2016年11月17日

犬の惑星「対象-Xであるようなもの:最後の一つ手前の言葉」



PLJS-20

2016-10-20_犬の死A






























最後の一つ手前の言葉

夢かい?
----結構なものさ
終りさえ
見られたら----、
本当を云ふと、人生は短く
夢は長いよ。



川岸を歩いていると打ち上げられた犬の死体があった。どこかで川に落ちて溺れてしまったのだろうか。半分白骨化していた。月日も経ったのだろう。生きていたときはどんな飼い主と過ごしたのだろうか。あるいは主人もいず野良犬の一生だったのだろうか。人生もこれと同じで儚い夢や希望を持ちながら朽ち果てていく。無窮な宇宙のなかの小さな地球、微かに呼吸している「ラフォルグの地球のすすり泣き」そんなことをおもいながら写真に撮った。しかし写真は残酷で状態変化、エントロピーの断片を写し撮る。

「最後の一つ手前の言葉 / ジュール・ラフォルグ」
訳:堀口大學」この詩の一部分を抜粋





2016年11月16日

意味作用の消滅「対称-Xであるようなもの」

NLK-05A

2016-11-16_弁天池かも-1



































何を撮ろうとしたのか、
そこに意図はない。
池の水面に映る影、水草の枯れた姿、
秋からやがて冬を向える気配、微かに
見える緑の葉とのコントラストな色彩。
鴨をいっそう引立たすための背景でもない。
いったい何を撮ろうとしたのか、
言表行為の再領土化であるよなもの。

「・・・の意味作用から遠ざかるもの」

であるにしても、確かに見ている。




2016年11月13日

二つの要素と反復「奇妙な記号として差異生成してくる」

PHLK-18


カマキリA2


































記号(カマキリ)の記号(カマキリの影)を見る。
この二つの要素と反復。カマキリを見ているのか
カマキリの影を見ているのか、それは分からない。
反復は奇妙な記号として差異生成してくる。

着地点が不在である。しかしそれが強度として
立ち顕れてくる。統一されたある感覚が生成してくる。
これをシュルレアリスムという。

サルバドール・ダリは:
最もリアルなものこそシュールであるという。
この意味において写真は常にシュールである
その要素を持っている。





2015年12月25日

都市考学「隠された者たち」

TKL-25:隠された者たち

隠された者たち


































「隠された者たち」

そこに在る「者たち」は
すでに隠された声
球体のまま沈黙。

地球の影を模倣する
人類の道は遠近法の
思考で躓く。

それは始まりと終わりのない
円環運動のエナジーを
White Lineで標す





2014年12月23日

分部と全体「無数の外部世界を表象する」

JK-06B2

JK-06B2
















                                                               




  分部と全体

  分部とは何か、
見える「もの」と見えない「もの」

  全体とは何か、

・・の間に起こるもの
「かたちつくられるもの」と、
「かたちつくるもの」

空間と時間は関係性の
秩序として現れる。

知覚の作用によって
無数の外部世界を表象する。

そこに留まることなく無限な移行、
すなわち時空の生成として
表現される現在、

それは過去を含むもの、
未来を孕むものの現在である。



2014年12月05日

スタンリー・キューブリックの空間「一点透視図法の構成とは」

JJ-28-1 / Station

JJ-28-1_Station

































スタンリー・キューブリックの空間
「時計じかけのオレンジ」、「シャイニング」、「2001年宇宙の旅」、「フルメタル・ジャケット」など一点透視図法の空間で無限に続く数列のようで、その始まりは何処か、消失点へと限りなく接近する。わたし達はその消失点に向かって始点移動するが、決して到達することのないエンドレスな空間をみる。始まりを見ることはできない。その消失点の先は遥か太古に向かって、まるでビックバンの宇宙の始まりを、その出来事が脳のなかでイメージされてくる。しかも前面の像を最大限の大きさで見る情景は、さらに未来に向かって無限にエクステンションされ、その像はついにはわたし達の脳のなかに侵入し、それ自らの物体(像)のなかに溶け込んでしまう。空間自体(画面の映像)が身体化される。驚くべき神秘的空間を映像のなかで体験する。

イメージが過去‐現在‐未来として同時に展開する時空は、スタンリー・キューブリック空間の世界である。特に「2001年 宇宙の旅」は驚嘆すべき作品である。その一点透視図法の前で演じられるドラマは、空間的構成との相乗効果によっていっそうスリリングな展開となる。消失点へと向かう眼差しは、無限の過去へ、ワームホールのなかへと、そして現前で展開される出来事は、無限の未来とへと向かう。この未来に向かうベクトルが消失点の始点へと、終わることのないこの円環運動の時空は、イメージの眩暈をともなう。スタンリー・キューブリックの空間は、現実と虚構の境界を運動する神秘の宇宙へと向かう。

