2006年07月

2006年07月20日

アンリ・マティス絵画の論理と構造「水浴をする人」・1

BG18-30Bblue

水浴をする人E1

 

「水浴をする人」
BG18-30Bblue
水彩で描く


(原画はカンヴァスに油彩)
1909年
92.7 x 74cm  New York,
The Museum of Modern Art

 

 


わたしにとってマティスの描いた「水浴をする人、1909年」は<原理としての絵画>であり、わたしの最も好きな絵のひとつである。というより存在論に向かわせる神話であり、わたしにとっての教科書なのです。それはマティスの造形思考の根幹を成すものであるとおもいます。残念ながらこの絵は、殆どの画集には掲載されていません。あまりにシンプルで原理的な描写のせいか、見方に途惑うようです。しかしこれこそマティスの本質がよくでている作品なのです。セザンヌがそうであるように<存在の根源>を見事にとらえています。

こういってよければ、造形思考というより、宇宙を微分化した存在論であり、マティス哲学の運動方程式であり、(水浴をする人)という命題をもとにしてあらゆる方向性へと展開できる公理でもあります。この作品はすべての無駄を削ぎ落とし、1つの切片を、瞬間を捉え、現働化された物質の存在が現在という定点をもたない流れの瞬間速度と無限の潜在性をもったもの、持続の顕現化したものであると同時に、そこに現れない未使用の時間を先取した潜勢力をもった“かたち”という形態をとる。

それは固定され確定したものではなく、生成変化しつつある物質の変位量の瞬間を見せる絵画でもある。したがって作品はある不安定さを感じさせる要素があります。この不安定性こそ、そこに本質が潜んでいます。ピカソ絵画のように自信にみち確定された絵画表現とはまったくちがいます。その物質的な捉えが独特です。マティス絵画には外延的なもと内包的なものとのスリリングな緊張感があります。これは物質の運動ということの捉え方ですが、マティスのデッサンにはそのプロセスを見せるものがあります。「水浴をする人」の絵はその意味を明確に表現しています、それは現働化した物質の瞬間的な形態を、微分化したものを見事に捉えています。具体的には次のようなことであるとおもいます。

・・これは物質そのものへという意味ではない。潜在性が存在を措定するのではなく、生成を形成する本質的ベクトルへと導く存在としての差異であるという意味である。差異とは存在のことであり、存在とは差異のことであるとも言える。しかしこんなことよりマティスの「水浴をする人」を見れば、いかにこの原理的なことを直感的に表現しているか分かります。この直感とはベルクソン的な意味であり、方法としての直感のことである。それは苦心して厳密に構成されたひとつの方法です。

またわたしはフィリップ・ソレルスの「セザンヌの楽園」のなかにマティスが語ったというエピソードふうに書いてある箇所をおもいだす。マティスが所有しているセザンヌの「水浴をする女たち」を前にして彼は、その本質をマティスの証言のように語らせている。

・・絵画というもの自体が水浴であり、絵は泳ぐのさ

と、セザンヌの絵を見ながらマティスは語った、という言葉で表現しています。これは「水浴をする人」と水との関係、物質と空間のことであり、存在に係わる身体性の問題でもあります。そして意識と空間への本質的問いでもあります。ひとつの神話をつくる創造的絵画へと進みます。それはわたしにとって「原理としての絵画」なのです。そして「・・絵は泳ぐのさ」ということは生成変化の真只中にいるということです。

ここで「水浴をする人」についてわたしが感じたことを書く前に、その論理的な構造の要約を最初に書きました。マティスの絵は直感的に掴めるように究極的な構図(構造といってもよいが)をもって表現しています。私たちがマティスの絵に接するとき、そのスタイル自体が感覚を想起させ時間変位の美を味わう喜びをもらいます。つまり生成変化の感性を味わうことで、この論理性(構造)は機能によって解消され、理屈抜きで鑑賞できる分けです。

 

しかしこの論理性をもって接するのと、ただ鑑賞するのとは劇的に変わってきます。今回とり上げます「水浴をする人」は、ただ鑑賞するだけでは見えてきません。直感まで到達する訓練と厳密な規則を何らかの方法で発見してゆく思考を鍛え上げる努力が必要だと、この絵を見るにつけ、マティスから云われている気がします。

 

絵画は直感に到達するために、
論理と思考を鍛え上げねばならない

 

といっているのです。当然わたしは絵を描くものとして、その論理的な構造なしにマティスの絵を学ぶことはできません。天才であれば論理的な構造が直接に直感というかたちで顕現化しますが、マティス自身苦労してその方法論を生涯追究しています。冒険と不安をセザンヌに精神的なよりどころとしていたほどですから。その意味で直感とは苦心して構築された論理性の上に始めてでてくるものなのです。このことをわたしはマティスから深く学びました。この連載を記載していなければ、わたしはたんに自分の感性に頼って独断で世界を解釈していたかも知れません。

