2007年02月

2007年02月23日

マネの絵画「結局フーコーは何も語っていない」−1

CB24-10A

川辺の風景

 

 

CB24-10A
川辺の風景

 

 

 



 

CB23-A1

海辺の岩

 

CB23-A1
夕日の海辺の岩

 

 

 

 

 

 

CB23-A2

校内の林

 

 

CB23-A2
校内の林

 

 

 

 

 

 

最近、ミシェル・フーコーが論じた『マネの絵画』というタイトルのついた本を偶然見っけたので購入してみました。多分フーコーの著作でなければ購入はしなかったとおもう。すぐにマネの画集を2冊購入し何日も何日も見続けました。そしてフーコーの論じているテクストがどのようなものであるかわたしなりに思考し、感じたことは、何も語ってはいない。それはフォーマリズム的な批評で、とりたてて驚くようなことは書いていなかった。

しかし、それは表面的なことでフーコーの思考体系がマネという絵画のなかに生きたかたちでその地層が存在している。そのことについては堆積した形と地層の形式しか語らない。なぜそのようなテクストになるのか、その意味はフーコーしか分らない。このわたしですらこれは大変なことになる、一生涯付き纏う問いがそこにはあると直感する。

「知の考古学」、「言葉と物」、「系譜学」、「臨床医学の誕生」e.t.c・・このように、自らが確立したこの厖大な知的体系に匹敵すること以上の何かを、そのエクリチュールをこの「マネの絵画」に注ぎこまねばならい。・・という暗黙の感じをもっていたに違いないと推測する。書くことより沈黙を選び、マネの絵画にあるものを密かに想い続け死んでいった。という気がするのです。このことを考えるとマネ論は表層的でフォーマリズム的なスタイルをとったのだろう。

解説は静かで、「・・私はほんの少々疲れています。」という出だしで、そして控えめに「私は門外漢ですから・・」という謙虚な気持ちで、はじめに19世紀の絵画史的な概要から語っている。この概要はすでに現代絵画の概念を的確に指摘しているのには驚かされる。それは、ただ技法とその視点だけなのですが、描く者にとって大変暗示的なのです。

・・“キャンバスという空間”「タブロー」が、マネはどのように空間を表象したか、という点です。これこそすべてという出だしなのです。そしてスライドを映して解説してゆきます。わたしは読み終わって深い問いが次から次へと頭の中によぎり、ひとつの現代美術の成立に立ち会うような、奇妙な体験に近い感動を覚えました。この感動を追い求めると、マティス絵画の旅へといった、わたしの思考過程を書いたことと同じようになると感じました。フランク・ステラやミニマリストたちのタブローであるより、むしろジャスパー・ジョーンズなのです。不可視の構造という意味でそうなのです。物質性へということであるならステラのいう。

『 What you see is what you see 』

なのですが、フーコーの思考している対象は物質性へと移行するイメージの構造をつくり出す諸々の装置の背後、表象が問題なのです。そうするとわたしにとってジャスパー・ジョーンズへと接続されるのです。このことを論じてみようとおもうのだが、実際に作品(装置)をつくって見たい気もしてきます。そんなふうにおもわしてしまうフーコーのマネ論は刺激的です。

 

画像掲載の解説
CB24-10Aは、まだそれほど印象派を意識して描いてはいませんが、油彩をはじめるとは、わたしにとって印象派からです。このときはシスレーが好きでよく画集を見ていました。この絵は、どこかの雑誌かポストカードに掲載されていた絵をわたしが模写したものです。だれの絵か、あるいは写真なのか、今は覚えていない。18歳のときに描いた絵です。

CB23-A1は、わたしが絵画を学び初めた20才頃の作品です。まさに印象派から学んでいるのがよく分ります。当時はピサロやシスレーが好でした。モネに学んでいたのは筆のタッチや色の配分でした。マネの良さは、まだわたしはよく理解していませんでした。文明というもののある言説を、エピステーメーを感じ、それを思考する能力がなければマネを理解することは難しいでしょう。もちろんそんなことなど、どうでもよく、絵からストレートに感じることはできます。しかし絵画は思考です。描く者にとってはそうはいきません。視覚と思考の戦いがあります。

CB23-A2は、後期印象派へと進んでいることがわかります。22歳の時に描いた絵です。これから様々な方向性に発展する要素がすでにこの絵画に見えています。キュビスムや構成主義、モンドリヤン、アンフォルメルなど、もうすでに現代美術の思考方法が直感で理解できているときでした。わたしは早く美術史からぬけでたかった。その後何枚か描いて、すぐにデュシャンの絵に惹きつけられた。そのときもデュシャンを分っていた訳ではなかった。ただもの凄く美しかった。そこでわたしは「大ガラス」の模写をおもいついた。このブログに掲載しているものがそうです。
またこの絵をよく見るとピカビア的な、分子状になった物質的(「泉」1912年)なメカニズムへ発展する要素もすでに含まれています。ピカビアは、これから機械的なメカニズムの作品へ移行しています。デュシャンも後に「大ガラス」の作品をつくっています。このように「校内の林」は様々な方向性をもった作品です。しかし、この作品には抽象表現主義の方へいく要素もありますが、当時のわたしは絶えず具体的なかたちを求めていたきもします。抽象的な表現は感情のイメージへと接続され易い要素があるので要注意です。現在でも抽象的な表現は避けています。具体的な物質を表現に使うことを心がけています。但し、その物質が何を意味するかは、無意味の発生装置を考案しなければならない。

 

上記画像はわたしの絵画歴の一部を掲載しましたが、マネを理解するにはある程度描いている人にとっては思考を作用させる絵画であることが分ってきます。マネ自身は自作についてあまり語っていないようです。もっともわたしがそれほど「マネの絵画」について知識があるわけではありません。今回、印象派に多大な影響を与えたマネということで、わたしの印象派ふうの初期の油彩画を掲載しました。描くという行為とその対象との関係を意識しはじめた時期です。

わたしにとって絵画は描くことではなく、思考し表象の彼方を発見してゆく視覚化なのです。その意味で「マネの絵画」は驚くべき表現をタブローのなかにもっています。後になってそのことが段々分ってきます。「マネの絵画」は描く者にとってひとつの神秘です。その意味でモネよりはるかに重要です。

現代絵画としての装置:
マネの絵画とジャスパー・ジョンズの絵画としての装置は別ページに画像掲載しています。
ポップアートの旗手たち「ジャスパー・ジョーンズとマネの絵画そしてフーコーなど」−8













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