2006年11月

2006年11月27日

忘却の鏡「シミュラークル」

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忘却の鏡A

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 


 

「鏡の前に暗示されたアクタイオーン」

・・そんなこととは知らずに人は生まれたときから忘却していく。記憶が消去されるに従って言語の力を身につけ、鏡の姿を歩きはじめる。対象が対象を産み、トポロジーの鏡となり向こう側を自分の存在と化する。ウォーホルの鏡のように、かくして自分がいないことによって認識する運動の彼方へ。ブラックホールは存在するというエンパイアステートビルを夢見る。ただそこに在るというエンドレスな撮影。それは対象が無限の投影となった姿をみて生きるシミュラークルとなる。

そのとき、環の中に影の翼が己の上に現れる。眠りについているときに限って忘却の回廊を歩く。太陽が沈んだ翼の中で反転された蛍光灯の灯りで言語の意味を無化する。そして忘れ去られた星々の言葉を夢想する。マラルメ的ではなく・・それは暗黒のなかに浮いたシルバーバルーンである。即ち、シミュラークルとは進化するウイルス化現象の身体をもった呼吸する肺のように・・



2006年11月24日

Nicolas De Stael「ニコラ・ド・スタール」

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Spacetime3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       D-140GreyA
Space-Time Forms 3


「ニコラス・ド・スタールへ」

あまりにも美しすぎる
天から降りてくる美をとらえれば、
天へ上る精神がではじめる。

水平線と空、そこに精神が飛んでいる。
軽やかな色彩と自由な翼。

美は人生の苦を消去する。
感覚の泉は透明な色彩を用意する
赤、青色、灰色など。

そして存在の大きな黒いピアノと
非存在の配色としろい色、そして孤独。

見えないものの影は大きく
立ち止まることが濁ることであるなら、
いつも旅立たねばならい。「何処へ、」

---それはかもめの群れが
逝こうとしている彼方へと・・

 

上記の文はニコラ・ド・スタールの絵画から感じたことを詩的に書きました。スタールの絵に潜んでいる精神と病は、美でもあるけれど、わたしにとって危険なアーチストであります。わたしは接近してくる美に対して拒否する。最も接近してくればの話ですが、イヴ・クラインもそうです。向こう側でもなく、こちら側でもないもの、その危険性を避けるための中間地点をわたしはマティスから学びました。鑑賞するぶんにはいいのですが、描き参加する行為となると、その必然性から逃れることができない人のみがなし得る宿命です。そんなものを背をっていないわたしは、美しいという理由だけで接近はしない。

・・失うことによって得る天使の感覚は人生を削る作業のようにもおもえる。飛んでしまったら二度ともどってこないニジンスキーを見るにつけ、神は見ない方がいい。また見れる人種は限られている。与えれた人だ。見ようとしても見れるものでもない。見ようとすると盲になる。アクタイオーンの悲劇をどこまで感じているか、予知できるかのことでしょう。それが芸術家の才能です。わたしは、この才能から離れて貨幣経済の才能をもちたいとおもうのですが、わたしにはないようです。

・・どうやらこのニコラ・ド・スタールは、ゴッホの「青い空の下の麦畑、1890年」と同様あの無限への逃走が精神の救いであるような世界へ行かざるを得ない宿命を背負っている。---そういうことを深く考えさせる画家であるようです。つまり才能とは宿命であり、運命を感じさせる人種のことだ。すなわち天才ということです。わたしが気にとめるアーチストはそういう人である。



2006年11月23日

時空のはじまり「Space-time forms」・4

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SpacetimeB-1

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「Space-time Forms 4」
ソネット----沈黙

ある種の質---ある種の合成質が存在する。
それは二重の生をもち、その故にそれは
物質と光とから発生し固体と影とにおいて
具現化されるあの双子のような本質の典型を
なしている。二つの面を持った沈黙がある
---海と浜辺--- 肉体と霊魂。

草の新たに生い茂った淋しい場所に
棲んでいるものがある。神の恵みと 人の記憶と
涙に満ちた知識の力は それを恐ろしいものでは
なくしているのだが、その名前は「もはやない」
それは沈黙の化身だ こわがることはない!
その身に 邪悪な力をそなえていないのだから。

だが 何かさし迫った運命(時ならぬ因縁!)に
導かれてその影に(人跡未踏の荒涼の地をうろつ
きまわる名なしの精に)出くわすことになった場合は
神に 自らをゆだねるがよい!

 

ポー詩集「訳=入沢康夫」参照



2006年11月21日

時空のはじまり「Space-time forms」・2

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Spacetime1

 

 













 

 

 

「Space-time Forms 2」
ユリイカ

『・・もうおわかりかと存じますが、私が「無限の空間」なる語句を用いても、不可能とわかり切った、絶対の無限なる観念を持って、と読者に御願いいたすのではございません。私の意味したのはたんに空間の「考え得る限りの最大の広がり」--動揺常なき想像力につれて、伸び縮みする、影のごとく揺れ動く領域、であります。・・』

 

ポオ全集3巻
エドガー・アラン・ポー:「ユリイカ、訳=牧野信一、小川和夫」参照



2006年11月20日

時空のはじまり「Space-time forms」・1

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Spacetime

 

 

 

 

 



