2017年10月25日

回帰と起源 「二つの球体」−2

TKL-09

二つの球体

































                                                        「神秘的な求愛」










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2017年09月27日

回帰と起源「事後性と写真の表現」−1

P013

部分と全体
























回帰と起源

視覚とは不思議なもので、いったい何を見ているのだろうか。写真に撮ればその空間の断片を写しとることは出来る。しかし夢のように何の脈絡もなく撮れた写真があるとしたら、判断できるだろうか。フロイトの夢判断のように、それを意味付けするためには言語化(分節化)しなければらない。つまり後から判断すること、ラカンはそこからフロイトの概念「事後性」の問題を見いだす。この「事後性」をラカン的に見るとすべての物事は「シニフィアンの優位」であると。つまり「シニフィアン」が「シニフィエ」を作るという事らしいが、そこで問題となるのは「シニフィエ」とは何であるのか、そのシニフィエを言語化しなければ意識の「かたち」として認識できないのではないか。すなわちこれを事後性という。そのように見るとシニフィエは無意味で解釈できない何ものか。これを解釈するのが「シニフィアン」であると、

これを記号に変換し意味作用の働きで意識に浮かび上がってくる。つまり分節化する。だとしてもその「根源-起源」は分からない。過去も未知であるし、未来も未知なるものである。これを言語化することの不可能性、それを観取する感覚の根源は何処からやって来るのか。起源は確かにあるはすだ。過去の時間的持続は無-時間の時間であるようにおもわれる。現在の視点は過去でもなく、未来でもない瞬時のあるもの。このように感じる。それを永遠という言葉で言っている。ベルクソン的には純粋持続なのであろう。デリダを学んでいる人はそれを差延として哲学的に感じとるかも知れない。しかしP-013の写真を撮ったわたしはこの写された意味するものを理解しているわけではない。

記憶とは感覚の強度としてしか言いようのない「もの」を言語化することである。しかしその強度とはかつて体験した「もの」の再現ではない。反復は確かに再現ではあるが、同一のものの再現はあり得ない。反復とは新たな強度を作るエクリチュール(クリエイティブ)なものなのである。クロソウスキー的にはファンタスムとシミュラークルの関係とも言える。シミュラークルは偽装、交換の媒体である言語によって反復を可能にし欲動を誘発する。

この考え方を写真に置き換えて、その被写体が何を語っているか、写された「もの」の起源は無限に理解不能な彼方からやって来る。微かな声を、その木霊をきいているがその姿は見えない。現実を確かに写し撮ってはいるが、見えるものの断片化された、たんなる空間の平面的複製である。しかし方向性を持つには、そこに何かを見いだす無意識の地層にあるもの(非-言語の歴史的地層)との出会いのうちに空間を感じとり、その一瞬を写し撮る。考えるより先に空間と心とが触れ合う。これも既に無意識の地層にあるものがその投影として空間を撮っているのかも知れない。鏡としての空間である。

またはその逆に空間が無意識の地層を気づかせる。両者は密接な関係にあるので撮ったものが、この内と外を明確に判断出きるわけではない。きわめて曖昧な希薄な膜を写し撮る。これは中平卓馬の「ブレやボケ」の「かたち」として身体表現の一部として、ついに写真の世界に現象学的なノエシス、ノエマを、その根源を追究していたのではないか。意識の生成のゾーンに踏み込む。こんな写真家は中平卓馬以外に考えられない。しかも最もカオスな社会の文化的テクストのなかで追究していた。

現実を写し撮る行為は詩的感性を必要としているので芸術とも言える。写されたものは現実にある「もの」ではあるが、別の意味に移行しシニフィアンの連鎖によって顕現化してくる。写真は現実の姿を見せるが、それとは別の物語を形成するメタファーでもあるわけです。見えないものをバルト的にいうとプンクトゥムの点を発見し、言語の媒介によって見えるものにする。しかしこの見えるものとは現実に写し撮られた「もの」のことではない。言語の介入により詩的となり、その起源を物語る。これをわたしは写真の「事後性」という。つまり物語りを作る。

現実的なストゥディウム的写真は社会的効果を狙ったプロバガンダとして利用される。個人的にはそれとは別のプンクトゥム的な見方もできるが、その見方ただと新聞の記事の写真は成立たなくなってしまう。国家としての政治的な方向付けをする写真である。フォトジャーナリストはそれを超え文明ー文化の係数をひたすら追い求めるひともいる。きわめて危険な場所に、戦場に行き写真をとる行為など。