 

このようにマティスの絵はきわめて論理的な構造もっています。マティスもセザンヌから絵画の論理的な側面を学んでいるはずです。デュシャンが最も重要な画家としてマティスを上げているのは理にかなっている。わたしもそうおもいます。このことを踏まえて「水浴をする人」の作品について書いてみます。この絵に込められたメッセージは深く謎のような問いをわたしに突きつけます。わたしはそれにシビレ存立平面の彼方へと思考を向かわせます。もちろん芸術の見方はひとそれぞれちがいます。またその面白さでもあります。わたしが絵を描く理由もそこにあります。ではその「水浴をする人」の彼方に、世界に入って行きましょう。

 

『・・背景色は全体を深みのあるブルーで塗られています。原画では、ブルーの空間色の上に筆タッチの痕跡を残す描写によって、人体の運動とその潜在性を表象的(タッチの痕跡が暗示します。マティス絵画のこの技法はセザンヌから受け継いでいるとおもいます。もの凄く重要な要素です。「差異」を発生させる要素の技法になっています)な方法で表現しています。

 

また、足元の水の流れは生成変化の瞬間的な微分係数的なその切片を暗示させている。マティスの技法にある塗り残しや物の輪郭線を意識的にずらし、ブレタ何本もの線を描くのは、定点として固定化された物質の表現を措定しないためである。この方法は物質の本質を捉えようとする絵画哲学でもあり、ゼザンヌから徹底的に学んでいます。時間とともに変化する何ものかを捉える。意識現象と物質の顕現化を、その究極を追究していたのがセザンヌです。

 

更にジャコメッティはそれを先鋭化させ見事なデッサンをわたし達に見せてくれます。彫刻では、ついには物質が消えそうになるまで追い求める。極限値に近い形態を表現している。ジャコメッティの立像は不思議な空間を感じます。その物は現れようとしているのか、消えていこうといているのか、存在とは一体何者か。という「スフィンクス」の謎を感じます。この人物(水浴をする人)の形態をジャコメッティのスタイルで彫刻化すれば、そのまま立像として成立つ構成要素(構図)をもっている。空間の中に存立している人物像の不安定さこそ生成変化の真只中にいる「時間変位の量」として感じる「差異」そのものとして現働化する。

 

また「水浴をする人」ではマティスの特徴でもある平面的(空間処理が平面的であるが故に時間形成を促す内在性が彫刻化「見えない彫刻」へと変位する)な表現を大胆に取りいれている。特に人物像は同一色で塗られたフラットな描き方である。それがいっそう立体化する。外部の存在とは内部の存在でもあるというマティス絵画の醍醐味がそこにはあります。「森の中のニンフ、1935〜43年」は意識内部と現存在の存立が同時並行的な平面(プラン)へと進む。存在の構造を物質的な側面としてではなく、内部の意識現象とその現れかたを追究しているマティスの論理は間違いなくセザンヌ的だ。詳しくは次回かきます。

 

この平面性は全体の空間をイメージとして捉えている。表象としての空間が意識の空間性へと置換され、厚さ、深み、時間、拡がりへと生成される。足元を見て欲しい、そこだけ見ると膝まで浸かり、まさしく川の流れに向かって立っていることを暗示されるため表象的に緑色で楕円の図形を描いている。足元を見なければ、水の中にいるイメージより、大気のなか中にいる人物像を想起させる。

 

この意味は、足元の水の流れが現実的なリアルな空間へとイメージが付着しないよう幾何学的な抽象表現に留めている。色彩も単純化し・・の方向へ時間軸が示す方法としての記号(時間変位を想起させる装置として水の流れを記号的に描いている)に止め、全体的な宇宙の構造を示すため、水と青空(空間)を区分しないことによって表象的な空間構造へとイメージを形成させる。このことによって絵は抽象機械へと発展し、イメージが宇宙を喚起させるスケールの大きい無限大の空間へと接続される装置として作動させている。

 

また「水浴をする人」を見ますと人物は前進しようとしているのか、あるいは後退するのか、留まっているのかは判断できません。まさにその存在の不安定さを生じさせます。そのことによって全体と部分(人物)の関係が物質としての現れとして、無限の宇宙の中で飛躍する物質の瞬間速度を見るおもいがします。これこそがマティス作品のダイナミックさであり、凄さを見ることになります。この作品は、わたしにとっては神秘的であり、哲学的でもあり、あらゆる可能性を秘めた素晴らしい作品です。

 

・・しかもすべての存在に対する見方の定理として、わたしに提示します。その作品がこの「水浴をする人、1909年」なのです。



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