2007年06月

2007年06月27日

ポップアートの旗手たち「ジャスパー・ジョーンズとマネの絵画そしてフーコーなど」−8

ジャスパー・ジョーンズは、わたしにとって絵画のなかの絵画であり、何をどのように描こうが、またどのような素材を使おうが絵画のなである。それは思考の背後にピッタリと収まる。反芸術でもなければ、深刻な何かを表現するということでもない。日常的な出来事を、普段使用している日常品を描いたり、その道具をコンバインする行為も見事に絵画となる。その絵画の魅力は素晴らしい。わたしはそういうジャスパー・ジョーンズが好きなのである。

 

赤の数字黒の数字

 

 

 

 

 

 


 

BB15_4Red2/BB15_Blackb
「赤い数字と黒い数字」

この画像掲載は、(BB15_4Red2/BB15_Blackb)わたしが数字を描いたものであるが、ジャスパー・ジョーンスも数字を描いている。以前はアメリカ国旗を描いて掲載したが、数字の方が面白い。まったく対象がないというのも魅力的である。国旗だと記号(象徴)の背後にアメリカというものが付着し、それを想起さると同時に、それを離反させる装置をジョーンスは描いたが、わたしは「マネの絵画」の沈黙に惹かれ、いっそうそれ自体に、何ものも表現しない数字を描いた。フランク・ステラの絵画は『 What you see is what you see 』という言葉で彼自ら語っていますが、それは純粋にタブローに向かわせる視点を意味しているのでしょう。わたしはその背後にある不可視の構造にむしろ興味がある。シミュラークルという純粋に強度の問題であるような絵画がいい。

話しはそれたがジャスパー・ジョーンズにもどろう。彼は様々なスタイルで描いていますが、そのタブローが与える表象の方向がどこへ行くかは、図表化されたダイアグラムによって内部時間を形成する感覚の隆起を楽しむ絵画である。これはジョーンズが創った構造のもっている特異性である。わたしはこの構造によって観させられる。それがわたしにとってジョーンズの絵を観る快感なのである。

特に「Summer, Fall, Winter, Spring 1985年、1986年」叙情的ともいえるこの作品は”もの”の背後に何を表象しているのだろうか。もの達のなかに大きく描かれ立っている男の影。そして、「Spring」では大きな男の下に幼子が立っている。そこに円、三角形、正方形をシメントリーに配置し、幾何学図形を描いている。これはジョーンスのセルフポートレートなのだろうか。何かに身を委ね、意志の力がより対象へ、空間の中に溶け込み森羅万象のひとつの現象として人を描いている。立っているこの大きな男を影として描き何も表現してはいない。

この描かれた装置を、タブローをどのように観ればよいのだろうか。表象の背後に、シニフィエを形成させるシニフィアンを(視覚記号)呆然と眺めるだけなのである。この装置はマネの絵画にでてくるフーコーが論じた「フォリー・ベルジェールのバー」をわたしは想いだす。そしてわたしはいつもジャスパー・ジョーンズのタブローを見るにつけ、その装置の構造はマネへと接続される。決してジョーンスの絵は明るくはない。表層の背後に反転したカオスが寄り添っている。哲学的な深い絵画である。


「マネの絵画とフーコー」、「ジョーンズとマネの絵画」の詳細は別ページにて掲載しています。
1)マネ絵画の神秘「結局フーコーは何も語っていない」
2)マネの絵画「その不可視の構造とは・・」−3
3)非-言語の声「ジャスパー・ジョーンズとマネの絵画」



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