写真はあまりに身近すぎるので風景の延長のように通りすぎてしまう。朝夕配達された新聞を見、そこに写真掲載されたものを見ても通り過ぎてしまう。辛い出来事の写真を見てもすぐ馴染んで麻痺してしまう。これはテレビも同じであるが、3・11の途轍もない巨大地震の出来事を何回か見ていると麻痺してくる。当事者はこの辛い出来事を一生忘れない記憶、あるいは現実空間として今も傷ついている。

写真家は方向性を明確にして、見る人に委ねる。この方向性を作品という。しかしこの方向性が無く、何の脈絡もない写真がもしあるとすると、人は果たしてその作品を見ることが出来るだろうか・・?という問いがある。しかし写真の方向性は誰が撮ろうとも必ずある。それは「もの」を写し出すからである。「もの」とは(人も含め)そこには歴史がある。歴史物、遺跡を撮るから過去と言うわけではない。「もの」とは現在を通してすでに歴史なのである。その意味で遺跡物も現在である。ベンヤミン的にいうとすでにそこにはアレゴリー的形象があり、煌く星座を一瞬のうちにして観取できるのである。

写真を見るとは「歴史-時間」を空間化する何ものかであり、しかもその起源は永遠に到達することない無-時間の過去である。彼方からやって来る過去であり、過去とは未来の出来事を写しだす現在でもあり、今も生成途上にあるフニィシアンの連鎖である。事後性とは後の意味付けであるが、これは起源の不可能性、到達することの無い過去、何処まで行っても消失点のない透視図法である。したがって思考において地図を作る。その形象はアレゴリー的な地図作成法である。ベンヤミンはアジェのパリの写真に何を見いだしたのか。その問いはアジェの写真を見ると伝わってくる。

わたしは写真に「もの」の「回帰と起源」を見ている。それは空間の断片を写真という機械で平面に定着させ、過去の無-時間性(迷路、不可能性)を固定化させる。しかし何をどのように固定化しているかは、説明することは出来ない。非常にシュールで街の移ろいやすい「もの」の変化率を、時間を空間化させた。永遠の時空の点を見せる物質的恍惚感があるとしか言いようが無い。写真をオントロジーとして見る場合「存在と時間」のような迷路に落ち込み、見える「もの」の見えない「もの」の形而上的な問いに必然的に向う。

写真は現在では多様な目的で使用されあらゆるメディアに、人文科学、自然科学、社会科学など総合的な科学の表現活動の一部としてきわめて重要な地位を占めている。写真論は人文科学的あるいは社会科学的な面をテーマとする言説が殆どですが、自然科学的な面では専門的な方法論を持っていないと論じることは難しい。しかし自然科学の写真を見ても美を感じることは出来る。電子顕微鏡の写真や天文写真など専門外でもその美しさを感じる。このように写真はあらゆる分野で利用されメディアとしての必需品である。

その意味でもし写真論を書こうとおもえば、多様性とボリウムがあり過ぎてとても難しいだろう。「写真とは何にか」などとても語り尽くせない。「回帰と起源」について少し論じることぐらいしか出来ない。過去とは何かその不思議な出来事、起源を感じているわたしにとってまさに事後性に過ぎない。どのような写真論でもターゲットを絞って論じることになるだろう。ある断片の情景をセレクトして言及する。一枚の写真あるいは数枚の写真を見てその意味作用を論じることになる。写真集ではその写真家の言葉が直接のることもあるが、その写された写真を論じているとは限らない。もっとずっと詩的な言葉で書かれていることもある。あるいは撮った状況のみで何の解説もしない。見ての通りと言うわけである。

中平卓馬のようにほとんど存在論的な、自己と他者の関係を探究するとアイデンティティとは何かその差異は何処からやってくるのか、風景と自己の生成とは一体何ものかというきわめて危険な接近を試みる。自己崩壊と風景の差異が無限大に接近する。この微分的要素は亀裂をピンボケに、最早情景を的確に写し撮ることでなく別の次元に移行している。植物図鑑であって動物図鑑、鉱物図鑑ではないもの。つまり空気を伝達する生命とは植物図鑑以外に考えられない。

静に生成する植物、この有機体生命は心を沈静化する精神に作用するアニミズムとしてではなく、中平卓馬は結局日本人は芭蕉に落ち着くということではなく、存在論的な「もの」と視覚の言語化への道を探究して行ったきわめて哲学的な写真家であると思える。対象と己との調和ではなく、その差異を無限に接近していく方法論をとった。このような写真家であるとわたしは思う。