フィクションとしての写真
そこでわたしは一点透視図法の構図を写真に撮って見ようとおもった。条件を満たす空間は、人工的な宇宙ステーションのなかで生活する人間の営みがイメージできる、文明を感じるその場所を探した。地下鉄の構内か、高層ビル群を考えた。一点透視図法としては、高層ビル群では空間が広すぎて適切な場所を見つけられなかった。地下鉄の構内は適していたが、空気の層を感じられなかった。空間に浮いている地球というイメージはえられなかった。太陽系に属する地球上に生存する人類を、わが宇宙船地球号を、スタンリー・キューブリック的な一点透視法の空間としてイメージできるこの駅ビルを選んだ。

天井が透明のプレートで空が見える。それを写真のネガのように反転させ、宇宙空間に浮かぶステーションとして処理した。右側の壁も窓の外に見える暗黒の宇宙空間のように処理し、一部カラーにした。モノクロ写真として処理すると、たんなる一点透視図法の構図で社会を反映した写真になり、つまらない。カラー写真にしても映像的な要素がでてこない。そこでわたしは撮った画像を処理し、映像の断片として物語的な要素として見る。そのイメージをつくる写真を、フィクションとしての写真をつくった。




2014年11月03日

鉄道レール「モナドロジー」-2

JJ-27_1DC

JJ-27_1Dc


























「モナドロジー」−2
見える「もの」をコピーするために撮る。つまり写真は、見える「もの」の見えない「もの」を見るために適したツールである。コピーは鏡のようなもので、実体に触れることはない。空気の層みたいなものである。レールはアレゴリー的思考を触発するものとして撮る。そのためには断片的特質(レールの形象)を正確に写し取らねばならない。


2014年10月24日

空間と物質「プラットホームにある長椅子」

JJ-24_1f3

JJ-24_1f3























灰色のコンクリートの床、その上に濃いブラウンに塗られた長椅子、
天上には4つの蛍光灯が取り付けてあった。壁は無造作に塗られた
白い壁、  静かだ。


「モナドロジー」−1
写真を撮ること、絵を描くことの行為は、現象的な存在要素を蒸留し、詩的言語の発生を促すもの。たえず変化する物質の時間的(歴史的)なものを空間化し、あれでもなく、これでもない「もの」を見ること。過去でもあり、現在でもあり、未来でもある。一瞬の永遠を・・全宇宙の「一にして多」、「多にして一」の渾然一体となった構造を探究する。



2014年10月15日

トリスタン・ツァラ「ダダは何も語っていない」−4

JJ-15 / manifeste dada 1918

JJ-15A_トリスタン・ツァラ



























「無意味な模写」

・・ではdadaとは何か。
わたしは語ることが出来ない。

そんなことをしても無-dada
芸術的行為を非-芸術的行為だといっても

無-dada

だからわたしはトリスタン・ツァラの
「ダダ宣言」ページ73に掲載してある
数字をスケッチした。

これはわたしのタダの模写。




掲載画像(JJ-15)は以前鉛筆スケッチした数字に色をつけたものです。
上述した文はその記事の抜粋した部分です。ツァラはなぜか惹き付けるものがある。

『・・理性や約束事によって満たしえなかった全空間のなかに、空気の
要請によって導きいれられる純潔な一微生物なのだ、と』

この文は、「ダダ宣言」のなかの最後の章で「ダダについての講演」です。
これが終わりの文です。すべてを語っているようで、詩的イメージが喚起されてくる、
非常に魅力的な言葉だ。「空気の要請」というイメージからわたしは後に、
作品化している。「忘却の雲の下に隠されたもの」という作品です。



「ダダ宣言」著:トリスタン・ツァラ
訳:小海永二・鈴村和成
発行所:竹内書店(1970年)」参照




2014年10月13日

ヴィトゲンシュタインと荒川修作「あるいは天命反転について」

JI-35C

JI-35C




























線(ワイヤーフレーム)の構成で反転
「X面」と「X'面」について(〜として見える/〜を見る)

