2007年03月
2007年03月13日
マネの絵画「その不可視の構造とは・・」−3
CC12-20
CC12-20
「鉄道」
サン・ラザール駅
1872-1873年
画集より鉛筆スケッチ
(原画はカンヴァスに油彩)
CC13-10a
CC13-10a
「死せるキリストと天使たち」
1864年
画集より鉛筆スケッチ
(原画はガンヴァスに油彩)
前回、『マネの絵画』についてミシェル・フーコーのテクストがどのようなものであるのかわたしなりに感じたその印象を書きました。驚いたことに、ジョルジュ・バタイユも論じていたのです。わたしはそのことを知らなかった。フーコーのマネ論を読んで分かりました。バタイユについてはこのブログでも「死を前にしての歓喜の実践」からイメージを受け、わたしの”ドローイングを掲載”しています。またバタイユの書物を何冊か読んでいるので感ずるところはあります。それにしてもバタイユは、なぜマネに興味をもったのだろうか、不思議だ。その接点はどのようなものなのか興味があります。
多分宗教とは何の関わりもなく「空虚と死」というテーマが日常的な出来事のなかに表象されている。このマネのタブローに興味を惹かれたのだろう。勿論マネの絵に宗教画をモチーフにしたタブローはある。『キリストの嘲弄』、『死せるキリストと天使たち』などである。特に“死せるキリストと天使たち”はキリストがたんに死体としての「もの」として描かれている。かなりショキングな描写である。この視点はキリストをどのように観たらよいか、戸惑いと思考の停止を伴うでしょう。古典的な見方に慣らされている人々にとってはブーイングでしょう。というのも古典的なタブローはその視点に方向性をもたせ、表象を固定した場所へともってゆく、その方向性によってタブローを観る。ところがマネは、方向性はもたせるが、その場所が不在なのである。マグリットの“これはパイプではない”という言表と描かれたパイプとの乖離は「その落としどころ」が不在なのである。この不在の中に内在するベクトルが思考に作用し見させるのです。このタブロー(パースペクティヴあるいは装置)は完全に現代芸術の視点です。思考を作用させる装置なのです。つまりわたしが言いたいのは次のことです。
『思考は快感や苦痛とまったく同じく眼に見えません。しかし絵画は一個の困難を介入させます。つまりものを見る思考、眼に見える形で叙述し得る思考というものがあるのです。「侍女たち」はベラスケスの眼に見えない思考の眼に見える像です。眼に見えないものは、それではときとして眼にみえるのか?それにはその思考がもっぱら眼に見える形象だけから成っていることが条件です。』
この言葉はルネ・マグリットがフーコーに宛てた2通の手紙うちの一つですが、隠された“もの”が見える形にするタブロー(装置)が思考のうちに顕わになる、ということを意味しています。しかしここで“顕わになる”ということが何を意味しているか、説明はできないでしょう。それが迷宮というものです。この不在の中に内在する“もの”、思考の作用によるイメージのベクトルが発生し、速度と大きさと方向性をもつことによって感覚を隆起させる。つまり描かれていはいない描かれる絵を感じることになる。鑑賞者は自らタブローを創らねばならない。マネの絵画は古典絵画のように表象されたのもがある場所へ移行させ、類似的な意見を拒否する。鑑賞者の視点をコントロールはしない。それは宗教画でもなければ、風景画でもない。それはある“もの”の物質性を提示するための宗教画であり、風景画であり、人物画でもある。そのある“もの”とはバタイユのいう、非物質性からなる物質性の「空虚と死」を現前化させるタブローである。この感覚とは神秘的にバタイユ的にいうなら、
『神々が出現する前の時間のない時間についてであり、神々が死滅した後の歴史のない歴史についてである。』
ということである。このことの意味を後に「死せるキリストと天使たち」で述べます。まずは「鉄道」のタブローから観てゆきます。わたしにとってはマネの絵画はどれをとっても思考を刺激する、眼にはみえない見える思考を作用さるタブローなのです。ではその作品の代表のひとつである「鉄道」を鑑賞したいとおもいます。思考をはたらかせて下さい。そしてモネのタブローよりはるかに凌駕し、現代芸術的であることが理解できます。それゆえ敬遠される要素をもっている。当時もそであるが、今日でもそうでしょう。