束の間の一生を生きる微分的写真とは、その刹那を捉え己の生成は何処からやって来て、何処へ行こうとするのかその瞬間を撮る。しかしこの瞬間には永遠の過去と今、そして未来も含めすべての時間が一として顕現化してくる。多の無限の出来事を一瞬の裡に定着させる。歴史的な時間を空間化する。写真とはわたしにとって「回帰と起源」をもっと表現することが可能なジャンルであると考えている。



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2017年01月28日

SPANNER-235「その部分はすべてのものが含まれている」

MA-18/SPANNER-235

磁場235






























「部分と全体 / 切り取られた断片」





2016年11月16日

意味作用の消滅「対称-Xであるようなもの」

NLK-05A

2016-11-16_弁天池かも-1



































何を撮ろうとしたのか、
そこに意図はない。
池の水面に映る影、水草の枯れた姿、
秋からやがて冬を向える気配、微かに
見える緑の葉とのコントラストな色彩。
鴨をいっそう引立たすための背景でもない。
いったい何を撮ろうとしたのか、
言表行為の再領土化であるよなもの。

「・・・の意味作用から遠ざかるもの」

であるにしても、確かに見ている。




2016年11月13日

二つの要素と反復「奇妙な記号として差異生成してくる」

PHLK-18


カマキリA2


































記号(カマキリ)の記号(カマキリの影)を見る。
この二つの要素と反復。カマキリを見ているのか
カマキリの影を見ているのか、それは分からない。
反復は奇妙な記号として差異生成してくる。

着地点が不在である。しかしそれが強度として
立ち顕れてくる。統一されたある感覚が生成してくる。
これをシュルレアリスムという。

サルバドール・ダリは:
最もリアルなものこそシュールであるという。
この意味において写真は常にシュールである
その要素を持っている。





2015年12月25日

都市考学「隠された者たち」

TKL-25:隠された者たち

隠された者たち


































「隠された者たち」

そこに在る「者たち」は
すでに隠された声
球体のまま沈黙。

地球の影を模倣する
人類の道は遠近法の
思考で躓く。

それは始まりと終わりのない
円環運動のエナジーを
White Lineで標す





2014年12月23日

分部と全体「無数の外部世界を表象する」

JK-06B2

JK-06B2
















                                                               




  分部と全体

  分部とは何か、
見える「もの」と見えない「もの」

  全体とは何か、

・・の間に起こるもの
「かたちつくられるもの」と、
「かたちつくるもの」

空間と時間は関係性の
秩序として現れる。

知覚の作用によって
無数の外部世界を表象する。

そこに留まることなく無限な移行、
すなわち時空の生成として
表現される現在、

それは過去を含むもの、
未来を孕むものの現在である。



2014年12月05日

スタンリー・キューブリックの空間「一点透視図法の構成とは」

JJ-28-1 / Station

JJ-28-1_Station

































スタンリー・キューブリックの空間
「時計じかけのオレンジ」、「シャイニング」、「2001年宇宙の旅」、「フルメタル・ジャケット」など一点透視図法の空間で無限に続く数列のようで、その始まりは何処か、消失点へと限りなく接近する。わたし達はその消失点に向かって始点移動するが、決して到達することのないエンドレスな空間をみる。始まりを見ることはできない。その消失点の先は遥か太古に向かって、まるでビックバンの宇宙の始まりを、その出来事が脳のなかでイメージされてくる。しかも前面の像を最大限の大きさで見る情景は、さらに未来に向かって無限にエクステンションされ、その像はついにはわたし達の脳のなかに侵入し、それ自らの物体(像)のなかに溶け込んでしまう。空間自体(画面の映像)が身体化される。驚くべき神秘的空間を映像のなかで体験する。

イメージが過去‐現在‐未来として同時に展開する時空は、スタンリー・キューブリック空間の世界である。特に「2001年 宇宙の旅」は驚嘆すべき作品である。その一点透視図法の前で演じられるドラマは、空間的構成との相乗効果によっていっそうスリリングな展開となる。消失点へと向かう眼差しは、無限の過去へ、ワームホールのなかへと、そして現前で展開される出来事は、無限の未来とへと向かう。この未来に向かうベクトルが消失点の始点へと、終わることのないこの円環運動の時空は、イメージの眩暈をともなう。スタンリー・キューブリックの空間は、現実と虚構の境界を運動する神秘の宇宙へと向かう。