しばらく眺めて見る。Xは上面で(垂直の視点)Xを底面として、Xは前面で(水平の視点)
Xを背面〜として見える。ひとつの図形(X面orX'面)が見えても、反転してしまう。
ヴィ
トゲンシュタインの「アヒル、ウサギ」についての論考を幾何学図形として画いて見る。
この反転を空間概念として構築する場合、どのような出来事が生じるのか、構造として考える。

ドアと窓は「内」と「外」の境界、「蝶番」は反転の力学的作用点である。行為は運動、
視覚は地図作成法の「外」と「内」の行為概念をもつ。脳には、空間定位の領野がある。

しかし「アヒル、ウサギ」はどうか。もし空間定位の領野が機能不全に陥ったら
どのように空間を意識するのか。あるいは意図的にその空間定位を操作した設計は、
どのようになるのか。すべてのものがblank(地図が)となり、つまり反転が起きる。

その先は、荒川修作の「建築する身体」にいくのではないか。「意味のメカニズム」から
実践へと建築設計に。すなわち行為概念の構築に命を賭けて思考していたのが、
荒川修作ではなかったか。特に芸大の講演は、まるで岡本太郎が憑依しているような、
情熱をもって語っていた。たぶん他でもそのような講演をしていたのだろう。



2014年10月11日

追憶「その時間は天体と繋がっている」


デュシャンといえば「大ガラス 1915-1923年」と「遺作 1946-1966年」です。この2つの作品、特に遺作は20年もの長い間かけてつくっていた。こういう生き方もかなり魅力的だ。デュシャンのいう生活習慣病からうまく逃れ、空気のような生活をしていた。描くことの時間より思考することの時間を詩人的な方法で作品をつくっていた。「グリーン・ボックス」や「ホワイト・ボックス」の詩的なメモは作品行為と等価であった。見えないものの向こう側を詩的言語でメモしていた。

画家はなぜ病的な絵ばかり描くのか。これはなかなか難しい問題です。ヴァン・ゴッホはどのように考えていたのだろうか。あるいは詩人はどのように社会と対応して生きてきたのか。ボードレール、ランボー、マラルメなど。その時代の空気と反応し、生きた神話をつくろうとその運命に身を任せ、この宿命に生きた人々であった。前人未到のドアを開けてしまい、もう二度と帰ってこない。ニジンスキーの舞踏「牧神の午後」など、神話の世界に踏み込み、わたし達には到達することの出来ない世界を見せてくれる。



JI-30-追憶の扉



























JI-30 / The Door


この未知の扉を勇気をもって開け「独身者の機械」に参加する。あるいはトリスタン・ツァラの空のポケットをもって宇宙の法則に身体を委ねる。言語の光学をもって無秩序の帝王に反逆するロートレ・アモンのように。真夜中のドラマに、『母の禁止にもかかわらず墓にあそびに行く』イジュチュール、この扉の向こう側へと自らの手で開け進む。神の姿を多少とも、ちらっと見ることが出来るかも知れない。盲目となったとしても本望であるという勇気をもって行為する。それは神に選ばれたひとであろう。

あるいは晩年のクロソウスキーのように絵と戯れるのもひとつの方法かもしれない。マティスの「コリウールのフランス窓」は暗闇ではあるが、見えない光りがある。カオスに「からだ」は抗うことは出来ないけれども、この闇黒のなかにこそ星の誕生があり、消滅もあり、ドラマがある。わたし達の「からだ」も1秒たりともそこに留まってはいない。しかし懐かしい思いでは「からだ」が憶えている。その時間は天体と繋がっている。ドアを開けるのは、たった独りだけれども、見えないところで光っている星々と交信している。


2014年10月10日

「何も無い」という出来事は、

JI-31F_The Wall

JI-32F-The wall































「何も無い」という出来事は、

生成途上にある道のようにおもわれる。

しかし「かたち」がそこに現れる予感という「もの」でもない。

空白とは・・セザンヌの余白、

「もの」と「もの」との間に見えない「もの」として現れる
                            空白・・

しかしそれは「もの」として知覚するわけではない。







2014年10月09日

時空の生成-「部分とは全体の断片ではない」

JJ-09_spacetime:


