2006年04月

2006年04月25日

アンリ・マティス「物質と記憶」−2

BD25-01

マティス窓の方へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

アンリ・マティスの方へ:「窓辺の植物」


『・・わたしはマティスによって表現することを学んだのではなく、表現しないことによって、あのキャンバスに塗りのこされたブロックが生成変化させる装置としてのイマージュを学びました。それは内在平面をコントロールさせているアイオーン(時間の神)に近い何かをマティスの絵画から感じます。カオスから侵入してくる微粒子を共鳴させることによって、色彩にハーモニーをもたせる、それがマティスの色彩の美となって表現されています。

それとは反対に暗黒の世界があり、この光りの裏側を見せるマティスのカオスとしての微粒子を表現したものがあります。「コリウールのフランス窓、1914年」や「泉のほとりの女、1917年」にある暗黒色に塗られた空間です。目に見えない闇からやって来る不思議な世界にわたしは捉えられた。何かを表現しようとしているより、何かを表現できない、宇宙の根源的な暗黒の振動音のようにわたしは感じます。それは共鳴できえぬ、ある実体としての虚無のようにもおもえた。カオスの侵入を防ぐてだてはない。その刹那さを「窓辺のヴァイオリニスト、1917年」に感じます。

・・この闇の世界を、あのルドンが暗黒の色彩とでもいえる、モノトーンで世界を表現していたように、わたしはマティスが色彩の形態をもたせる前の物質の呼吸を支配している、無音の世界、無彩色のいわば「マティスの抽象機械」を表現しようと考えた。従ってこの作品は絵画ではなく、絵画の作動原理ともいえる。この空間(絵画)に、この物質にどのような色を与えたらよいか判断できないように単色にした。ブラックの明度で物質を暗示することであった。しかしこれはモノクロ写真のようにリアル空間を表現するようなもではなく、架空の世界であような空間を設定(表現)した。写真の世界から遠ざけねばならない。空間をセレクトし表現の問題に移行する写真の方法論を避けることである。ここでは表現することが目的ではなく、表現が形成されてゆく時間現象を問題とするもの。

従って、色彩豊なリアル空間から剥奪された色彩の退行現象のような時間・・内在平面の思考の反転現象を観ること。・・・のような出来事を見ること。それはジャスパー・ジョーンズの反転現象のようにではなく・・別次元へ、内在平面の発生装置を、「マティスの抽象機械」をつくろうと考えた。それは強度をもたせない絵画、結晶化が進む前のイメージの結晶を現出させるダイアグラムのようなもの。マティスの塗り残しによって脳内に化学反応を起こさせ、絵画を完成させる方法を応用しようとおもいつた。

それは表現しえないものが、脳内の化学反応によって表現させ、現働化させる。2重作動させることによって物質と非物質を共存させる。つまり「物質と記憶」を、時間変位を瞬時に起こさせる臨界点を創ることを試験的に作品化してみようと考えた。それは、表現はしているけれど、それ自体に留まってはいない。かといって別の世界を表現しているわけではない。現存在としての潜勢力をもたせることにある。画面(絵画)に2重作動をもたせることなのです。

画面には色彩がないことによってある種の不安定(生成変化)さを与えます。それは画面を見て色彩を与えようとする意識現象(時間)がおきます。この現象は、リアル空間では絶えず色彩を感じ日常生活をしている恒常的な事象からくる。その記憶が作品を見るとモノクロであるため、リアル空間にない画面(色彩の無い世界)を見ることによってその作品に拘束(時間)される。しかし無限ともいえる色彩の世界を記憶は潜在的に内部にもっており、この色彩をそこに再現しようとする意識現象(時間)の発生をともないます。この両者の力学関係の現象の効果によって「機械」が発生(この差異の発生によって処理できない現象が現れます)します。この余剰の生成こそが「抽象機械」なのです。この「機械」を次のステップでは「宇宙圏」に飛ばす作品を創ることへと接続されます。神秘の誕生のない作品はまだ卵です。

 

今回は、マティスのマイナーな空間のみ抽出して作品化したものを掲載しました。マティスの凄みはこのマイナー空間であると作者はみています。「マティス自身はあまりこの空間に対して語ってはいない。この空間を感じればマティスのよさがいっそう広がる」との、こと。次回はもとにもどって『アンリ・マティスの「(ダンス)、その構造と場所」−5』を掲載予定です。これも予定ですので変更することがあります。  「有人彗星」管理人



2006年04月10日

アンリ・マティス「(音楽)その構造と場所」ー4

前回パウル・クレーの「さえずる機械」でカオスとリトルネロの関係を記載しました。すでに「千のプラトー」ドゥルーズ/ガタリの共著を読んでいる方は、リトルネロの概要は掴めているとおもいます。今回は予告に従って、その概念を使ってマティスの「音楽」につて記載してゆきます。マティスの絵画を「新しいパラダイム」で語りますので難しい哲学用語がでてきます。

BD10-01_1

音楽DC03


BD10-01_1/図表

「音楽」1910年、
アンリ・マティスの作品を
ダイアグラム的にスケッチ

 


 

今回はマティスの作品、「音楽」についてその構造を記載します。上記図表を参照しながら論じていきます。わたしの感じたことを書いていきますのでまた違った見方もあるかもしれません。その面白さこそ美術を観る醍醐味かもしれません。皆さんもご存知のようにマティスには大変美しい作品が数多くあります。その中のひとつである「音楽」は理論的構造がまったく見えず隠されています。「ダンス」もそうですね。しかしその背後にゼザンヌと同じくらい論理的構造をもっています。