フィクションとしての写真
そこでわたしは一点透視図法の構図を写真に撮って見ようとおもった。条件を満たす空間は、人工的な宇宙ステーションのなかで生活する人間の営みがイメージできる、文明を感じるその場所を探した。地下鉄の構内か、高層ビル群を考えた。一点透視図法としては、高層ビル群では空間が広すぎて適切な場所を見つけられなかった。地下鉄の構内は適していたが、空気の層を感じられなかった。空間に浮いている地球というイメージはえられなかった。太陽系に属する地球上に生存する人類を、わが宇宙船地球号を、スタンリー・キューブリック的な一点透視法の空間としてイメージできるこの駅ビルを選んだ。

天井が透明のプレートで空が見える。それを写真のネガのように反転させ、宇宙空間に浮かぶステーションとして処理した。右側の壁も窓の外に見える暗黒の宇宙空間のように処理し、一部カラーにした。モノクロ写真として処理すると、たんなる一点透視図法の構図で社会を反映した写真になり、つまらない。カラー写真にしても映像的な要素がでてこない。そこでわたしは撮った画像を処理し、映像の断片として物語的な要素として見る。そのイメージをつくる写真を、フィクションとしての写真をつくった。




2014年11月03日

鉄道レール「モナドロジー」-2

JJ-27_1DC

JJ-27_1Dc


























「モナドロジー」−2
見える「もの」をコピーするために撮る。つまり写真は、見える「もの」の見えない「もの」を見るために適したツールである。コピーは鏡のようなもので、実体に触れることはない。空気の層みたいなものである。レールはアレゴリー的思考を触発するものとして撮る。そのためには断片的特質(レールの形象)を正確に写し取らねばならない。


2014年10月24日

空間と物質「プラットホームにある長椅子」

JJ-24_1f3

JJ-24_1f3























灰色のコンクリートの床、その上に濃いブラウンに塗られた長椅子、
天上には4つの蛍光灯が取り付けてあった。壁は無造作に塗られた
白い壁、  静かだ。


「モナドロジー」−1
写真を撮ること、絵を描くことの行為は、現象的な存在要素を蒸留し、詩的言語の発生を促すもの。たえず変化する物質の時間的(歴史的)なものを空間化し、あれでもなく、これでもない「もの」を見ること。過去でもあり、現在でもあり、未来でもある。一瞬の永遠を・・全宇宙の「一にして多」、「多にして一」の渾然一体となった構造を探究する。



2014年10月15日

トリスタン・ツァラ「ダダは何も語っていない」−4

JJ-15 / manifeste dada 1918

JJ-15A_トリスタン・ツァラ



























「無意味な模写」

・・ではdadaとは何か。
わたしは語ることが出来ない。

そんなことをしても無-dada
芸術的行為を非-芸術的行為だといっても

無-dada

だからわたしはトリスタン・ツァラの
「ダダ宣言」ページ73に掲載してある
数字をスケッチした。

これはわたしのタダの模写。




掲載画像(JJ-15)は以前鉛筆スケッチした数字に色をつけたものです。
上述した文はその記事の抜粋した部分です。ツァラはなぜか惹き付けるものがある。

『・・理性や約束事によって満たしえなかった全空間のなかに、空気の
要請によって導きいれられる純潔な一微生物なのだ、と』

この文は、「ダダ宣言」のなかの最後の章で「ダダについての講演」です。
これが終わりの文です。すべてを語っているようで、詩的イメージが喚起されてくる、
非常に魅力的な言葉だ。「空気の要請」というイメージからわたしは後に、
作品化している。「忘却の雲の下に隠されたもの」という作品です。



「ダダ宣言」著:トリスタン・ツァラ
訳:小海永二・鈴村和成
発行所:竹内書店(1970年)」参照




2014年10月13日

ヴィトゲンシュタインと荒川修作「あるいは天命反転について」

JI-35C

JI-35C




























線(ワイヤーフレーム)の構成で反転
「X面」と「X'面」について(〜として見える/〜を見る)

しばらく眺めて見る。Xは上面で(垂直の視点)Xを底面として、Xは前面で(水平の視点)
Xを背面〜として見える。ひとつの図形(X面orX'面)が見えても、反転してしまう。
ヴィ
トゲンシュタインの「アヒル、ウサギ」についての論考を幾何学図形として画いて見る。
この反転を空間概念として構築する場合、どのような出来事が生じるのか、構造として考える。