JJ-09_Spacetime

























部分とは全体の断片ではない。
わたし達は、何を見ているのか、
本当はわかっていない。

見えるものは、ずべての「もの」のなかに、
在るのではない。むしろ見えないものが
それを教えてくれる。

無のなかに見えない「もの」が、まるで
次のものを用意しているかのように
闇の光りが身体に感じられる。

そのとき、沈黙は「もの」を永遠に導く
無限の光りを放射する。

わたし達の身体は何億年もの歴史を
記憶している。そのことをとおして言葉にない
無限の時間を瞬時に体験することがある。

芸術とは時間を持たない、空間さえ無い
無限の、とても遠くのあの懐かしい声をきく。




2014年10月08日

Dante's Divine Comedy「神曲 ダンテ(挿絵ギュスターヴ・ドレの魅力)」

神曲 ダンテ」の挿絵を描いたギュスターヴ・ドレは魅力的である。神話を思考するのにドレの挿絵を見て描いて体感する。ドレダンテの思考をシンクロすればとおもい、わたしはこの本(訳:谷口江里也)を購入した。この名作を読む楽しみと、挿絵をみる両方の楽しみがあり、ドレの挿絵は木口木版でその技法に驚く。色はモノクロトーンなので、どうしても夜の感じか、明け方の印象をもってしまう。あるいは白が多い場合は真昼の感じがしてしまう。それでもイメージが広がるので、かえってモノクロの良さがよく出ている。わたしはギュスターヴ・ドレの挿絵に色をつけ、見えない光りの効果を出してみようと、色の素材としてパステルを選び描いた。水彩はいったん色を置くと、修正が出来ない難しさがある。透明水彩は特に重ねた色の効果を技法として駆使し、美しさを最大限にひきだす。あのギュスターヴ・モローの水彩のテクニックには感嘆する。実に美しい。ターナーの水彩画も素晴らしい。わたしはそのようなテクニックがないので、今回は断念した。テクニックとは才能のことです。


JJ-06A_神曲-地獄篇




































絵のスケッチは、ドレの「かたち」をそのまま模写するのではなく、アレンジして背景もより抽象化し、装飾的に描いた。ドレの別々の挿絵を二つの部に分け、上部は空間的に山岳の風景を、パオロフランチェスカの愛を永遠に、パオロフランチェスカの後ろから優しく抱き、フランチェスカはそれに応えるように彼の首に手を沿わせる。そして彼の眼をじっと見つめている。むしろダンテベアトリーチェの再会のように。

神曲ではフランチェスカ夫ジェンチオットに二人は胸を刺され殺されてしまう。『パオロとフランチェスカ、風に飛ばされていつまも、互いの愛に身を委ね、遂には死を招いた二人、吹きよせられる辺境(はて)も無く、だだ吹き飛ばされて、 風の中』とう内容です。互いに愛し合う故に悲劇となってしまう。ドレの挿絵は厳しい様相で描かれている。それとは違って、わたしは二人の穏やかな様相を描いた。ウィルギリウスは若くしてこの世を去ったベアトリーチェに頼まれ、ダンテを地獄、煉獄まで、迷わぬよう導く。ベアトリーチェとは「愛と美の女神」であでり、それを推めた至上の愛「母なるマリア」であり、「光りの聖女ルチア」である。 

                      

JJ-05A_神曲-地獄篇
































上部の絵は全体図の部分詳細です。明るい山岳の岩をオレンジ色に、遠景は少しブルーがかった空気遠近法で描き、左のグリーン、オレンジ、赤の色のアーチ型の帯は大地と空の雲を結ぶ象徴として描いた。このラインに多くの人物像を描くために下絵としてスケッチした。天まで上昇する人々と下降する人々の、天国から地獄への相反する様相を描き、動的な流動するものとして下絵としてスケッチしたが、いずれも旨くいかない。ウイリアム・ブレイクやドレの絵が浮かび、とてもわたしの技法不足では表現できなかった。それで抽象的で幾何学的な人物像を想定したが、構想スケッチで断念した。その構想は固定したものでありながら、イメージのなかで運動するものとして。しかし全体のバランスがとれず失敗作です。部分図も単調すぎた。しかし色彩の柔らかさはでているのでよしとする。

さて下部の部分詳細ですが、ドレの挿絵では争っている人々が沢山描かれています。この挿絵では特に各闘争している人物像は、相互の関係性は無関係に描かれている。ドレは争うパーツを個別にデッサンし、それをもとに配置したとおもわれる。この構成方法はニコラ・プッサンも個別に人物像を研究し、総合的に配置する。二重分節的構成法である。この方法も後のジョルジュ・スーラも個別に人物像のステュエーションを研究し、配置してる。一見相互に無関係のように見えて、冷たく感じるが、そのことによって全体像はイメージへと結びつき、知的な構造をもった絵画となる。「アニエールの水浴」や「グランド・ジャット島の午後の日曜日」など見事な配置構成となっている。

