2007年04月

2007年04月27日

生と死 「夜の鳥”静かに聞こえてくる”」

CD14-50Bro1/CD14-50BlaA

暗黒の鳥2

暗黒の鳥1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「夜の鳥」

こうしてわたしは夜になると鳥に変身し、
小さな木に停まり、
それを待ち受けねばならなかった。



2007年04月24日

中原中也「無限空間の窓とは身体である」-1

CD23-01E/CD23-01B/CD23-01C

無限空間2

 

 

「身体の窓」

中也が藁の上に
寝ていた。大気に融けている。
そこにアイオーンがやって来た。
こんな身体をもっている人は、
何処にいくのだろう。

 

 

 

「無限空間」

*1『・・ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。』

*2『・・見つかったぞ!---何がだ? ---永遠 太陽にとろけた海 』

この中也の詩の後にランボーの詩をわたしは想いうかべる。透き通った空間の窓をもった人、そういう美しい人がわたしは好きだ。神から火をもってこようとしたヴァン・ゴッホもいい。芸術にはなっていないものがある。ゴッホが雲を描くとき、いつもわたしはその激しさよりも、生まれる前のその静かな胎児をおもいうかべる。そこには隠されているゴッホがいる。

中原中也とは何者かわたしは知らない。詩を書いていた人であることはよく知っている。こんなにも無限を身体から感じたのは、舞踊家が天空と話しているときに観たそれを感じる。わたしはその身体自身が芸術となっている人が好きです。マックス・エルンストは作品と等価な彼自身の身体をいつも感じる。

こんなふうに身体をさらけ出して寝ている姿を観て、おもわず撮ったのだろう。詩を感じたのだ。わたしもこの写真を観て詩を感じた。あの無限から見放された人間の姿が再び帰る夢。中也はそれを見ていたのだろう。


CD23-01E/CD23-01B/CD23-01C:
画像掲載は詩の月刊誌で、その表紙にこの中原中也の写真が掲載されていた。わたしはこの写真を観て詩を感じたので描きとめておこうとおもった。言葉でより、スケッチにした方が感じたことをコンタクトできます。これは詩に接近できるわたしの方法です。それにしても「死せるキリスト」のようだ。

*1『』内は中原中也の詩”山羊の歌”の「いのちの声」より
最後の句を参照。この最後の言葉こそすべてという凄い
思考と行為だ。ただ驚くばかりだ。
*2『』内はランボーの詩、”地獄の季節” 錯乱兇茲衄歓
訳:栗津則雄参照



2007年04月06日

ルイス・キャロル「”アンドロメダ”ケイト・テリーのイマージュ」

CD06-02

ANDROMEDA

 

 

Miss Kate Terry as
"ANDROMEDA"
(pencil on paper)




 

 

 

 


「アンドロメダ」

前回ルイス・キャロルのことに関して書きました。多くの研究者によって論じられています。わたしは楽しみのために書きます。また描きもします。どのような評論をみてもアルトーの毒を呑み込んだ言葉の錬金術の前に退散せざるをえないでしょう。なにしろ深層の世界を、身体と言語の両者のせめぎ合いを一秒たりもと許さないあの「器官なき身体」の極限に接近するアルトーの意見はもっともであると、想う分裂病者のわたしがいる。その後からすぐ無意味の体験を拒否する身体の変調に悩まされる。置き去りにされた身体の回収に右往左往するというわけです。詩人でないわたしにはこの変調を言葉に現すことは到底無理というものです。

画像掲載(CD06-02)はアンドロメダに扮した少女(ケイト・テリー)をチャールズ・ドジソンが撮った写真である。わたしの好きな写真である。ドジソンの写真では、少女の意識の喪失感と身体の恍惚感のような感じがあり、柔らかさのでているとてもよい写真です。そこから光りがでています。わたしの鉛筆スケッチでは、その感じであるよりはリアルな緊張感となっています。描いてみて分ったのだが、顔と眼の表情がものすごくデリケートです。写真のよさでしょう。それを描くのは別な方法が必要です。ただ長い髪の毛は写真のとおり描いてはよさがでないので、柔らかさと金髪のイメージがでるよう描いた。結構ドジソンの少女の写真にしては珍しくエロティックです。



2007年04月05日

不思議の国のアリス「”少女の写真”アリス・リデルのイマージュ」

CD05-01B

リデルのイマージュ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アリス・リデルのイマージュ」

わたしはルイス・キャロルがなぜ少女の写真を撮るのか、その理由は分らない。精神分析家の言葉はもっと分らない。ドジソンはアリス・リデルに物乞いの娘に扮装させ写真を撮っている。興味ある被写体であり、”物乞いの娘”というところが惹かれる。「アリス・リデルのイマージュ」と直接関係があるか分らないけれど、少女に翼があり天使らしいのだが、そうではない。見えざる時間の翼をドジソンはそこに夢想していたのではないか。少女のエロスを隠すこと。秘めたる音を聞き取っている。

つまり何かが起きている。少女の身体に、その思考に、そこで止まり、時間が停止している永遠の少女は、エロスと死というところから隔離された何かがある。ドジソンは言語空間の虚無を存在という生成変化の空間をかたちつくる。そこには無いあるもの”空虚の実体”をかたちつくる。その倒錯を少女の被写体に感じとっている。それが悲劇的であるのか、ワンダーランドであるのか、わたしには分らない。ただ「アリス・リデルのイマージュ」という極めて深い何かを感じさせるのだ。ドジソンにとっては身体を言語の中に封じ込め、逆転させること。倒錯こそが見えるものから、見えないものへの移行であり、言葉に呑み込まれること。それは奥深く落下するアリスである。

少女写真の関連記事はルイス・キャロル「アンドロメダ”ケイト・テリーのイマージュ」で画像掲載しています。

CD05-01B:
画像掲載はコラージュの技法にボカシをいれ色彩したものです。この絵が何故ルイス・キャロルの少女のモデルへとイメージが喚起してくるのか不思議です。もちろんそれ以外のイメージもあります。愛する人を失った悲しく辛い想い。神が彼女にその辛さの代償に翼をあたえたのだろう。それは成就されえぬ愛が天国まで続いているかのような印象など・・。物語とはたぶんそういうものです。何かが顕になる出来事とは、神というイメージが付き纏うのも確か。

画像掲載の絵(CD05-01B)は「不思議の国のアリス」とは直接関係はないが、エロスと死という深層の世界で起きている出来事の恐怖とは、見えないものの身体の変調、空間の変位のことなのでしょう。あり得ないことのありえる物語が「不思議の国のアリス」なのです。それは倒錯の世界であり、苦難の身体化でもあります。言語が身体を呑みこむ恐ろしい世界です。わたしはそのように感じるときがあります。



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