2005年09月

2005年09月27日

現代美術「ドナルド・ジャッドとアンゼルム・キーファーなど」−1

以下の1〜3項目をわたしの作品を通して論じようとおもう。

  1. ジャッドに関していえば、別の見方で再評価されるべきひとであると感じていること。その思想と都市工学の概念 など。「ドナルド・ジャッドの詳細は別ページに掲載、この記事はまだ未完で途中です 」
  2. それと同時進行にキーファーのもっている文明の毒を、歴史的出来事を美術の世界に取り込むそのアレゴリー的な表現行為、その意味している方向性及び歴史認識の問題など。また内在平面の存立とは・・その概念化としのアートを問う。
  3. 資本主義と消費経済をアートの側面から見るには、アンディ・ウォーホルはなくてはならない最大のアーチストである。わたしはそれに加えて、「ジョルジュ・バタイユ」を論じる。アンディ・ウォーホルの詳細は「現代美術の世界”その場所は”ー2」に掲載しいています。デュシャンと同様、ウォーホルなしには現代美術は成立たない。それくらいの凄さをもっています。


2005年09月13日

現代美術の考え方−1「ドナルド・ジャッド」1・1

第1回目:「ドナルド・ジャッド」1・1

*「日本ではあまり評価しきれていない、というよりどう評価したらよいか自分の内面とフィットしない、交差しない、しかし無視できないかなり気になる存在ということでしょう。ジャッドに関してまともに評論された書物が日本にない理由は、評論家や作家にとってもいまいち実感がわかない、*1というよりジャッドの作品が感性を誘発するより以前に作品という「もの」を見て思考を限定(公理としてのObjects)してしまうその拘束力と、自己の経験的な世界(工業製品と等価なスタイルをもってるが故に感情や心理的感性が発生しにくい)が遮断させられてしまう。抽象表現主義でいうあの感情という感性でとらえにくい。

*1そこで言葉で埋め合わせようと哲学的な用語をかりて美術批評する。どこか自分の内面的な世界とクロスすることなく、ジャッドの生きた芸術を置き去りにして学問的な言葉だけが先走りしている。内面的な意識が発生することなく感情移入がない。そのためどの評論を読んでも感動しないし、危機意識が欠如している。学問のための美学論になっている。確かに読み取るスキルを必要とする作品ではあるが、だからといって内面的感情が希薄となるわけではない。デュシャンの作品ですらエモーショナルでセクシーさがあるように、ジャッドの作品は禁欲的ではあるが別のかたちで、ある種のイコン的要素はある。

それは数列という思考の秩序を発生させる形而上的な超越性を含んでいる。このことは述べないけれど、それを置き去りにすると、たんなる配列された箱にすぎなくなってしまう。それでも尚、ジャッドの作品が知的に刺激することには変わりはないが、どの芸術も文化や文明という哲学的な問があるように、建築の思考概念を含んでいるジャッドの作品がとくに物質的なものとして刺激するのかも知れない。

*1ミニマルアートという評論された文脈だけで作品を抽出し、それを「もの」として観ると、たんに陳列された美術館アートになってしまう。クラフト的な日本人独特のインスタレーションされた「もの」としてのある種の洗練された花鳥風月アートになってしまうだろう。そうではなくて、「もの」そのものよりそこから離反した、人工的な都市化された思考をどのようにすれば、調和のとれた考えをシメントリー(Objects)のなかにみいだすことができるか、幾何学の概念と「もの」との関係の方がジャッドを直感的に理解できる。さらにボックスに色彩をつけることによっていっそうその「物質の固有性」を定義(普遍性を獲得する)する。花鳥風月に慣れ親しんでいる日本人にとって肌触りとして直感で感じにくい要素ではある。

そういう意味で科学や都市工学のことと、絵画という独特の美意識と、どうおりあいをつけて思考すればよいか、言葉で理解していてもそれを「イデー」として感覚(ある実体をアプリオリに)が直感的に感じる物質に対するこの思考方法は、日本人にはなじまない。従って物質を思考の要素としてみるこの行為には焦点があわず、あの花鳥風月の独特の文化をもっている日本では、どこかよそいきの言葉の服を着て歩いている批評が多いいのも事実、まともに着こなせない。(けれども着ざるをえない状況がある)、それは都市化という人工的な物をどのように着こなせばよいかという、思考と身体(環境のことなどを含め)の問題がそこにはある。この本質的な問いがジャッドのなかにあるからです。それは日本の問題でもあり「都市問題という深い課題」があり、閉じた系の「美」というものには到底おさまらない。(単に「美術という枠」におさまらない)それ以外の思考を要求される。

・・・美意識以外の物に対する機能(比率、数列、シメンントリーなど)という意味あいもある。非常に抽象的概念でもあるが、そこを具体的に考えている建築家の概念とジャッドが考えている「イデー」としての考えをどう具体的に構築するかジャッドのアート哲学としての作品との関係性の問題など・・・後にマーファに移るとになるが、さまざまな問題を含んでいる。結局のところジャッドはアートとしての建築の概念からぬけでることはなかった。それで終わったという人もいる。