デュシャンスーラを高く評価している理由は、この知的な構造と神秘的な宇宙像である。さてわたしはこのドレの闘争している多くの人物像から画面中央の部分を抽出し、上部の絵と同様顔の表情は描かず、暗示にとどめた。背景は多くの人物像を描くのではなく、波のうねりを抽象化し描いた。ドレの挿絵は岩々で厳しい山岳風景である。この絵では5人を古典的な色彩調で描いた。ドレの挿絵をそのまま模写するのではなく、「」をつけ「かたち」を変え、無限という意味を「人間のかたち」を通してみることでっあった。これは古典的な見方で近代絵画以前の概念である。ようするに神という思考を通して観念的に見ることです。現代アートが観念的に見る行為とはとしてではなく、新たな観念を構築する。その概念を再構築したのが「デュシャン」ではないかと、新たな観念をつくった。その前にダダシュルレアリスムがありますが、これは20世紀の新たな神話です。観念の最高峰としては科学的な思考をもつレオナルド・ダ・ヴィンチです。「最後の晩餐」もいいですが、特に「聖アンナと聖母子」、「モナ・リザ」は最高です。永遠、無限という神秘があります。神の設計図のようで神話的です。

翻って現代アートを見ますと、この神話という部分が抜けてしまうと、たんなる言表行為諸記号に従属し、領土化された「身体-意識」のグロテスクインスタレーションとなってしまう。社会諸機械身体的諸記号と化した亡霊のような身体になってしまう。石田徹也のアートはその意味で非常に厳しい作品です。しかし彼は『聖者のような芸術家になりたい』と言っていた。これは神話を創りたいという意味にわたしは捉えます。現代アートは「パロディー」、「ユーモア」、消費経済係数の感覚化としての「フィギュア」、「ゆるキャラ」これ以外のアートをつくろうとすると難しい。諸記号に従属した擬似的身体化(シミュラークル)快楽を味わうゆとりを失うと、身体は乗っ取られる。あの「飛べなくなった人 1996年」、拘束された悲しみを見ると非常に厳しい時代だなと、おもいます。その意味でわたしはずいぶん昔に描いたこの絵を見て、神話とは何かということを再確認したい。そのために当時描いたこの絵の思考プロセスを忘れないうちに書きとめた。

補遺:
現代アート
経済身体-意識を深く思考する
社会諸機構のシステムを擬似的に装置としてつくりインスタレーションする。しかし経済至上主義資本主義のグローバル化のなかで作品をつくる行為は、そのシステムからブレイクスルーするはそうとうしんどいでしょう。むしろその帝国に応える。上述したように「パロディー」、「ユーモア」、「フィギュア」、「ゆるキャラ」で欲望する諸機械のシミュラークルをつくる。「ふなっしー」などは現代アートとしてわたしは見ている。消費経済と感覚を等価に見るその思考は、資本主義機械の諸記号に従属した身体化ともいえる。経済と現代アートの関係はいずれ論じたいとおもう。



2014年09月29日

マネの絵画「アルジャントゥイユのタブローとは何か」

「アルジャントゥイユ」このタブローは「マネの絵画」論でフーコーがフォーマリズム的な解説で、構成要素のスケルトンを少し述べて、後は何も語っていない。最もフーコーのマネ論はバタイユのように文学的には論じていない。より構造的に論じている。それが非常にイメージの拡がりをもたせ、絵画の可能性を感じさせてくれる。バタイユのマネ論はボードレールが頻繁にでてきます。ボードレールの散文詩「パリの憂鬱」のなかに出てくるマネのことに関して書いている「紐」は、辛辣です。


JI-02マネ_アルジャントゥイユ



































JI−02
「アルジャントゥイユ」1874年
カンヴァスに油彩 149 x 115cm


フーコーの「アルジャントゥイユ」で論じているキータームは「戯れ=ゲーム」です。タブローが現実空間の印象をカンヴァスに定着させる行為でないことは、この絵を見ればわかるとおもいます。タブローそれ自体の自律性があります。現実空間との類似で絵を見ようとすると、どこか異次元の空間を感じてしまう。当時の人々は、この絵を見て背景の水の色は壁のように平面的に見え、評判がよくなかった。しかしこの表現こそ現代アートの概念がすでに含まれていたことがわかってきます。

エドゥアール・マネ(「鉄道」、「フォリー・ベルジェールのバー」その装置と現代アートとは」)-2・2

マネ論は「カテゴリ」から選択か、上記でも論じているのでそこをご覧下さい。



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