2008年02月

2008年02月21日

バタイユ「内的体験ー"希望の星"or”死にゆく自我”」ー5

DB17-01Gre

無限の囁き

 

 

DB17-01Gre
希望の星「死にゆく自我」
or「横たわる男」、ドローイング
(GreenにBlack-ink)

 

 

 

 

 

 


・・何を希望しているのか分らずに、
希望している。遅延された時間と現存在
偶然性は破棄されて
「死にゆく自我」を待ち受けている。
こうしてわたしはバタイユの熱狂とは反対に静謐な
空間に身を委ねる。あのジョージ・トゥーカーの描く、
仮死状態となった身体を眺める。


交換可能な身体に住んでいると、
神経の秤が透明性を帯びた無時間の墓を探り当てる。
この無能力の極致が圧力を作動させ、
思考の往復運動が始まる。バタイユはこの
人間機械を停止させ、それ自体のなかへ
『死を前にしての歓喜の実践』を・・
非ー知の彼方を望む恍惚。

こうして、『恍惚が生れるのは、この悲劇的な、
人工的な世界においてである。』といったバタイユの言葉は、
精神と身体の苦痛なしには起こりえない。
この人工的という意味がすべてだ。

この「死にゆく自我」の解体を悲痛な
人工的な叫びでポエジーをつくる。
バタイユ

わたしは虚体の言語で応える
「もはやそもには無い」と。
アリスの落下を捉え、反転させ、
アルトーとアリスの複素数をつくる。



2008年02月16日

バタイユ「消尽したもの "ウォーホル的に・・”」−4

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GバタイユAGバタイユB

 

 

 

 

 

 

 

 

G・バタイユ
(鉛筆スケッチに色彩)

 

・・無意味というなら、わたしはウォーホルを想起する。彼は現代のシャーマンだったし、何しろあのエンパイアステートビルを無意味に8時間もカメラを固定して撮りつづけのだから。コンセプショナルなアート何かではない。消尽すること、ただそれだけ。これこそ「器官なき身体」だ。このアルトーの後ろにウォーホルがいる。

彼は生きているときでも死んでいたし、死んだあとも生きている。蒸発した作品はそこには無い、という表面をつくる。およそ言語の構造によく似ている。気化された表層は、言語の連鎖のなかで深層の身体を変形さ、言語の身体化をつくる。だから、落下したアリスをつくらねばならない。<身体の変位量を計測する物語をつくりださねばならない。>と、ドジソンがいっているのですよ。

この変位量を供犠の形式として、言語の中に溶け込ますこと。表層の中の表層を、言語の連鎖反応を身体の奥深くへと・・バタイユの虚数をつくりだすこと。こんな妄想をしたくなる。バタイユにのめり込めば、のめり込む程、その無意味な力が無重力化してくる。言語の虚体が頭角を現す。



2008年02月02日

バタイユ「無神学大全”有罪者” 消尽したもの」−3

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67950

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

TITLE:「67950」or「消尽したもの

 

雷の不在
涙を流す水また水の永遠のひろがり
そしてわたしは哄笑する蝿
そしてわたしは切られた手首

わたしはシーツを濡らしてばかり
そしてわたしは過去だった
盲いの死んだ星であった

黄色の犬
奴はそこにいる
恐怖
卵みたいに吼えながら
手の不在の中に
おのれの心臓を吐きながら
わたしは泣き叫ぶ

天に向かってわたしは泣き叫ぶ
泣き叫んでいるのはわたしじゃないと
この引き裂く電撃の中で
死んでゆくのはわたしじゃない
それは星をちりばめた空だ
星をちりばめた空は泣き叫ぶ
星をちりばめた空は涙を流す

わたしは眠くてたまらない
そして世界はおのれを忘れる
わたしを太陽の中に埋葬しろ
わたしの愛を埋葬しろ
裸のままで 太陽の中にだ
わたしの接吻を埋葬しろ
それにわたしの白い涎もだ

 

無神学大全”有罪者”:G・バタイユ
出口裕弘訳:(上記詩篇は、笑いの聖性、鍵媚屐忙仮
発行所:現代思潮新社

 

今回でこの無神学大全、「有罪者」で全三冊を、わたしの感じたことを描いた。決して語ることはできない。「ニーチェについて」、「内的体験」から、最後に時間的な流れを考慮して、「有罪者」で天体の思考へと接続され、その矢が放たれたのだ。バタイユの書物が、無意味なものへ向かわす狂気を秘めている。それが素晴らしいのかは、わたしには判断できない。既知を超えた、非認識からやって来る判断不可能な地平へと追いやる。

即ち、接近することが、危険な思考を余儀なくされる生贄的な、己へと向かう刃物であることは確かである。その志向性がポエジーとなり、問いの真っ只中で、太陽に接近し過ぎて墜落するイカロスを想起する。わたしはそいうバタイユの思考を、帰還できない思考を、<その狂気には近づかない方がいい。>という理性の言葉を超え、それを黙らせるところからやって来る。それにしても既知的なものの集積では到底接近できないある一瞬があるのだ。わたしはそれをバタイユやアルトー的な深層ではなく、ウォーホル的表層の世界で感じるのだ。この平面は2重の世界をもつひとつの複素平面であるようにおもわれる。

・・このバタイユという毒を飲みこむことなしに、どうやって交感できるのか。わたしはそれを拒否するというよりは、別のルートを、言語の連続性の表層のなかで到達できない地層をわたしは歩く。より深層へと接近するのではなく、より表層へと渡り歩く、付着不可能なものへと向かう。そういう反転されたカオスも虚無に到達するあの宇宙があるのだ。焼尽する対象が不在の「非ー自然」の迷宮を求める。平行線は交わる。・・の先は同一の線へと合流する。

DB02-50_3:画像掲載は(バタイユ「無神学大全”ニーチェについて”」−1、「無神学大全”内的体験”」−2)に掲載した続きとして「無神学大全”有罪者”」−3を描いた。このー1、ー2、ー3でひとつの絵として描き、時間的な流れをもつよう作制した。



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