それは間違いで、物と人間との関係を構成主義やモンドリアンがなしたことをさらに新たなパラダイムで作品化した人だ。構造主義がポスト構造主義となり、今また新たな哲学がうまれているように、ジャッドの考えを発展させればいいだけのことである。最先端の科学の思考(思想)はアートの関係のなかに必ず含まれている。そうでないアートはクラフトか閉じた系のなかでの美術館アートにすぎない。それも悪くはないが、日本でのミニマルアートは「もの派」を含め物質至上主義絵画の延長であり、日本独自のミニマルアートともいえる。

・・・それは単に切断された美術館のなかでのミニマルアートとしてジャッドの作品を見てもいいが、(それなりにおさまるけれど、)あの日本的ミニマルアートのルーツとして、「もの派」的見方をすると見失う。ベクトルが違いますから。そのことは触れないけれど、時間があればいずれ書いてみたい。」

*2.ジャッドの哲学は社会と都市工学--その関数としての自己の内面的世界が深く浸透しているのに、なぜ共同意志の力が日本のミニマルアートには感じないのだろうか、という疑問から書きはじめたのです。「もの」に語らせる日本独自の感性と都市化の思考とが激突せず、「美」を”場”として表現する感性の構造が知りたくなったのです。その構造を評論家や作家が、ハイデッガーや現象学系の哲学をもちいて評論しているのも面白い。物質の本質を設定して深層の”かたち”を形象化し「物質至上主義のアート」へと偏向していく方向性に発展していった。それは高度なクラフトとなり、それを超え日本庭園の石を配置した、日本画的ミニマルアートになっていったその迂回現象が興味深い。

・・物質の本質という発想にはどこかトリックが必要で、その配置を探している。”場の発生”という配置を。・・そうではなくて、表層が深層を形態化してると考えたらどうだろうか。表層は深層の分身ではなく、実体であり、スーパーフラット的な絵画のように、その言表の構造を発見してゆく方向にいまやアートはいっている。ジャッドのことを書いているうちにそちらの方に興味が湧き、今は継続して掲載する予定がストップしてしまった。そのうち思考がまとまってきたら、再び書こうかなとはおもっている。絵画は思考であるとおもっているわたしは、好きな言葉があります。

『見えるもの、そして可視的に記述される”もの”とは思考にほかならない』

これはマグリットの言った言葉です。そのことをふまえて表層の空間を、空虚さを形態化すると、ある種の石田徹也的な(最近若くして亡くなられた作家です、ジョージ・トゥーカー的な凄みのある作品です)絵画へと進む要素をもっています。癒しをこえた深層の堆積へと地層は変動してゆきます。つまり表層の言表は、それ自体実体を形成する分離されたひとつの存在という形式をもつ。アートはこの方向にどんどん進んでいくようにおもいます。

 

下記の文は最初に掲載したものです。上記の文はその書きたりないところを順次追記したものです。気がついたら書きとめています。従って、一部重複したり、とりとめのない文ですが掲載しています。最後に編集してジャッド論という形にしようと考えています。

 

今回はその現代美術としてのある一面をになう避けて通れないとても重要な人なので、解説や、評論はできませんが、ドナルド・ジャッドのエスセンスを感じたままに書いていきます。(次回書きます)

極端にシンプルにした形、
数学の美しさにもまして、
もはや精神はあの無限に存在する
言語の不在に踏み迷わず。
配置されたSpecific Objects
そこには「名」は無い。
この矩形のイコン
用意された数列、
やがて時間の風化へと向かう。
マーファの大地に
巨大なコンクリートを遺す
そこに在るのは
大地と風、空、そして「このもの」

このように半分詩の形になってしまいます。解説するのはもっと難しい。説明できるところはするようにします。画像を掲載できる場合は、掲載します。できるだけ日本では紹介されていない現代美術を記載します。次回ドナルド・ジャッドの形而上的、「美」を解説します。概要として、第1回目は最初にその詩的言葉を記載しました。その意味するところを次回語ってみます。驚くようなアーチストもでできます。

追記1:
「巨大なコンクリートとは何か」という質問がきましたが、次回そのことについて書こうと考えていました。ジャッドの作品でテキサス州マーファの平原にあるコンクリートの巨大な作品をさしています。
このプロジェクトこそジャッドが最後に到達したい思考の具現化です。美術館で見るミニマルな作品からは想像もできないスケールとなっています。そのことを補足します。それと、なぜ彼はマーファに行かねばならなかったのか、そのことを考えるとある課題が見えてきます。

追記:2
ジャッドを理解するにはある程度の熟達した思考方法をもつことを要求される。従来のような物質至上主義的な絵画の見方とは違った頭脳的直感ともいえる見方を養う訓練は最低限必要かも知れません。これは絵画史、建築史、哲学史など知識としてあってもそれにこしたことはないが、それより都心に住んでいれば誰でも気づくように、現実的な側面で一歩街にでれば、いたるところにコンクリートの建物、高層ビルが乱立している。