 



 

「Space-time Forms 1」
ユリイカ

『・・さて、私の一般命題とはこうであります。---最初のものの根源的な単一状態には、次代のすべてのものの続発すべき原因が潜んでいる、と共にそれらのものの必然的な破滅の萌芽も潜んでいる、ということ。この観念を例証するために私の提案したいのは、精神が独自の印象を真に受け入れ知覚し得るような宇宙を通観するということです。』


上記の言葉はエドガ・アラン・ポーの『ユリイカ、物質的ならびに精神的宇宙についての論文』の一部を抜粋して掲載したものです。わたしはポーから得たイメージを挿絵として描きたいとおもった。前回掲載したこともポーに関してでした。作品は習作で、何通りか描いたもののひとつです。

運動という概念は外部観測の物理的事象を記述しているひとつの形式に過ぎないのです。それは普遍的要素ではありますが、決定的ではありません。しかし文学でそれを捉える時、内部観測となり、その妄想と想像で天体の運行に参加するのです。

時空のはじまりとは、妄想であり、平行線が交わり非ユークリッドの無限の世界へと思考が羽ばたく感覚的実在となるのです。絶望の果てに、そういう世界にいかざるをえないポーをわたしは畏敬の念で尊敬するものであります。その気持ちで挿絵らしきものを描いてみようとおもいました。暗黒の空間と、その大地に四次元の痕跡の影としてその星々の運動の軌跡を標したい。

 

ポオ全集3巻
エドガー・アラン・ポー:「ユリイカ、訳=牧野信一、小川和夫」参照



2006年11月17日

エドガー・アラン・ポーとゴーギャンそしてマラルメなど

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時計

 

 

 

 

 

 

 


 

「Never More」

『・・鴉は答えた、もはやない
そして鴉は決して羽ばたかず、
尚もうずくまる、尚もうずくまる、
わたしの部屋の戸の真上の、
色蒼ざめたパラスの像のその上に。
そしてその両眼は夢みつつある
魔神の姿をさながらに、
そしてランプの灯は流れるように
床の上にこの鳥の影を落とす。
そして床の上に漂いつつ横たわる
その影から、私の魂の遂に
逃れることは---もはやない!』

 

上記の詩はポーの「大鴉」より最後の部分を抜粋(訳:福沢武彦)したものです。この「もはやない=Never more」という言葉は不思議な呪文のような言葉です。わたしはこの言葉が・・何処から聞こえてくるのか、知りたくはありません。もし暗い闇からやってくる死者の声だとしたら。しかしこの言葉は何人も避けることができないある不思議な力をもっている。

・・これは星雲の誕生と消滅を暗示するひとつのドラマであり、天体の彼方からやって来る振動音であるようにも感じる。その宿命の声を訊いてしまったポー、そういう言葉であると感じる。絶望と挫折の暗い運命におかされた人のみがなしえる、あの宇宙の星座を記述することが可能となる。それは「神の声」を書く資格がポーにはあるということです。

あまりにも過酷な暗い闇の世界に踏込み、孤独と妄想の果てに到達する厳密な思考を確立せずにはいられない。そういう絶望の世界をポーは希望の形而上学に変える。この星々の光りを、ついには精神に宿らす神の魂をもつに至る。それゆえポーの「ユリイカ」には深くわたしを励ましてくれる。それはポーから天体の光りをもらい、生きる力を授ことなのです。

ゴーギャンもなぜポーに惹かれたのだろうか。マラルメがポーの詩を訳して挿絵をマネが描いています。このマネのリトグラフをゴーギャンは気に入っていた。すでにマラルメの訳以前に、ボードレールの訳を読んでポーを知っていた。しかし何故ゴーギャンはこのポーという詩人に興味をもったのか、一つのミステリーだ。しかも「Never nore=もはやない」という運命的な言葉に捕らわれたのだろうか。横たわる裸婦が描かれているキャンヴァスの左上に”NEVER MORE"(ネヴァーモア、1897年)と文字で書きしるしてあり、その右側にセザンヌ風のタッチで鴉を描いている不思議な絵だ。運命を予感しているのだろうか?誰の・・というより人類の。

・・そしてマラルメもどうよう虚無に到達したあの壮絶な詩「イジチュールまたはエルベノンの狂気」とはどこかでポーの詩と通じている。このようにポーにおける「ユリイカ」の精神的宇宙論とマラルメの詩とは同じ星座に属している。この2人ゴーギャン、マラルメはポーの詩を通して大鴉の「もはやない」というその運命に、天体の運行に身をゆだねた人種だ。

この同じ迷宮に属する言葉、『・・我れが、あなたがたをふたたび無に沈めようとしているなどとおもわないように、・・』というマラルメのフレーズと『・・床の上にこの鳥の影を落とす・・逃れることは
—もはやない・・』というポーの言葉の意味は、謎の問いであり、返答はない。そしてゴーギャンの言葉へと接続される。

『我々は何処から来たのか、
我々は何者か、我々は何処へ行くのか』

この深い問いへ。
いったい誰が解答をみいだすというのであろうか。
問い続けることが生きることであり、信じる以外にない。

「何を・・

『・・もはやない』という問いの彼方を、砂漠を歩きながら神の向こう側へと行かねばならない。



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