2006年12月
2006年12月18日
Joel-Peter Witkin [ DISCIPLE & MASTER ]
AK2709-YELA3
「磔のキリスト」
ジョエル・ピーター・ウィトキンの「DISCIPLE & MASTER」の写真集を見ていると、この絵「磔のキリスト」をエンディングのページに置きたい気がします。ウィトキンの写真は、わたしにとって宗教画なのです。ウィトキンの写真にはなぜか「神」というイメージが付きまとう。あんなにも残酷でグロテスクなのに。このようにどうして宗教的に感じるのか不思議だ。
この絵の描写元は、キリストの肉体から血を流しているもので、あまりにリアルに描いてあった。その画集を見てわたしは強い印象を受けショックを感じました。それを逃さぬよう、いっきに流れるように鉛筆でドローイングしました。素晴らしいできばえであった。しかし今ではどの画家の絵か覚えてはいない。デッサンだけがのこっている。
放置したままの、このデッサン画の線のタッチが生き生きしていたので、中世の宗教画を想起させたいとおもいつき、再現してみようと考えた。そこで画像処理し、本物の金粉で色を付けたようにしてみると、線のタッチとピッタリ合い、金のプレートで作ったレリーフのようになり、緊張感と光りを感じる聖像となってイコンのように仕上がった。
わたしは無宗教でキリスト信者ではない。しかしながらウィトキンの写真集を見ると、宗教的な精神性の深い何かを感じるのです。今日では、「神」という概念がどのようなものであるのか、全く想像できない。中世のような宗教画でもないし、仏教では「神」という概念はない。
かろうじてイヴ・クラインやデュシャンの絵をみて「神」ということの意味が別な方向から見え隠れしている。それと同じようにウィトキンの作品を見ると感じるのだ。わたしは中世の人々がどのように「神」を感じているのか知らない。
デカルトやスピノザが論じていたところの「神」の存在から、「神」の不在へといく声が、微かに聞こえるのを感じます。それに変わるものは何か、という問いが芸術なのではないか、こんなふうにウィトキンの作品は提起しているのかも知れない。それにしてもなぜあのようなグロテスクな作品をつくるのだろうか。