特に日本の都市は中心核のない乱立した、まるで底なしの沼のようなカオス状態であるとも言われている。これこそが面白さであり、エキサイテイングな街としてとらえている人もいますが、荒川修作氏は日本には都市計画がひとつもない、江戸時代まで遡らなければならない、とまで言いきっている。これは、「論理的な根拠として身体、思考性の諸問題を何一つ考えていない」と荒川修作氏は言いたかったのかも知れない。

都市の問題とは即ちシメントリーの問題でもある。アートの概念としてジャッドはこの問題を最後まで考え続けた人だ。わたしはこのシメントリー(当然非シメントリーも含む)の問題を自然科学(物理学)の素粒子、数学の群論、位相幾何学など考慮してジャッドのことを考えている。(数列やフラクタル、フィボナッチ級数をベースにして配置している。)、それと西洋哲学のルーツでもあるプラトン、アリストテレス、ピタゴラス、建物ではギリシャ神殿など、そして中世のスコラ哲学へ発展していった思考のことなど・・・・

極論を言えば、「すべての物質はシメントリーである」と言ってもよいかも知れません。ジャッドは建築にもこれを応用することを考えていた。

形態(シメントリー、非シメントリー)とその概念を、たんに絵画として観るのではなく、ましてミニマルアートとしてとらえるのではなく、身体の生きた形態を有機的に、時間的にとらえる構造としてジャッドのことを書こうと考え続けていた。ところがこのサイトに定期的に訪れる人がいるので、ジャッドの哲学を命題のようなつもりで書いた最初の詩的な文を観て、その意味するところを通りすぎて、あまり関係のないことを言っていると思っているので今回「追記:2」を書きました。

ジャッドの作品は美術館や画廊での配置を観てミニマルアートとして概念を認識するのもいいが、日本で言われている「もの派的」なミニマルアートとして観ない方がいい。そこには「共同性の意志の力」はなく、閉じた系としての美意識になるから、それは花鳥風月に陥りクラフトとしての最高度の洗練されたものとなる。日本人の大好きな美意識としのミニマルアートへと発展する盆栽的ミニマルアートともいえる。この共同意識の欠如感はたんなる日本的な物質至上主義の美術というジャンルにおさまる。そうではなくて、荒川修作氏が言った言葉だと思うが、この「共同性の意志の力」もジャッドのなかにある。それは生涯建築のことを考えていたジャッドにもあてはまるということです。後に、テキサス州のマーファに移りその実現にとりかかる。

以上、ほんのさわりだけの概要を書きました。イメージとしてあるのだが、頭の整理がつかない。時間があれば「マルセル・デュシャンの造形思考」のように追って書いてゆきたい。わたしが見る限りジャッドに関してまともに書いた著作物は日本には何一つもない。日本では『ドナルド・ジャッド建築』の大島哲蔵訳、「スクウォッター(建築x本xアート)=ミニマリズムとアーバニズム、Donald Judd in Marfa 』著者、大島哲蔵などがある。かなりいい本なのでお奨めします。

わたしはものを創る立場で内部からジャッドの造形思考を書きたとおもっている。いまだに書いていない。できればこのサイトの「有人彗星」管理人に提供したいと考えているのだが、いっこうに進まない。今回も「追記:2」で誤解されるような大まかな概要で済ませている。

建築としての荒川修作氏のこと他、作品論についてはシリーズで(第1回〜第5回まで)掲載しましたので「カテゴリ」を見てください。 その第5回目はまとめです。

関連記事は:
現代美術の考え方ー1「ドナルド・ジャッドとシメントリー」1・3

ジャッドに関しては作者が気づいた点があれば、ボツにせず今後とも纏まりのない文でも順次追記してゆきます。そのため上部の文面と下部の文面が重複している箇所もありますが、カットせずそのまま記載しています。最後に編集予定です。(*更新:'05.12.9/*1 '06.01.15 /*2' 06.11.01)
「有人彗星」管理人



2005年09月10日

マイルス・デイビスの肖像

マイルス・デイビスの作品:
*1「Get up with it」*2「Great expectation」*3「On the corner」その3つを舞踏家に踊ってもらいたい。頭のなかでイメージがあるのだが、わたしは絵画の分野なので表現できない。マイルスのなかで、この3つの作品は最もわたしに霊感を与えてくれた作品です。他にもたくさんありますが舞踏のイメージが湧いてきます(なかでも「Great expectation」はなぜか舞踏家、土方巽とオーバーラップしてしまう)、これらの曲を絵画で表現するのは凄く難しい。特にマイルスのもっているリズムという時間芸術の純粋さは表現しきれない。視覚芸術の一分野である絵画は静止した永遠性や思想を一瞬のうちに感じ、それを表現するのには適している。

マイルスが死んでからもうずいぶん経った。わたしは今でも寂しい気持ちでいっぱいだ。マイルスからもらった霊感を絵画にできたらいいなとおもう。

3つの曲を絵画や舞踊にするとどんなイメージになるんだろうか、想像して書いてみます。

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