2006年05月

2006年05月18日

アンリ・マティス「(ダンス)その構造と場所・1」−5

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ダンス

 

BD03-01_2C
「ダンス供廛┘襯潺拭璽献緘術館
1909/1910年
(ダイアグラム的にスケッチ)

 

 

 

『前回はマティスの「音楽」の構造について書きました。今回はダンスについて掲載します。「ダンス」の作品は2点あります。1点目はニューヨーク近代美術館にあり、2点目はエルミタージュ美術館にあります。わたしが画集よりノートにスケッチしたものは2点目のエルミタージュ美術館のものです。

ニューヨーク近代美術館にあるものは絵としての空間処理を意識した構成美を感じさせます。5人の人物がダンスをしている運動状態を捉えた、静的な絵画空間として描写しています。絵画としての強度を求めたマティスの描写力の美しさやセザンヌ的な空間意識がのこっており、緑の島は領土化への地層隆起としての形態にまだ留まっています。絵画空間的には調和のとれた、たいへん美しい作品です。

一方、エルミタージュ美術館にある作品は存立平面へと身体が移行してゆき、見る者にとって、視覚から思考へと接続され、絵画を分解し、分子状の回路へと誘います。わたしをうっとりさせます。思考の快楽放射を生成させるというやつです。この深い哲学的な方向性がより明確にでています。平面的な表現であるけれども、立体的(彫刻的な意味も含めて)な思考を感じさせるのはマティスの特長です。意識現象を、(空間概念あるいは物質と記憶)を巧みにキャンバスにとり入れる技法は凄い。このマティスの論理的思考とは、外延量(絵画空間)を内包的な要素にとり込み解体(差異)させ、両者の区分を分子状にするマティスの方法論でもあります。

 

そのことによって、イメージは深さとより厚みが増し立体化し、絵画に空間概念を形成させる(思考の潜在性が立体化させる差異として)マティスの驚くべき論理性が作品のなかにあります。その論理は、あの単純化された形式として表現されています。論理を達成するために、思考錯誤しながら冒険し、探究心の真摯さには、あたまがさがります。いつも傍らにセザンヌの絵を置いて、精神的な支えにしていたのはよく理解できます。きっと挫けそうになったことがあるのでしょう。マティスは言っています。

 

「もし、セザンヌが正しいなら、私は正しい」

 

と、この言葉はいかにセザンヌを心の支えにしていたか分かります。わたしが今回マティスを連載している理由はそれと同じことです。まだ大作はつくってはいないけれど、思索行為の真只中ですが、アイデアがあれば、デッサンはしています。このサイトにも一部掲載はしています。「メタモルフォーゼ」がそうです。社会との関係を表現しようとすると、たちどころに「病的な絵画」に陥ります。わたしはそれを避けるために「抽象機械」のみダイアグラムとして表現しようと考えています。「マティスの抽象機械」を学んでいます。思索ノートとしてこのサイトに書いています。今回は「ダンス」のことについて書く予定でしたが、そのまえに少しだけでもマティスの論理的な思考を感じるといっそう興味がでてきます。わたし自身こんなに深い哲学的要素があるとは想像していなかった。のめり込む程凄い。デュシャンがマティスを重要な画家であるというのもうなずける。

 

いずれ詳細に論じます、この連載の最終回あたりに予定はしている。それもピカソと比較して論じようと考えている。何故ピカソはシュルレアリスム系に類似したところがあるのか、象徴的ではあるが何故マティスはシュルレアリスム系の手法にはならないのか、この相違は絵画表現の本質的なスタイルの相違であると同時に、根本的な物質の存在論へと発展してゆきます。その哲学の相違が作品に現れています。ピカソはマティスの作品を見て、

 

「あなたの作品は不安定すぎる」

 

と言った。あの「青い裸婦検1952年」など確かにピカソが指摘したように不安定に感じる。わたしはこの不安定性こそマティスの本質のひとつであり、哲学的深さを感じる。その魅力であるとおもっている。そこから派生して無限のイメージが湧いてくる。それは潜在性であり、生成変化の思考を差異として現働化させている。それがマティスの作品の魅力です。わたしにとってマティスとは「差異」そのものの画家である。そこからすべての物質、有機的なもの、無機的なものを超え普遍性へと接続され、宇宙圏の無限の抽象機械を想起させる。デュシャン的なものへと接続される要素を、エロティシズムをマティスの作品から感じます。

 

それに比べてピカソは断定しいている力強さを感じますが、その力強さがわたしにとって弱さの尺度として感じてしまう。時として虚無というものが見え隠れする作品もあります。逆にいうとそれだけ人間的であるといえる。そのことが多くの人々に愛される理由でもある。以上のことを連載の後半に論じようと考えています。わたし自身マティスのことを書き始めてからいろいろな発見があり、今後作品をつくる上で多大な影響を受けることをある意味で楽しみにしている。作品からインスピレーションを受け、身体のなかにマティスの思考がどんどん浸透してくるのが分かります。これほどまでマティスの作品が哲学的で、しかも感性豊なものであるとはおもってもみなかった。作品を見る度に言葉が次々と出てくる。この言葉を抽象化し、素材を発見し、精錬して作品までもっていくための思考作品のつもりで書いている。わたしは誤解を恐れません。もともと作品はおおいなる誤解から成立っていますから。

 

今回は「ダンス」がテーマなのですね。マティスの哲学的な平面の方向性へ脱線してしまいました。いつも考えているからでしょう。最終回に用意していた内容を一部記載したまでですが、ある程度わたしがし考えているマティスの哲学を知ってもらうのも、いいかなとおもい、あえて削除せず記載しました。

 

今回記載する内容は「音楽」から「ダンス」へと移行するリトルネロについて書く予定でした。その概要は「音楽」より更に、あらたなアレンジメントによって脱領土化へと進み、外へでるために輪となり手を組み、存立平面へと移行するリトルネロとなる。緑の大地は、「音楽」より島はいっそう円くなり、単純化され、ダンスをする5人の人物は躍動する形態となっている。マティスの空間意識は脱領土化への開かれた地平へと向いています。「ダンス」は永遠回帰という哲学的エレメントを感じさせる作品となっている。そのようなイメージへとわたしを喚起させ、宇宙的なスケールの大きい天体の星座へと導きます。』

 

尚、余談ですが、マティスの論理的構造を端的に表現した作品があります。この作品は、あまりにシンプルで原理的な構造のみを表現しているせいか、面白味に欠けている作品のようにおもわれています。殆どの画集には掲載されていません。もしあなたがその作品を見て、面白味のない作品と判断し、無意識にスルーしているかも知れません。もう一度じっくり観て下さい。おそろしく哲学的な作品であることが分ります。そういうわたしも最初は見逃していたのです。マティスにのめり込み、時間が経つにつれてその凄さを感じるようになったのです。その作品名は下記の通りです。詳細に論じています。

 

水浴をする人、1909年

 

 

今回は「ダンス」がテーマですが、「ダンス」のテーマを永遠回帰にしぼって、ディオニュソスとテセウスについて例をあげ、何故マティスは晩年「王の悲しみ」を描いたか、その哲学的なことを書く予定です。

 

*マティス関連で:

はじめてこのサイトに訪れた方は『アンリ・マティス「メタモルフォーゼ」−1』を読むことからお奨めします。 「有人彗星」管理人



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