ドアと窓は「内」と「外」の境界、「蝶番」は反転の力学的作用点である。行為は運動、
視覚は地図作成法の「外」と「内」の行為概念をもつ。脳には、空間定位の領野がある。

しかし「アヒル、ウサギ」はどうか。もし空間定位の領野が機能不全に陥ったら
どのように空間を意識するのか。あるいは意図的にその空間定位を操作した設計は、
どのようになるのか。すべてのものがblank(地図が)となり、つまり反転が起きる。

その先は、荒川修作の「建築する身体」にいくのではないか。「意味のメカニズム」から
実践へと建築設計に。すなわち行為概念の構築に命を賭けて思考していたのが、
荒川修作ではなかったか。特に芸大の講演は、まるで岡本太郎が憑依しているような、
情熱をもって語っていた。たぶん他でもそのような講演をしていたのだろう。



2014年10月11日

追憶「その時間は天体と繋がっている」


デュシャンといえば「大ガラス 1915-1923年」と「遺作 1946-1966年」です。この2つの作品、特に遺作は20年もの長い間かけてつくっていた。こういう生き方もかなり魅力的だ。デュシャンのいう生活習慣病からうまく逃れ、空気のような生活をしていた。描くことの時間より思考することの時間を詩人的な方法で作品をつくっていた。「グリーン・ボックス」や「ホワイト・ボックス」の詩的なメモは作品行為と等価であった。見えないものの向こう側を詩的言語でメモしていた。

画家はなぜ病的な絵ばかり描くのか。これはなかなか難しい問題です。ヴァン・ゴッホはどのように考えていたのだろうか。あるいは詩人はどのように社会と対応して生きてきたのか。ボードレール、ランボー、マラルメなど。その時代の空気と反応し、生きた神話をつくろうとその運命に身を任せ、この宿命に生きた人々であった。前人未到のドアを開けてしまい、もう二度と帰ってこない。ニジンスキーの舞踏「牧神の午後」など、神話の世界に踏み込み、わたし達には到達することの出来ない世界を見せてくれる。



JI-30-追憶の扉



























JI-30 / The Door


この未知の扉を勇気をもって開け「独身者の機械」に参加する。あるいはトリスタン・ツァラの空のポケットをもって宇宙の法則に身体を委ねる。言語の光学をもって無秩序の帝王に反逆するロートレ・アモンのように。真夜中のドラマに、『母の禁止にもかかわらず墓にあそびに行く』イジュチュール、この扉の向こう側へと自らの手で開け進む。神の姿を多少とも、ちらっと見ることが出来るかも知れない。盲目となったとしても本望であるという勇気をもって行為する。それは神に選ばれたひとであろう。

あるいは晩年のクロソウスキーのように絵と戯れるのもひとつの方法かもしれない。マティスの「コリウールのフランス窓」は暗闇ではあるが、見えない光りがある。カオスに「からだ」は抗うことは出来ないけれども、この闇黒のなかにこそ星の誕生があり、消滅もあり、ドラマがある。わたし達の「からだ」も1秒たりともそこに留まってはいない。しかし懐かしい思いでは「からだ」が憶えている。その時間は天体と繋がっている。ドアを開けるのは、たった独りだけれども、見えないところで光っている星々と交信している。


2014年10月10日

「何も無い」という出来事は、

JI-31F_The Wall

JI-32F-The wall































「何も無い」という出来事は、

生成途上にある道のようにおもわれる。

しかし「かたち」がそこに現れる予感という「もの」でもない。

空白とは・・セザンヌの余白、

「もの」と「もの」との間に見えない「もの」として現れる
                            空白・・

しかしそれは「もの」として知覚するわけではない。







2014年10月09日

時空の生成-「部分とは全体の断片ではない」

JJ-09_spacetime:


JJ-09_Spacetime

























部分とは全体の断片ではない。
わたし達は、何を見ているのか、
本当はわかっていない。

見えるものは、ずべての「もの」のなかに、
在るのではない。むしろ見えないものが
それを教えてくれる。

無のなかに見えない「もの」が、まるで
次のものを用意しているかのように
闇の光りが身体に感じられる。

そのとき、沈黙は「もの」を永遠に導く
無限の光りを放射する。

わたし達の身体は何億年もの歴史を
記憶している。そのことをとおして言葉にない
無限の時間を瞬時に体験することがある。

芸術とは時間を持たない、空間さえ無い
無限の、とても遠くのあの懐かしい声をきく。




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