2006年03月

2006年03月31日

アンリ・マティス「カオスとリトルネロ」−3

はじめにマティスからいきなり書くより、パウル・クレーの「さえずる機械」の概要からはいります。そしてマティスの「音楽」と「ダンス」へと進みます。というのもわたし自身理解しながら書いていこうとおもいます。どのように展開していくかわたし自身予測できません。今は頭の中に記憶をとどめておく作業です。作品を創るとき、これとは反対に、わたしは殆ど考えません。意見を頭のなかから追い出します。作品は概念を超えねばなりません。理解することとはちがいます。概念は道具なのです。わたしはその道具を使って書き進めます。

物質と時間の関係を求め、幾何学的な運動エネルギーを感性に変換して行く作業をマティスのなかに求めてゆきます。そのことによってマティスの造形思考のなかに入りこみ、その驚くべき論理性を書いてゆきます。「音楽」と「ダンス」の作品は、「ピアノのレッスン」や幾何学的なまでに抽象化された「座るピンクの裸婦」のように理論的な形態は見えません。論理はその形式自体のなかに溶けこみ、見事な調和となって現れています。楽譜は機能するとき、消えます。それと同じことです。

 

スケルトンのない家はすぐ壊れてしまいます。絵も表面の美しさだけでは時間に風化させられてしまうでしょう。ゼザンヌやマティスの絵はまさにその強靭なスケルトンをもっています。それはカオスからもらった自然な構造体をもっているからなのです。論理は論理の向こう側を潜在的に内包しています。わたしは今回マティスから思考の養分をもらうために認識する作業をします。それは前作品行為の思考なのです。そのことによって作品を創る思考の養分をマティスからもらい、わたし自身挫折しないようにするためのものなのです。

 

それはマティスの造形哲学を十分吸収し、体の中に浸透した記憶が差異として、作品みずから湧き出てくる生成変化を直感的に捉えるよう、その地平を開示する行為へと進むものであってほしい。作品が何を語っているかわたし自身理解していないところまでもってゆきたい。意見から遠くはなれて自立した存立平面を形成したいのです。

 

これから書くことは普段あまり目にしない言葉の用語使いになるかも知れません。わたし自身も使い慣れていません。他の言葉になっているとき、わたしは作品を創ります。今は思考するための道具です。道具はまだ世界を形成していません。言葉が何かを探しているのです。言葉は空虚であるがゆえにスピノザ的な情動を接続させるシナプスのようなもの・・としての気配を送る身体的な反応を待っている機械を振動させる媒質なのかも知れません。

 

今回はクレーの「さえずる機械」について書き進めます。BC14-1Cの画像掲載を参考にしてください(お手もとにカラーの画集があれば、御覧になって下さい)。これはわたしが画集よりスケッチしたものです。この絵は技法的には結構クレーが苦労して制作しています。色調を微妙なトーンで表現しています。それゆえいっそう緊張感のある空間をつくっています。右上の黒い滲んだ色と鳥を囲む淡いブルーグレイの色使い、そしてグランドに置かれた淡いバーミリオンに塗られたベッドが空間色のブルーグレイと滲み、いっそう小鳥たちを緊張させる。左上にはそれと同色のバーミリオン色で滲んだトーンが地と空のカオスが剥きだしに現れているような感じさえします。

 

この「さえずる機械」の絵はドゥルーズ/ガタリの共著「千のプラトー」、第11章の”リトルネロについて”で明晰に論じられています。最初の出だしは、『暗闇に幼な児がひとり、恐ろしくても、小声で歌をうたえば安心だ・・』というところから書きはじめ、リトルネロの構造を段階的に深くはいってゆきます。その最後の章は宇宙規模の無限な機械(機械圏)の作動原理を暗示して終っている。芸術とは何かという概念を深く思考させられる哲学にもなっています。つまりフーコーも言っていますが、

 

『自らのうちにカオスを抱えない人間は、躍動して輝く星を生み出すことはできない』

 

と、このようなことを言っています。マティスもこれと同じようなことをいっています。”カオスのない芸術はたんなる意見にすぎいない”と言っています。わたしはこの「さえずる機械」を見てクレーからカオスを感じとらねばならない。

 

・・何故4羽の小鳥たちがさえずるのかを、空にむかって、森にむかって、大地にむかって、仲間にむかって、そして敵にむかって、そうしてクレーの「灰色の点」を感じねばならない。この「灰色の点」とはブラックホールのことであり、「灰色の点」とは小鳥たちをとりまくブルーグレイ色(掲載したわたしのスケッチでは判断できませんが画集を見てください)で塗られた空間のことであり、無限の拡がりのなかの位置決定が不可能なカオスそのものなのです。

 

そしてその点は『自らの上に飛躍し・・重力に勝利した遠心的な力の圏内に入って、実際に大地から舞い上がって行くのだ』という言葉でドゥルーズ/ガタリは書いています。この言葉の概念を次回書こうとおもいます。それはカオスと共鳴するリトルネロの作用を「音楽」と「ダンス」へと接続されていきます。