さて眼に見えないものとはどういう装置か、この不可視の構造をもっているマネのタブローが形ちとしてよく現れているのが「鉄道、1872年(サン・ラザール駅)」という作品です。この絵はタイトルがなければ何を表現しているのか不思議な絵で、しかもタイトルが「鉄道」であっても、汽車は描かれていず、そこにはレールがあるのか、ないのか判別さえできない。というよりむしろ積極的に描いてはいない。かすかに暗示程度にとどめている。それに比べて汽車の吐き出す白い煙は水平線の鉄柵上部に殆どのスペースを割いて描かれている。そしてザブタイトル
・・この白い煙は、まるでデュシャンの「大ガラス」上部の雲の形状のようですらある。見えないものへ、不可視の構造を機能させるために作られた装置、この雲(汽車の煙)が全ての謎のように覆いかぶさっている。それを見つめる少女(モデルは画家アルフォンス・イルシュの娘)、いったいそこに何があるのか。機関車だとはいえ、鑑賞者には見えない。少女の後ろ姿だけがそれを暗示しているのみである。そして左画面にはベンチに座っている女性(モデルはヴィクトリーヌ)がいる。この女性は汽車を見ている少女の母親なのか、あるいは姉なのかも知れないし、他人かも知れない。その関係は定かではない。しかしその眼差しは明確に鑑賞者を見ている。デュシャンの「大ガラス」にある眼科医の証人のようでもあり、タブローを見ている鑑賞者を見ている。女性の膝の上に寝ている小さな子犬だけがその永遠性からくる刹那さ、空虚さから解放されている。結局のところマネは何を描いているのか、依然として謎である。そこにあるのはその仕掛けであり、装置としての強固な物質性である。そしてこの物質性とは雲のかなに隠されている非存在の鏡である。
しかし「死せるキリストと天使たち」はもっと巧妙で何が隠されているのかタブローを見る限りどこにもてがかりはない。鑑賞者が見るものはただの死体となって白い布の上に座っているキリストの像である。あえていえばこの白い布の物質性が、「鉄道」を見る少女の後ろ姿がそれを見ていることを暗示しているのと同様キリストに視線を向かわせ、こんどは「鉄道」のように汽車の吐き出す白い煙を描写することによって、隠された“もの”を暗示させてはいない。より具体的に磔後の死んだキリストの身体を描写している。この描写はリアルでたんなる死体としてしか描写していない。鑑賞者はこのキリストを見て困惑するはずです。なにも語っていない。宗教画でありならそれを超え、復活する身体でありながらそれを放棄し、キリスト像なるものを何にひとつ暗示してはいない。身体自身が不在なのだ。つまりそこに“もの”がありながら、空虚という器を見るだけなのである。何かが隠されている。
「鉄道」では眼に見えない(白い煙のかなに)“もの”の観える思考であり、「死せるキリストと天使たち」は、それとは逆に、眼に見える(キリストという身体)“もの”の観えない思考が発生してきます。そこで鑑賞者は観えない思考を見える思考の不在にぶつかります。ジャック・デリダ的にいうと、“名を除いて”という否定神学的な要素を感じます。これこそが、神々が出現する前の時間のない時間であり、スピノザのいう実態としての情動を誘発する。しかしながら殆どの鑑賞者はその前に不在の陰に挫折する。死体という不快な情動しか喚起されない。それは当然のことであるとも言える。つまり、「鉄道」の白い煙の向こう側は、鑑賞者の視点に委ねると同様、キリストの身体はあなたの心を映す鏡として反射してくるばかりなのである。
今回、マネの絵画に接して観て「鉄道」と「死せるキリストと天使たち」を取り上げました。わたしの感じたその概要を書きましが、他にも「バルコニー」、「オランピア」、「草上の食卓」、「フォリー・ベルジェールのバー」など多数の作品からわたしはインスピレーションをもらい、語り尽くせない程のイメージが湧いてきました。そしてマネの心を感じたいとおもい、わたしはその構図を辿り「鉄道」と「死せるキリストと天使たち」を鉛筆でスケッチしました。やはり素晴らしいパースペクティブをもっており感動しました。あらためてマネは、あらゆる意味において現代美術の始まりであり、タブローに対する思考方法は描くものにとって大変参考になるという発見がありました。機会があれば引き続きわたしのマネ論を語りたい気もします。
現代絵画としての装置:
ジャスパー・ジョーンズの絵画についての画像掲載は別ページに掲載しています。
ポップアートの旗手たち「ジャスパー・ジョーンズとマネの絵画そしてフーコーなど」−8
『』部は「(これはパイプではない:ミシェル・フーコー著)
訳=豊崎光一、清水正」、「(現代芸術の出発:ユセフ・イシャグプール著)
訳=川俣晃自」を参照