その構造は見事に形式と融合しており、視覚的には、その構造は機能によって解体されその調和のとれた美しさしか見えません。皆さんもその美しさにウットリしていることでしょう。鑑賞するぶんにはそれでいいのですが、わたしのように作品を創る側は、そうはいきません。マティスの絵は表面のフォルムだけ学んでもどうにもなりません。その哲学的深さを確実に掴まねばなりません。マティスの絵にはゾットするような凄みのある作品があります。その絵こそ本質が潜んでいます。あのピカソでさえマティスの哲学的な思考にコンプレックスをもっていました。それほど論理的で構造がしっかりしています。わたしはそこを見逃しません。この思考を学ぶのです。

 

わたしはこの連載で、「エラン・ヴィタール」までマティスの道を追究していきます。その象徴として「葉の束、1952年」という作品があります。この作品を「オートポイエーシス」、システム論でみるとマティスの作品がいかに現代科学や現代哲学の世界に深く関係しているか分かります。ハイデッカーや現象学系の哲学より、ベルクソン、ドゥルース/ガタリ系のポスト構造主義に近いように感じます。「水浴をする人、1909年」の作品はわたしにとって驚くほど哲学的な作品です。他にもありますが、何点かとりあげてこの連載で書いていきます。わたしはこの連載を思考作品と呼んでいます。今回は「音楽」をとりあげていきます。

 

近代絵画の流れとして、セザンヌ→マティス→デュシャンと接続される画家であるとおもっている。徹底して生成変化の画家であり、リトルネロが領土から脱領土化してゆき内在平面が宇宙の生成へ、諸機械状アレンジメントの作用が抽象機械をかたちつくる。そのメカニズムを見せる画家でもあります。マティスの絵画はそれ故ダイアグラム的な絵画であり、「記憶と物質」を、脳内の意識現象を明晰に追究した画家です。その技法を思考錯誤しながら実験的に行為し、最後には調和と美の形式を確立しました。あの切り絵に到達した人です。

 

マティスの初期の作品に「風景」というのがあります、この作品は内部意識の記憶からはじめています。そしてその追求に一生涯かけていきます。ついにはカオス、宇宙的な世界と内在平面の関係を徹底的に追究することとなります。機械圏をいつも意識していた人です。デュシャンはこの機械圏のメカニズムをダイアグラム化した画家でもあります。マティスの造形思考はそれほど奥が深いといえます。

 

では今回とりあげる作品、「BD10-01」を参照してください。それに基づいて進めていきます。マティスの画集がお手もとにあれば見てください。特にマティスの絵は色彩が形態と同様重要な要素ですから。「音楽」と「ダンス」は対になっており、「音楽」は領土性のアレンジメントによって形成されていきます。「ダンス」はそれを受け外にで、飛躍し、脱領土化したリトルネロとなります。それによって分子状となり、宇宙の振動と合一する。両作品とも、その理論的構造が形式のなかに溶け込み、マティスの特長でもありますが、大変すばらしい作品です。

 

この作品「音楽、1909〜10年」はカオスをとりこむ前段階の1つの儀式、詩の発生原理としてのダイアグラムである。リトルネロとは領土的なアレンジメントに向かい、カオスの諸力をなだめ領土化し、壊乱、破壊それ自体の振動を歌の力でとり込み、カオスの振動に共鳴する内在平面を質料(A=ヴァイオリン、B=縦笛)に伝達させ空間に振動させる。そのことによってカオスに歌わせます。それはカオスのなかに同一の波動が振動し、リトルネロの作用が出はじめます。このリズムがやがてメロディーとなり領土が形成し始めてゆく。

 

大地のグリーン(領土)はそのメロディーに反応しスプライン状の線を描く。領土はまだ流動的である。大地と空のベクトルは調和のメロディーを奏でている。質料のない人物Cはその共振(共鳴音)で歌い始め、人物D,Eはまだ伝達してはいない、そのため身体は緊張しているが、歌(ヴァイオリン、たて笛)の共鳴が空間を振動させ身体としての質料が奏でる準備(それはダンスへの移行を暗示させます)をはじめます。

 

・・身体の円やかさはこの共鳴を受け、大地の境界線であるスプラインはその共鳴によって領土化する。この領土化が形成されるに従ってリトルネロが2つの質料(A,B)と3人(C、D,E)の集合的な和音となり、カオスの無限大の1つの点として空間に振動(共鳴)する。身体の色はカオスの共振の声のように赤色で統一され、存立平面の身体化のようでさえある。まだ外にはでていない。「ダンス兇里茲Δ陛径里留澳脹親亜▲妊オニュソス的なもの」のように脱領土化された分子状の飛躍はまだない。

 

顔の表情は無意識機械からの生産で記号状機械(日本のアニメや漫画の「そこには現れてはこない抽象機械であり、集合的多数の機械状アレンジメントによってダイアグラム化されたもの」である。スーパーフラット的な情動描写である。それはニュ―ペインティング的なある種の表現主義的な描写であったり、フォーヴィズム的な表現でもない。ある限定された世界を描写することでもない。非限定的な情動機械的な内包としての要素を表示する。外延的な空間を組織化した形態として顔を表現してはいない。

 

それゆえ、内包的な(強度)として形態(顔貌)を描(定義する)く。おそらくマティスはこの5人の人物描写にはそうとう自信をもっていたにちがいない。わたしは完璧に感じる。マティスのなかで「音楽」は装飾的でありながら、論理的構造が形式自体によくでている。わたしの好きな作品の一つである。ある人は「5人の人物が楽譜だ」と言ったが、それは正しい。境界線(領土、グリーンの大地)がメロディーラインのようでもある。



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