 

今回はクレーの「さえずる機械」の触りとしてその概要を書きました。クレーのもっているカオスと「内在平面」のことに関しては、クレー自身が、大変危機的状況のなかでたえず創作活動しているその凄さを見るおもいがこの作品から感じます。「さえずる機械」という作品は絵画というより、そのリトルネロの仕組みを見せるダイアグラムでありシンプルな図表でさえある。それはカオスの境界でさえずる小鳥たちの彼方を、抽象機械を、機械圏へと接続される諸アレンジメントを垣間見る。

 

リトルネロとは(歌をうたうとは)カオスの破壊としての振動を逆に共振させ領土化し、カオスをとり込み、カオスみずからの波動によって歌となり共振する。それによってリトルネロは内部時間をつくり灰色の中の「点」となり、カオスは共鳴してゆきます。揺らぎはいつ切断されえてしまうか、か細い糸で繋がれた「アリアドネの糸」なのです。たえず危険に晒されています。その意味で小鳥たちのささやかな無意識機械とは、わたしでもあり、あなたでもあります。そのようにドゥルーズ/ガタリから感じます。

 

『暗い夜道に迷わぬよう、わたしも歌をうたい、くちずさみ”エレボス”を遠ざけ、無限の故郷の家にもどる「時間の神」のなかで・・』



2006年03月10日

アンリ・マティス「差異と現象」−2

『・・アンリ・マティスについて思考すると限りなくイメージが湧いてきます。わたしが哲学者か美学の専門家であるなら、一冊の書物を書きたくなるくらい魅力ある絵画である。それはマティスの絵画に表現されているものではなく、そこにないもの、意識の潜在性が作品を創るイメージの凄さのことです。既に確立されたマティスの美学のことを指しているのではありません。別次元から見た「新しいパラダイム」を意味しています。

すでにどこかの書物で論じられているかも知れません。そのことを語っている書物をわたしはまだ見ていません。マティスがゼザンヌの作品を所有して心のよりどころにしていたように、わたしもマティスの作品を心のなかに留めています。わたしは作品を創らねばならないので、技法にいたる思考が必然性をもって自然との関係を探求して作品化していきたい。物質と時間の変位を見るアートのようなもの。

その延長にあるものが、マティスの時間変位の重要性を作品からわたしなりに発見しました。それはマティスの思考を模写することなのです。キャンバスに塗り残された筆跡の関数と運動量の軌跡を残すその技法。その空間はひとつの論理的構造を導きだします。計算された構成と運動の軌跡は宇宙のカオスから導きだしたマティスの意識現象をわたしは観ています。

そのことをデュシャンはマティスに対して見事な洞察をもって、「意識の化学反応によって作品を完成させる技法」と、確かこのようなことを言っています。それは後期印象派やフォービスム、シュールレアリスムすらのり越えて現代科学の複雑系へと結びつく要素をもっていると感じている。そのことに関しては最後の章で書きます。まずはマティスがいかにカオスからその創造的原理を構築していったか、セザンヌを原典のように大切にしていたか根拠から語ります。何故マティスはシュールレアリスム的方向に決していかなかったか、何故ピカソはその傾向をもっているか、その哲学の違いは作品を見るとよく分かります。その違いを書くことによって「差異と現象」というマティスの本質が明確になります。

このシリーズは7回に渡ってかき進めます。もっとも哲学的になるのは「水浴をする人、1909年」の作品になります。この作品はほとんど解説されていないし、見過ごされている作品です。それだけ見方が難しいということです。他にも何点かあります。あのマティスのもっている装飾的な調和と美しさとはほど遠い作品があります。これこそマティスの哲学の深さを、論理的構造の凄さが潜んでいます。わたしはそこに焦点を合わせ書き進めます。

わたしはこの作品「水浴をする人」をベルグソンから多大な影響をうけ、新しい概念を創りだしたジル・ドゥルーズの哲学をかりて書きます。というのもわたしにとってマティスとは「差異と反復」の画家そのもと感じているからです。マティス自身徹底的にベルグソンの哲学を熟読し、それを生きた形ちとして絵画理論の根幹にしていると感じている。最後は色彩とかたちの同時進行「切りえ」の方法に到達します。身体的な不自由さからその技法に到達したというより、それは必然性があります。

これから書き進める内容は、マティスの評論の対象外にある作品を観てゆこうとおもいます。それは「新しいパラダイム」によって見えてくる世界です。マティス自身その作品につてはあまり語らない。後世にゆだねるというスタンスをとっているように感じます。まずはマティスの素晴らしい作品「音楽」、「ダンス」を別次元から入っていきます。それは”リトルネロ”「カオスとリトルネロ」−3」という概念で語ります。』

 



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