の声「ジャスパー・ジョーンズとマネの絵画」−1

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黒い数字A白い数字A

 

 

 

 

 

 

 

Black and White
非-言語の声


見えるもの、そして可視的に記述される”もの”とは思考にほかならない

わたしはマグリットのこの言葉が好きで、何のひねりもなしに「黒い数字」と「白い数字」を描(書)いた。
『 What you see is what you see 』といった、フランク・ステラの言葉は、ストレートにタブローを見せる視覚的な強度をもっている。タブローそのものを見させ、物質的な平面を見せる装置ともいえる。しかしそこで終っている。つまり逆にいうと、そこで終っているがゆえに、眼差しはタブローの方向に収束する。この絵画の特異性を、自立性を確立させたことは確かではある。わたしはこのステラの構造より、『・・可視的に記述される”もの”とは思考にほかならない』といった、マグリットの考え方に魅力を感じます。その言葉は絵画を思考の世界に、表象の背後に、思考の見えるタブロー化の作用へと向かうベクトルが感覚をときに惑わせ、迷宮へと進む構造が好きなのです。

それはイマージュの世界へと導きます。わたしがフランク・ステラの絵画から離反する理由は、思考の生成を停滞させる装置、そこに留まる視覚性にあります。「見てのとおり・・」というのは、一見存在そのものに向かわせるが、生成変化のない、定点として観る存在論にはあまり興味がなし、「存在の本質」というテーマにもまったく興味がない。それに比べてジャスパー・ジョーンズの絵画はずっとマグリットに近い構造をしています。キャンバスを裏側に貼りつけ、思考の作用を促すタブローがあります。わたしはそういうジョーンズの絵に魅力を感じます。それと、わたしは表象の背後にある「マネの絵画」の沈黙が何を表現しているのか、どこへいこうとしているのか気なってしょうがない。

マネの描いた「フォリー・ベルジェールのバー」とジョーンズの、その鏡のように反転カしたカオスの構造と、どこかで繋がっているのである。ジョーンズの素材は現代的な日常品をもちい、マネとの時代の相違はありますが、ジョーンズの「春、夏、秋、冬 1986年」では人物像をシルエットで描写しています。このシルエットはジョーンズ自身であるが、このシルエットとマネの「フォリー・ベルジェールのバー」の絵にでてくる鏡に映た男女の構図が、その表象作用とジョーンズの絵の構造が気になるのです。わたしのいう構造とは、一般的に美術評論で論じられているジョーンズ論ではない。最後は思考を不在にさせる、何者かのことである。

この構造の類似性とは、観ている世界が、その感覚が似ているとか、空間を観る視点が同じように感じる、ということではない。マネの絵画が沈黙に向かうのに対して、むしろそれとは反対にジョーンズの視点は沈黙をうち破り現出させる装置をつくる。しかしながら、再びその沈黙に呑み込まれカオスへと向かうシミュラークルとなる。この2重の作動を見事に作用させ、この機能が存在の彼方へと導く神秘なのである。

両者の共通しているところはタブローそのものを凝視させ、絵画の自立性と、その表象作用が物質そのものへと向かう構造のことである。そしてその物質性とは「存在そのもの」という意味でもなければ、対象を見えるものにするということでもない。思考の彼方を見えるものにするあるもの・・という意味である。マネのこの構造は、まぎれもなく現代美術の始まりである。

たとえば、「フォリー・ベルジェールのバー」の絵の描写で、若い女性が正面中央に立ってカウンターを前にしてこちら側を見ている。カウンターの後ろの鏡には、彼女の後ろ姿が映ている。(遠近法的には彼女の位置はずれているのだが、この重要性はここでは書かないけれども)、そして鏡に映ているもうひとりの男が、彼女と話している。この男はカウンターの前に後ろ姿で立っているはずなのだが、描かれてはいない。鏡に映ている男の姿は、やや横向きの顔で右端に小さく静に描かれている。

「いつたい彼女と何を話しているのだろうか・・」沈黙ばかりが響いてくる。この表象の背後に、いったい何がおこっているのだろうか。絵画とはこの表象の彼方に・・バタイユのいう『非ー知の空虚』へと向かう、あの虚無なのだろか。ジョーンズの、「春、夏、秋、冬 1986年」はそれを感じてしまうところがある。しかし森羅万象の優しさとしての囁きは感じる。

マネの晩年に描かれた「リュエルの家、1882年」の絵も大気の揺れと葉音の囁き、ベンチに座っている二人の夫人が話し合っている声が微かに聞こてくる。葉の影で二人の顔は見えないけれど、イーゼルを置いて、マネが描いているところより少し遠いところに二人は座っている。そこから人間の営みを観続けたマネの視線を感じます。この二人の夫人を通して、エンディングの遠い声が、マネの絵から伝わってきます。翌年の1883年、大変な苦しみの後に死去する。

わたしにとってマネはとてつもなく偉大な画家だ。」

以上、感じたままに書きましたが、わたし自身「マネの絵画」を理解している分けではない。ただ驚くべき沈黙とその向こう側にいったい何が起きているのだろうか。人間の意識とは何処に向かっているのだろうか。全てが神秘だ。それとジョーンズの「春、夏、秋、冬 1986年」の作品を複製ではなく、本物を観たい。ジョーンズは何かを表現しているけれども、深い沈黙へ向かう、非人称的なブラックホールを感じるのである。

DC13_Black/BB15_White_3:
Black and white
の「非-言語の声」は数字を描(書)いた作品である。全ての数字は読み取れない。対象が不在であり、これを見て思考がどのように作用するのか、そのことによって空中に数字が浮遊し微粒子となり、シミュラークルが生成される。それを呼吸し他者性が触発される。可視的に記述されたものが、意味の形成ではなく、無-意味の形成であること。沈黙の言語が闇から発生する声であるような・・



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